□ 十八歳 春(12)
文字数 4,641文字
月曜は医系講義が続く。理工学部の教室を間借りしての講義もすっかり慣れて、まるで自分自身が理工学部生の一人のような顔でうろつくことが出来る。
理工学部は学年全体で一千人以上いる。特に同じ講義を取らない限りは四年間全く顔も名前も知らないままに卒業して行くことが当たり前らしい。それを教えてくれたのは、私が一番苦手な医系物理のチューターだ。彼女が出席カードを集めながら、ぼそっと言ったのをよく覚えている。
何の目的で私にそんなことを言ったのかは未だに分からない。でも大学生活に夢も希望も見いだしていないように見える私に、無理に他人と関わらなくてもいいよ、と言ってくれたんだと勝手に解釈している。
それほど、私が一人なのは、目立つ。理工学部の講義室はどこもとても狭いから、私の周りだけぐるりと空席なのは、とても目立つ。
また火曜がやってきた。電車での通学もさすがに惰性になっていて、考え事をしながら歩いても間違いなく講義室に到着できる。
だからと言って遅刻しない、とは同義じゃない。私は朝、ぼんやりのろのろ歩いていて、いつもの電車を乗り過ごしてしまった。次の下りに乗っても、確実に遅刻だ。
教室に到着したら後ろ側の扉からなるべく音を立てないように自分の席へ向かう。最近の私の固定席には誰か知らない人が座っていた。仕方ないから、その後ろに座る。
本日は二コマ使って社会医学についての講義。社会医学とは、要するに保健所で働く医者ってことだろう。私は興味がないからまた、聞いているようで聞いていなかった。
斜めのずっと下の方にさっちゃんの姿が見える。いつも通り、何事もなかったかのように座っている。右に進藤さん、左は空席。何も変わったところがない。
やっと午前の講義が終わって、私は附属病院の食堂へ歩いて行った。
医学部キャンパスにも学生用食堂はあるし、学生用の売店も品揃え豊富で安い。だからほとんどの学生が附属病院までわざわざ道路を渡ってやってこない。だから、私にとっては安全な場所である。とにかく学生の目がないところで一息つくにはそこしか選択肢がない。
食堂できつねうどんをボソボソ食べながら、ミステリ小説を読んでいた。高校では食事しながら本を読んだり出来なかったから、とても変な感じだ。
でも小説を読んでいる、というポーズをしておかないと、突然誰に話しかけられるか分かったものでない。それが何度か食堂を利用して得た知識だった。患者さんもお見舞いの方も、なぜかすぐに私に話しかけてくる。彼らは私をどう見ているんだろう。
「合原さん」
私は飲み込みかけたうどんを喉に引っ掛けて、思いっきり咳き込んだ。
「な……な……」
顔を上げると、目の前に瀬川さんが立っていた。
「突然話しかけてごめんなさい」
「……いえ」
「合原さんはお昼いつもここだって聞いたから」
誰がそんなことを言ったの。
「私は伝言を伝えにきたの。今日、五限の講義が終わったら、タリーズで待ってるから来て欲しい」
「え……」
「伝えたよ」
瀬川さんはそれだけを言うと、背を向けて足早に立ち去ってしまった。
ちょっと、私の返事聞いてくれないの? 私は慌ててその後ろ姿に声をかけた。
「い、行かないかも」
「有り得ないでしょ」
どういう意味だ?
私は間の抜けた顔つきでそのまま瀬川さんを見送ってしまった。
三限は医学専門講義という名の基礎講座の紹介講義をやっている。ほとんどの講座が総論の導入部をここで話している。
本日は解剖学教室の講義ということで、どの学生も目の色が変わって、熱心に聞いているのが空気感でわかる。
そんな大事な講義なのに私はやはり上の空だった。
瀬川さんの伝言が気になって集中できない。
瀬川さんに伝言を託したのは、考えなくても分かる、さっちゃんだろう。
私のあの失礼な態度を見ても、彼女がまだ私に関わろうとしているのが不思議だった。
一体、何の話があるって言うんだろう。
全く意図が読めない。
ちょっと頭がおかしくなったんじゃないか? 幸せ呆けとか?
