□ 十九歳 秋

文字数 4,498文字

 カサッ。
 ビクッとした。何だ、枯れ葉かぁ。
 開け放たれた窓から、サクラの枯れ葉が舞い込んで音を立てたらしい。びっくりさせないでよね。
 新棟の大会議室は、薄暗くひんやりしている。追試を受けるのは数人しかいないのに、どうしてこんな広い部屋を取る必要があったんだろう。あまりに寂しくて、試験を受ける、というより処刑されている、という感覚になる。
 試験はさっさと書き終わっている。私への配慮なのか、内容はどれもあからさまに簡単で、これで落とす人などいないだろうと思われた。
 車椅子は父親が購入した最高級品だ。でも座り心地は全然良くない。それは精神的な苦痛からきているのかもしれないけれど。
 大学に付き添ってくれているのが母でなくて本当に良かった。母はこの状況に耐えられないに違いない。
「ハイ、ヤメ。じゃあ解答用紙を置いて退出して下さい」
 今日で全てのテストが終了する。最後が医学部キャンパスで良かった。本学の試験の前に医学部に来ていたら、私は試験など受けずに逃げ出したかもしれない。
「歩さん、戻りましょうか」
 父親が試験を受ける為だけにつけてくれた世話係は、主治医の伊原先生のお母さんだ。元看護師だという話だが、どうしてそんな人に依頼したのか全然分からない。スタッフの家族ならどんな無理でも通して良い、とでも思ってんだろうか。
「すみません、宜しくお願いします」
 車椅子を押してもらいながら、また溜息がでた。
 新棟一階の会議室を出て、思っていたより急なスロープを降りていくと、そこに見慣れた人が立っていた。
「合原、ちょっといい?」
「……お久しぶりです」
「うん……」
 宇佐美さんは足元に視線を落としたまま、もごもごと口を動かした。
 ちゃんと直視して欲しい。そんな配慮、かえって患者を傷付けるのに。
 自分が怪我をした事で、色々な事が見えてくる。大学は車椅子だと不便な場所がいっぱいだし、スロープも急だ。憐れみの視線は心に突き刺さるし、申し訳なさそうに振る舞われれば、こっちの方こそ恐縮する。こんな体験でも、将来に役立つかな、というのが今の私の唯一の慰めだ。
「……」
「何の用ですか」
 いつまでも話し出さない宇佐美さんに私は苛立ちが膨れ上がりそうになった。何なの、私は見せ物じゃない。
「ごめん、ちょっとだけ、話、いい?」
「どうぞ」
「あ、あの……」
「歩さんも、あなたも、こんなところで立ち話でもないでしょう。ちょっと移動しませんか?」
 伊原さんが気を利かせて助け舟をだしてくれた。
 銀時計のそばのベンチに車椅子をつけてくれ、宇佐美さんにも座るように促して、伊原さんは言った。
「じゃあ、私は少しカフェテリアでゆっくりさせていただきますね。歩さん、お話が終わりましたらお電話下さい。どうぞゆっくりお話しして下さいね。歩さんも久しぶりの大学ですから」
 後半は宇佐美さんに言う。もしかして彼氏かなんかと勘違いしているのだろうか。伊原さんはさっと立ち去ってしまった。
 時計広場を囲むようにソメイヨシノが植わっている。サクラの葉が数枚落ちていった。ここは市街より寒いから、葉が落ちるのも早い。不規則に音を立てて舞い落ちる枯れ葉を見ていると、ものすごくイライラした。
「話って何ですか」
「まだ、痛む、んだよな」
「当たり前でしょう。私は不死身でもなんでもないんだから」
「そうか……」
「だから、話って何ですか」
「あ、いや……」
「宇佐美さんにも、噂は伝わってるんでしょう。それ以上何が知りたいんですか」
「噂……合原は噂になってる事、知ってるんだ」
「当たり前でしょ。みんな声が大き過ぎるのよ、わざと私に聞かせるつもりなのかと思ったわ」
 本学構内に車輪一つ分入った瞬間から、私達は噂の的になっていた。一体誰がどうして、私の話など広めたのかは分からない。医学生でない人すら、ひそひそと私の話をしているのが聞こえてくる。
 あれが事件の被害者だよ。ああ医学生の?そう、男達に襲われて怪我したらしい。え、私は車に轢かれたって聞いたけど。いやレイプされたらしいよ。えーそんな風には見えないけどアハハ。あの子何しにきたんだろうね。追試受けるらしいよ。何で?大学辞めるんでしょ、テストとか関係なくない?
