□ 二十歳 春④

文字数 3,900文字

「ねえ、合原さんってさ」
「……何ですか」
 先週の疲れが取れないままに、また火曜がやってきた。早速解剖学実習が始まる。私は奇妙な懐かしさと、違和感に包まれながら自席で解剖学アトラスを見ていた。
 周りをそっと見回すと、ほとんどの学生がマスクをしている。何故だろう、と思いながら、ま、いいか、とアトラスに視線を落とすと、平尾さんに話しかけられたのだった。
 彼女は私に寄り添うように座っている。距離が近すぎる。一体どんな罠なんだろうこれは。
「ねえ、合原さん、どうしてマスクしないの?」
「え?」
「マスクした方がいいよ、保存液にあてられて気持ち悪くなっちゃうよ?」
「……ああ……そういう……」
 去年はほとんど誰もしていなかった、と思う。周りを見ていなかったから定かではないけれど、少なくとも同班の人は誰もしていなかった。
 たった一学年違うだけでこんなに違う、と変に感心した。たった一年違うだけで、何か全然違う世界に紛れ込んでしまったような気がする。
 平尾さんはまだこちらを見たまま離れない。
「……まだ何か?」
「予備のマスク、あげよっか?」
「え、いや」
「いいよいいよ、あげる。これから色々お世話になると思うから賄賂だよ」
 は? 何を言ってんだこの人は。頭が混乱してしまって反射的に受け取ってしまった。
 早く着けろ、と平尾さんの目が言っている気がして、しぶしぶマスクをする。私の顔にはちょっと大きすぎるんだけどな……かなり鬱陶しい。でも、良い点にもすぐに気付いた。マスクをしていると、私が誰だか分かりにくいだろう。覆面の効果がある。まあいいか。
「でさ、合原さんさ」
 え、まだ何かあるの?
「合原さんてさ、レズなん?」
「っ」
「結構噂になってたよね、前さあ。まあ私的にはどっちでもいいけど、私の事、好きになったらダメよん」
 ファンファンファンファン……
「はい、じゃ、実習始めまーす」
 何か一言でトドメを刺してやろうと頭を回転させ始めた途端にチャイムが鳴った。それとほぼ同時にチューターの院生がプリントを私の目の前にドサっと置いた。
「合原さん、この班の指導役、アテにしてるからね?」
 ふと顔を上げると、去年もいた院生だった。……名前は思い出せないけれど。
 タイミングを外されてしまって、私は平尾さんに何も言えないまま実習が始まってしまった。
 ……どうしよう、もう泣きそう。

「じゃあ、今日はここまでにしよう。みんな残りたいかもしれないけれど、本日は全員撤収してくださーい」
 助教授がマイクを使わずに叫んでいる。あー去年もそうだったな……。
 実習中ずっと全身に力が入っていたのだろう、肩も腰も、ものすごく痛い。……頭痛もするのは、肩凝りのせいばかりでないだろう。
「合原さん、また来週〜」
 平尾さんは私にヒラっと手を振って帰っていった。……え、後片付けは?
 顔と名前が全く一致しない同じ班のメンバーと片付けながら、平尾さんがいなくなったことで内心ホッとしていた。
 平尾さんは実習中も特に変わりなく馴れ馴れしかった。
 本人が先週言っていた通り、それなりに真面目に実習に取り組んでいたし、まるでさっきの発言はなかったことのようにされていた。
 私もあまり心が痛んでいなかった。理由なんか考えたくないし考える必要もないけれど、一因は平尾さんのあの態度にあるだろう。……気にしないんだったら、そもそも言わなきゃいいのに。
 色々考え事をするには全身の痛みが酷い。私は手早く片付けると自分の荷物を雑にバッグに放り込んで、さっさと実習室を飛び出した。
 今日は加代さんの迎えまで随分時間がある。私はふと思いついてリンデンバウムへ行ってみようと足を向けた。
 あの店までの距離を考えると、あまりにも無謀な思いつきだと思う。それでも一度思い出してしまうと、どうしても美冬さんの顔を見たくなった。
 足を交互に意識的に動かす。相変わらず歩幅が広がらない。足を持ち上げる筋力がまだ十分でないから、どうしたって遠くに足をつくことが出来ない。それを回転数で補うように一生懸命前へ向かった。
「だからかぁ、通りでおかしいと思った」
 雷で打たれたような痛みと痺れが全身を貫いた。
 身体が動かなくなった。
 ゆっくりと視線だけ右に向けると、サクラ木立を挟んでゆるやかに並行している小道を四人の学生が歩いていく。
「佐倉が去年折角まとめたのにあの人無くしたんだって」
「佐倉さん、怒ってやって」
「いや、私、まだデータ持ってるから、今度持ってきますよ」
 腹の底から吐き気がせり上がってきた。
「佐倉、甘すぎ、たまにはガツンと言ってやれよ」
「はは、まあ、これくらい大したことじゃないでしょう」
 顔を背けて歩き出せ私。
 突然石像になったように私の全身はピクリとも動かず、彼女らをただ、凝視している。
 話題の中心にいた人がふとこちらを見た。
 急に魔法が解けたように私の身体は温かさを取り戻し、足は突然前へ動き出した。
 早く速く、転んだっていい、とにかく前へ動け。
 私は気持ちだけ脱兎の如く、実際には亀の歩みで目的地へ向かった。

