□ 二十歳 秋

文字数 2,006文字

 ほんのりと記憶が戻ったのは自分の誕生日の前日だった。これって神様からのプレゼントかしら? だとしたら随分なステキなプレゼントだわ。もちろん、これはイヤミだ。
 今朝、目を開けたら、色々なことが思い出せることに気付いた。私は合原歩、厚山大学の医学生、もうすぐ私の誕生日。あ、もう明日じゃないの。
 いや、そんなことはどうでもいい。
 私はベッドを降りて、勝手知ったるナースステーションへ駆け込んだ。
「加代さん!!」
 姿を見つける前に叫んでしまったが、幸い、求めた人はそこにいた。
「……歩さん……どうしたの?」
 相変わらず、ふわっと加代さんは微笑んで迎えてくれた。だから私は深く考えずに喋り始めていた。
「あのね、思い出した!」
「……何を」
「私、事故に遭ったの!」
「……思い出してしまったんですか」
「私、軽トラックに轢かれちゃったのよ!」
「……」
 急に辺りがシーンとなった。一瞬ここは宇宙空間だろうか、と思うくらいの静けさだった。
 加代さんが目を見張っているのが見える。……え?
「どうしたの?」
「え、いえ……歩さん……そう……」
 加代さんだけでなく、ナースステーションにいた人達皆が固まっている。どうして?
「私も……急に、思い出したから……びっくりしちゃったから……」
 誰に何の言い訳をしているのかも定かでないまま、もごもごと言葉を繋いだ。
 皆の視線を一身に受け止めなければならなくて、私は居心地が悪くて頭を掻いた。何だ、このおかしな空気は……。
「……何か、変?」
「あ、まあ、そうだったんですか……とりあえず、歩さん、今日のバイタル、測りましょう、自分のベッドに戻って下さいな」
 四東病棟の師長の沢上さんが、にこやかに私の腕を取った。大して力を込めてもいないようなのに、私に有無を言わせない圧力がかかった。
「待って、まだ加代さんに」
「それは後にして下さい。伊原さんには別の仕事があるんですから、邪魔しないでくださいね?」
 口調は優しいけれど、何となく凄みがあるのが沢上さんだ。私は慌てて大人しくなった。
 病室までの道のりは、誘拐された宇宙人のような気分だった。……何か私、変なこと言ったの?
「さあ、腕を出して。血圧測ります」
 沢上さんはテキパキと音がしそうなほど素早く動いて私の腕を掴んだ。
「沢上さんが?」
「来たついでですよ」
 私は大人しく血圧を測られ、酸素化を測られ、熱を測られた。
「健康そのものです。記憶も戻ったのなら、もう退院しても良し」
「って主治医に言ってくれる?」
「勿論。歩さんがいると、ベッドが全然回転しませんから」
「そうだよねー」
 私は苦笑いしながら、部屋を出ていく沢上さんを見送った。
 記憶が戻った、という実感を持つことがあるなんて、正直驚いた。他の記憶喪失の人も、こんな風に記憶が戻るんだろうか。
 記憶が戻った、と、理由もなく頭に閃くように理解出来た。私は、私の記憶を取り戻したんだ。それが何の根拠もなく分かった。……こんなの、何だか、ちょっと気持ち悪い。
 私はベッドの上でテレビを見始めた。昨日と同じ、テレビの話題が昨日と連続している。それなのに、私の記憶だけ突如、ぽこん、と頭に降ってきたみたいに分かった。
「歩」
 突然、ノックもなしに人が入ってきた。父だ。こんな失礼な奴は父親しかいない。
「記憶が戻ったと騒いだようだか」
「騒いでいません、ただ、戻ったって分かったからそう言っただけ」
「記憶が戻ったとなぜ分かる」
「何となく」
「……」
 父は顔色を変えるどころか、睫毛一つ動かさずジロっと私を見下ろしていた。
「うまく説明出来ませんけど。でも戻った、と思う」
「じゃあ、昨日、お前、夕飯は何だった」
「大嫌いな五目豆とヒラメのムニエル」
「じゃあ」
「そういうことじゃないの。私、事故に遭ったこと、思い出したって言っているの」
「事故とは?」
「街を歩いてて、軽トラックに轢かれた」
「……ほう。で、なぜ轢かれた」
「え、あー……それは……分からない」
「じゃあ、まだ完全じゃない」
「……」
「まあ、いい。追々思い出せるもんなら思い出してみろ。とりあえず家に帰れ、明日誰かに送らせるから。とにかく、お前が無駄にした時間は二年だ、いいか、二年だぞ。その分、死ぬ気で取り戻せ。いいな、これ以上の停滞は絶対に困る」
「……はい」
 言いたいことだけ言って、父親は背を向けた。と思ったら、一言。
「今夜は喜べ、お前の大好きなポークビーンズだ」
 クソ親父!!
 父は私の反応も見ずにそのまま部屋を出て行った。
 私が豆、大嫌いなの知ってるくせに、何て奴。
 私は、ハッとした。そういえば、父親がこんな冗談、言ったことあっただろうか。
 ……もしかして、父も心配していたのかも、そして私が記憶を取り戻して、案外嬉しいのかも。
 私は退院する前に、灯家リハの庭を思う存分堪能しようと、テレビを消して立ち上がった。
 部屋を一歩出て、あれ、と思った。
 ……二年?
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