 雲霞のごとく私と伊原さんを包む囁き声に、本当に気が狂いそうになった。どうして?どうして私がそんな風に言われなければいけないの?私の何が悪くてこんな風に晒されるの?
 あ合原だ、何しにきてんのアイツ。ああ追試だって。マジ?大学辞めねーの?あんなことあったのに?マジで狂ってんなアイツ。フツーの神経なら辞めるっしょ、どんだけ図太いんだよ。
 医学部キャンパスに入った途端に、囁きは黒い悪意に変わっていた。同室で追試を受ける面々からの陰口に私は脳を揺さぶられるような痛みを感じていた。
 佐倉にやられたんだって?違うだろ佐倉が誰かにやらせたらしい。マジで?佐倉もやべーヤツじゃん。違うだろ、そんだけ合原がキモかったんだろ、カワイソー。
 辞められるものなら大学なんて辞めて逃げ出したい。それが出来ないのは、父親のせい?それとも私の意地?こんな思いをして続ける価値などあるはずもない。ここで私が逃げて、誰に私を責める権利があるだろう。
 私はここ数日の思いが一気に吹き上がってきて、強く強く歯を食いしばった。絶対に泣かない。
「さっきの人、お母さん?」
 突然、宇佐美さんが口を開いた。私は反応が遅れて、思わず本当のことを喋ってしまった。
「違います、職員の家族。世話係につけてもらったの」
「あ、そう……それは、良かった……のか」
 宇佐美さんはうなづく。変わらず足元を見つめたまま、全く本題に入る様子がない。仕方がないから私はさらに話を続けた。
「母に噂話を聞かれなくて本当に良かった。偶然、母が来れなかったからだけど、母の耳に入ったら大変な事になってた。……母は私がフラっと道に飛び出して轢かれたと信じているから」
 あの声を聞いたら、母は間違いなく大騒ぎするだろう。陰口を叩いた人間を徹底的に探して処断する。母は上辺からは想像できないような激しい一面がある。……そして件の犯人も追及して全てを明らかにしようとするだろう。そうすることで私の傷が更に深くなるとは考えもせずに。
 宇佐美さんはぼそっと零した。
「……やっぱり、違うんだ」
「違いますよ、それほど馬鹿だと思われるのも不快です」
「そう……」
「……宇佐美さんは、どう聞いているのか、聞いても?」
「あんまり言いたくないな……」
「大体分かってるから、今更聞いてもしょうがないですけど」
「男に襲われて逃げ出した所を、軽トラに撥ねられた」
「すごい、そんな正確に伝わってるんですね」
「……あのさ、今日はそんな話するために、来たんじゃないんだ……」
 深い溜息を吐いて、宇佐美さんは顔を上げた。
「合原……俺じゃダメなの?」
「……は?」
「俺は、合原に絶対こんな思いさせない。少なくとも、こんな風に下らない噂で合原を……泣かせたりしない……」
 気付いた時には遅かった。自覚もなしに涙が溢れて来て、どんどん流れ落ちた。
「俺にそんな、大した力はないかもしれないけど、俺は合原を傷付けたりしたくない……俺、合原を守りたい……ごめん、勝手な事ばっか言ってんな」
「……いえ……」
「俺、正直言って……ずっと合原が好きなんだ、もうだいぶ前から。合原、全然相手にしてないって感じだったから、言えなかったけどさ。いや、本当は別に告白するつもりなかったんだけど……リハビリのために休学するって聞いて……」
「……」
「これは、盗み聞き……たまたま学生課行った時に、聞こえちゃって。そうしたら、言うなら今しか、って思って……合原の都合も考えずに、ここに来てた」