 頭は真っ白だった。脳裏を、歩け歩け、と念仏でも唱えているみたいな自分の声が響く。
 何も考えてはいけない。今はとにかくリンデンバウムへ。あそこは間違いなく安全な場所だ。早く忘れて終え。
 全身に鳥肌が立っているのが感じられる。圧倒的な恐怖と嫌悪感と……間違いなく切なさが身体の中心で混じり合っている。
 大学に通っていればこんなニアミス、これからだって何度もあるだろう。その度に傷付いていたら、全く身が持たない。早く忘れて、何でもない出来事にまで、傷付けられないように、早く強くなれ私。
 どんなに振り切ろうと思っても、その人の姿が目の奥に焼き付いてしまった。今現在の姿が焼き印のように記憶にしっかりと跡を残した。きっとしばらくこれは消えない。癒えるまでどれだけの時間がかかるだろう。
 ただ前に進むことに集中しろ私。ぎゅっと目を瞑って、大きく見開いて、周囲の風景に神経を集中した。
 駅までの道はほとんど変わっていない。相変わらず田舎の田畑ののんびりした風景が広がっている。時折キラリと光るのはカラス除けのために吊り下げられたCDだろうか。その揺れるきらめきを横目で見ながら進む。
 どこかからか肥料の臭いが流れてくる。普段なら眉をしかめそうな酷い匂いだ。だけれど今はそれすらも癒しのように思えた。
 ただただ前を見据え、風景に意識を飛ばして、リンデンバウムへ向かう。何も考えずに向かう。

 はっと気付いたら、もうリンデンバウムのある通りに来ていた。
「え……」
 思わず声が出た。遠目にリンデンバウムのある辺りに黒い人が立っている。いつまでも全く身動きしない。それがやけに異様に見えた。
 私は慌てて、と言ってもそう大したスピードではないけれどそちらに向かって歩いた。気持ちは逸る。急に動悸が早くなった。
 ただ人が立っているだけなのに、それが私に不安を呼び起こしていた。
 やっとリンデンバウムのすぐ目の前まで来た。
 近付くにつれ、その人が長い髪を一つに結び、黒いライダースジャケットと黒デニムに身を包んだ、背の高い女性であることがわかった。
 隣まで来て、それがどこかで見た顔だと気付いた。
 その人はようやく私に気付いた。
「歩ちゃん……」
「え」
「合原歩さん、だよね?」
「……」
 私は答えることが出来ない。貴方は誰?
「美冬に会いに来たの? ……美冬は、もうここには戻れない」
 その人は私には一切視線を向けずに、ぼそりと言った。
「え」
「今度の入院は多分長いし……もう厚山には戻ってこない、おそらく」
 その人はリンデンバウムをじっと見ている。
「……」
 つられるようにリンデンバウムに視線を向ける。リンデンバウムは静かに暗く沈んでいる。今日は休業日?
 リンデンバウムはもう死んだように見えた。
「美冬はもう戻れない」
 またその人は言った。
「美冬は……歩ちゃんのことをとても気にしていた。四月から復学するのに私がいないのは絶対に良くない、って何度も言ってた、調子がいい時は。……まともな時は」
「?」
「ここの賃貸契約も来月末で切れるんだ。だから、もうお終い。店内ももうすぐ誰か来て片付けてしまうんだろう。私の知らないうちに、知らない奴らが、全部きれいになかったことにするんだろう……」
 その人は私に話しているようには見えなかった。ボソボソと自分に言い聞かせるように言葉を継いでいるようにしか思えなかった。
「歩ちゃんに会えて良かった。ここはもう、無くなったんだってことを伝えられて良かった」
 その人とやっと正面から目があった。
 ……あ、やっぱりどこかで……。
「美冬の分まで……歩ちゃんは、強くいて」
 その人はそれだけを言うと、私が来た方へ歩き出した。
「あ、あの」
 その人は振り返らなかったけれど足を止めた。
「貴方は」
「私は、橘咲良(たちばなさくら)。美冬の……比翼になり損ねた人間」
 また歩き出したのを私はぼーっとただ見ていた。
「ヒヨク」
 どんどん後ろ姿が遠くなる。私はもう一度リンデンバウムに視線を向けた。
 もう、美冬さんはここにいない。急にそれが現実感を持って感じられた。
 私は、どれだけ美冬さんを頼りにしていたのか、心の支えにしていたのか、それを今頃になって理解してしまった。

 加代さんに電話をして、リンデンバウムまで迎えに来てもらうことにした。加代さんは一度しか来たことがないのにすぐに了解した。
「あ」
 運転席の加代さんの顔を見た瞬間に、急に思い出した。
 橘さん、理工学部の院生だ。唯一私に声をかけてきた……。
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