後ろ姿は全く変化がない。午前中のさっちゃんと何ら変わらない。
……意味が分からない。いまさら、私と何の話をするの。
それでも、嬉しくないと言ったら明らかな嘘になる。私はさっちゃんからもう一度チャンスを貰えたことが嬉しかった。
もしかしたら、もう一度私の言い訳を聞いてくれるつもりなのかもしれない。
今度こそ、今までの失礼な態度を謝罪して、心を入れ替えて、ちゃんとした友達になるよう努力する。
またおかしなことを口走ったりしないように、私は話すことをノートの端に箇条書きし始めた。
絶対に感情的になって話を終わらせたりしない。私の本心をきちんと話して、さっちゃんと友達に戻りたいと言おう。
本心……真の本心は伏せておこう。これ以上さっちゃんに要らない迷惑をかけてはいけない。
私は絶対に、もう失敗できない。
五限が終わったところで、運が悪いことに、同学年ではない女子学生二人に話しかけられた。
「ねえ、貴方が合原さん?」
「舞山の桐花総合病院の?」
まず名を名乗れよ。あなた方は誰ですか。
「……」
「桐花といえば、私立病院の中では舞山一の病院だよね。すごい人が同じ大学にいるんだねぇ」
「私はてっきり久大に行くんだと思ってた、だって久大の医局派遣が多いんでしょ」
「……」
目的がないなら、解放して欲しい。私はあなた達と雑談する時間なんかない。
「貴方、久大の医局に顔がきくよね?」
「……は?」
「私達、卒業後、久大の医局に入りたいんだぁ、ちょっと口聞いてよ」
「……出来るわけないですよ。私、父とは絶縁してるんで」
「え? そんな」
「無理です」
慌てて辺りを見渡すと、もう誰も教室にいない。
さっちゃんが先に行っちゃった。早く行かないと、待たせたら、いなくなっちゃうかも。
私は二人の不審な女子学生に形式的に会釈すると、二人を避けて歩き出した。
「あ、ちょっと」
無視してどんどん進む。本当は走りたいくらいだが、それはちょっとみっともない気がして、耐えて早足で歩いた。
何なの、名前も名乗らないのに、口利きなんか出来るか。
大体、そんなこと、あの父親がするわけがない。娘すら何ともしてくれないに決まってるのに。
考えると腹が立つから、私はすぐにその出来事を忘れることにした。
タリーズコーヒーは附属病院の正面玄関の先にある。学部エリアからはちょうど敷地の対角線上にあるから、遠い上に学生がほとんど近づかない場所だ。それに学生会館にも喫茶室があってチェーン系コーヒーもどきが安く飲める。
だからここに来る学生は人目を忍んで来ているに決まっている。
広い店内を入り口から見渡しても、見たことがある顔は一つもない。
もしかして、やっぱり帰っちゃった?
「ちょっと、こんなとこで立たないでくれる?」
後ろから声をかけられた。振り返ると、瀬川さんと……進藤さんだ。
「邪魔。早く店内入って」
「あ……ハイ」
どうしよう、この二人と鉢合わせするなんて。
「さっさと歩いてよ。わざわざアンタのために席取っといたのよ、感謝して」
は?