 なんて言えばいいのか全く思いつかない。そもそも、こんな場面、経験したこともなければ、我が身に降りかかるとも思っていなかった。
 まさか、宇佐美さんから、こんな事、言われるとは思わなかった。……すごく嬉しかった。
 服に涙で染みが出来ている。クリーム色のカットソーが汚れた水玉模様になっていく。それが嫌で手で擦ったら、もっと悪化した。
「ごめん、こんな時にさらに悩ませて。でも、言いたかった、ただ言いたかったんだ。……で、いつか、合原が、他の色々な事を考える時に、ついでに思い出してくれれば」
 宇佐美さんは言いながら立ち上がった。このまま言い捨てて立ち去るつもりだろうか。……本当に宇佐美さんらしい。
「あの」
「な、なに」
 宇佐美さんが中途半端に斜めを向いたまま動きを止めた。
「私、その、すごく嬉しいです。ずっと……宇佐美さんにはたくさん助けてもらってたと思うし、すごく嬉しいですけど、あの……私、宇佐美さんはちゃんとした人を選んで欲しい……」
「どういう意味」
 宇佐美さんは眉を顰めて振り返った。
「私、治るかどうか分からないんです。復学出来るかどうかも。どこまで回復するか、分からないんです。今の私は、未来がない」
「ああ……そういう意味」
「ふふ、まさか、お決まりのセリフでも言うと思いましたか?私はもう汚れた身なんで、宇佐美さんには釣り合わないんです、とか?」
「……思った通り、合原って皮肉っぽいよな」
「思った通り?」
「想像を超えて気が強いし、周囲をいつも冷静に窺っているし。自覚してないかもしれないけど、結構冷たい女だと思ってる」
「それって悪口ですよね」
「だから、俺は合原が好きだ。そのめげないところと……でもすぐ泣くところ。俺もこうなったら諦めないから。ずっとしつこく付き纏ってやる」
「え、それって嫌がらせですよ」
「合原は気にしないだろ、どうせ俺なんか。……だから、待ってる、ここで。……リハビリうまくいったら、帰ってきて欲しい」
 私はまた泣きそうだった。それでも負けん気を発揮してぐっと堪えて、口を開いた。
「約束できません」
「え」
「今は、約束できません。今は、さすがに……。でも、宇佐美さんのことは時々思い出して……検討材料にします」
「良かった、ありがとう」
「全然良くないですよ、検討するだけですもん」
 にやっと笑うと、宇佐美さんが驚いたような呆けた顔を見せた。
「合原って……笑うんだな」
「え?どう言う意味ですか、また悪口?」
「違うよ、ホントお前バカだな」
 あまりに長く話していたからか、伊原さんが戻ってきた。
「歩さん、そろそろ戻らないとお体に障ります」
 宇佐美さんは伊原さんに深く会釈すると歩き出した。
「じゃ。合原、またな」
「はい」
 宇佐美さんの去っていく後ろ姿を見ながら、私は全身の痛みとは違う、体内部の突き上げるような痛みに、ぎゅっと耐えた。
「歩さん、大丈夫ですか」
「ええ、お待たせしてすみません」
「まずは顔をこれで拭いて下さいね。……歩さんを泣かせるなんて許せない」
 伊原さんは私にハンカチを渡して、顔を強張らせた。
「違うんです、これは……笑い泣きなの」
「え?」
「本当に。宇佐美さんは……いい人なんです」
 伊原さんはそれには何も返答しなかった。
 私は明日からのリハビリの日々を思って、深く溜息をついた。
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