「察しが悪いわね、アンタを呼び出したのは私よ。意図的に繭子に伏せさせたから、アンタ、慧だと思ったんでしょう」
言いながら、進藤さんは店の奥の角席に座った。瀬川さんは私の後ろで立っているし、私も近寄る気になれないから立っていた。
「早く座って。目立ちたいの」
「合原さん、座って」
居丈高な進藤さんと、声は小さいが刺々しい瀬川さんに挟まれて、私はしぶしぶ進藤さんの前に浅く座った。
「何の用」
「分からないの? ま、そうよね、アンタはそんなタイプよね。繭子、なんか買ってきて、三人分」
「私はいらない」
慌てて言うが、瀬川さんは知らん顔して立ち去った。
「さすがのアンタも知ってるよね? 慧が三年の大原さんと付き合い始めたコト」
うなづく労力も惜しくて微動だにしないことにした。
「知らない? ま、それはどうでもいいけど。とにかく……ほら、繭子も座りなよ」
三人分のコーヒーをトレイで持ってきた瀬川さんに進藤さんが自分の隣を顎で示した。本当にこの人は、何でこんな偉そうなんだろう。見た目が可愛い分、毒気が増す気がする。
「とにかく、慧は今、大原さんと付き合ってるの。慧、医学祭で多くの先輩達に告白されて大原さんを選んだってわけ。知らなかった?」
「……」
胸がキュッと痛んだが、理由はよく分からない。
「で、慧、今、とても微妙な立場に立たされてるわけ。大原さんはアンタも知ってる通り、本当に人気者だから、狙ってた先輩達も大勢いるの。分かる?」
「……」
「なるべく、慧は身辺整理をしておかないと足元掬われちゃうでしょ。だから、アンタが目障りなの」
意味が分からない。私と大原さんと何の関係があるの?
「何か言いなさいよ。それともはっきり言われないと分かんない?」
「……」
私は目の前のコーヒーを睨みつけて考えた。でもどれだけ考えても話が全く分からない。今、私は何を発言すべきなの?
「アンタ、慧が好きなんでしょう」
「え?」
「ハ、しらばっくれても分かってるのよ、アンタ、慧に恋愛感情持ってんでしょう、で、ストーカー」
「は?」
心臓が強く跳ね上がった。急に動悸が始まって頭から血が音を立てて下がって行く。
「みんな知ってんだから。アンタ、慧に変態感情持ってんでしょ、だからいっつも慧ばっかジロジロ見て。キッモチ悪いのよ」
「……」
「慧はあんなお人好しだから、アンタが気持ち悪くてもはっきり言えなかったのよ。でも、本当に可哀想なくらい怯えてるんだから。マジで気持ち悪い、助けて、って頼まれたのよ」
「そんな」
どんな意味で言葉が出たのか、自分でも分からない。
「慧に、何とかして欲しいって頼まれたから、今、私がこうして穏便に話してやってんの。慧を逆恨みしたりしないでよ。とにかく気色悪いから本当は大学辞めて欲しいところよ。でもそうしたら慧が後々気に病むかもしれないから、そこまでは言わないわ。でも……って、聞いてるよね?」
「……」
「ま、いいわ、とにかくそういうわけだから。せっかく慧がアンタと距離を取る事で何となく逃げてたのに、アンタが分かろうとしないから、こんなこと私だって言いたくないのよ? ってか、アンタと話すのも気持ち悪いんだから」
「……」
「いい? 今後は教室の端っこの最前列で講義受けて。慧の視界に入らないようにして、そしてアンタの視界に慧が入らないようにして。本当辛いと思うわ、ずっと気持ち悪い視線を浴びながら講義受けるの。慧もよく我慢してたと思う」
「……」
「慧が言えないから、私がこうしてお願いしてんの。分かった? それが守られなかったら、学生課にアンタの変態ぶりを公表して、大学辞めざるをえなくするからね。本気よ、私は慧を守る」
じゃあ、と一方的に捲し立てて、進藤さんは瀬川さんを連れて席を立った。
私は、頭が真っ白なまま、ずっと座っていた。
瀬川さんが買ってくれたコーヒーだと思うと口をつけたくなかったが、コーヒーに罪はないから、一気に煽って席を立った。
どうやって帰ったのか記憶にはないけれど、惰性で帰宅したんだろう。私は電話の鳴る音でハッと意識を取り戻した。
間違い電話?と表示されている。この前の番号だ。
何だろう、どうしてまたかかってきたんだろう。
私は相手が諦めるのをじっと見ていることしかできなかった。