□ 十九歳 冬

文字数 3,299文字

 十月に入っても相変わらず私は孤独だった。
 そもそも、九月の終わりまで再試や追試があって、その対象になっていた学生にとっては前期と後期の区切りなどほとんどないに等しいかっただろう。
 私にも一週間くらいしか休みがなく、その休みも母親が遊びに来ていたせいであっという間に過ぎてしまった。
 帰りがけに母親はポツンと言った。
「学生の本分はそもそも勉学に勤しむことよ」
「何、唐突に」
「友達と遊んだりは二の次以下ってこと。一人の時間を大切にしないとね」
 おそらく母は誰からも連絡のこない私を一週間見ていて、相変わらず友人がいないことを悟ったんだろう。
 好きで一人でいるんじゃない。大切にしなくても掃いて捨てるほど、一人の時間はたっぷりある。
 母親に当たり散らしたい気持ちが膨れ上がったが、母親の顔を見てやめた。母は私以上に痛みを堪えているようにみえたから。
「大丈夫、分かってるよ」
「あと、ちゃんと部屋を片付けてね。ママがせっかく片付けたんだから、冬までこれを維持すること」
「健闘します」
 母を迎えにきた家の車を見送って私は溜息をついた。
 さすが母親。あんなぼんやりした人でも分かるんだ、娘のことは。

 後期になっても、医系講義は続く。残念なことに一番嫌な医学英語は後期も変わらず同じグループで行われる。
 宇佐美さんは明らかに私に気を使ってくれていた。井上さんが私に何か厭味を言おうとするたびに、それを遮るように話を進めてくれる。
 井上さんは明らかに不満そうだったが、宇佐美さんだけでなく及川さんも彼女の味方にならないので、ほとんどきついことを言われなくなった。
 宇佐美さんはともかく、及川さんと井上さんが不仲なのは私の目にも明らかだった。原因は全くわからないけれど、私だけでなく五人全員が何となく医学英語の間中、ギクシャクしていた。

 十二月の本学キャンパスの講義は、医学英語で最後だった。よりによって最後が医学英語なんて、と思ったが、とりあえず冬休みに入ることが嬉しくて、それも大して気にならなかった。
 今日はクリスマスイブ。学生は皆浮ついている。特に予定がない人間までもが浮き足立っていて、やたらソワソワしているのが私にまで伝わってきた。
 はっきり分からないけれど、相田くんと井上さんは交際しているようだった。そのことに気付いて、何だか私はホッとしていた。相田くんが井上さんを好きなのはバレバレだったから。これで二人の関心がお互いだけになれば良いし、少しは他人にも優しくなるだろう。
 それだけでなく、私は素直に良かったな、と思えた。こんな日は、不幸な人が多いより、幸せな人が多い方がいい。
 そんなことを考えられるくらい、クリスマスイブの雰囲気は、私すら浮つかせていた。
「合原、ちょい待ち、一緒帰ろうぜ」
 自転車置き場で宇佐美さんに呼び止められた。
「え」
「合原は自転車だろ、俺が押してやるから」
「……結構です。大体、宇佐美さんとは帰宅方向が全く逆ですよね」
「……俺は、ヤマダに用事があって」
「何か話があるなら、ここでして下さい」
「えー……」
 ここは人目を気にする場所じゃなかった。ほとんどの学生は自転車は東門の置き場に停める。ここに停めるのは多くは教員と来客者だ。正門を使って通学している医学生はほぼいない。同じ学年なら……私とさっちゃんだけだ。
「何の用件ですか」
「えー……」
 ふと嫌な考えが浮かんだ。まさか、クリスマスだからって手近なところで手を打とうってんじゃないでしょうね。
「用事、ないんですか?」
「……」
 深い溜息をついて、宇佐美さんは辺りを憚るように見回した。
「まあ、誰もいないからいいか……。……実は、俺、合原にいい情報を持ってるんだ」
「……」
「実は……佐倉、大原さんと付き合ってないらしい」
「? もう別れちゃったんですか……」
「違うよ、そもそも、付き合ってない、って言ってんの。嬉しい?」
「どうして? 私別にさっちゃんの不幸を願ったりしてませんから」
「不幸ってわけじゃないだろ」
「とにかく、そうですか。でも私には関係ないです」
 私は内心の動揺を隠そうと視線を逸らせた。しかしそれは不要だったようだ。宇佐美さんは露骨にがっかりした顔をした。
「相変わらず、無表情だなあ、ちょっとは動揺してくれよ、せっかく調べてきたのに」
 どうせ自分のためでしょ、自分が大原さんの後釜狙ってるだけのくせに。
「それはどうも」
「俺、ずっとなんか変だなって思ってたんだ。佐倉と大原さんが付き合ってるって様子がなかったから」
 まださっちゃんのストーカーまがいのことをしているんだ、と呆れながら、好奇心を止められず、つい、話を促した。
「そもそも一緒にいるのを見たことがなかったし……あ、いや、別にストーキングしてるわけじゃないぜ、たまたまだ」
「はい」
「なんか疑ってないよな? で、俺、佐倉に直接聞いたんだ、火曜」
「えっ……」
「クリスマスだってのに、進藤と瀬川と三人でクリスマス会するみたいな話してたから」
 キュッと胸が痛んだ。大原さんとさっちゃんが一緒にいると聞くより、ずっと痛みが強かった。
「佐倉に、クリスマス、彼氏はいいのか、みたいな感じで……」
 もっと格好よく聞けないのかしら。
「そしたら、彼氏なんかいないって、笑われた。え、でも噂になってんじゃんって言ったら、噂は噂、一度も肯定したことないって。……合原、聞いてる?」
 後ろから殴られたような頭痛がする。
 一度も肯定したことがない?
 でも、進藤さんは……彼女の言ったことと矛盾するじゃないの。
「嬉しい?」
「……宇佐美さんは嬉しいですか?」
「俺のことは置いといて、合原の誤解を解いてやりたいなって思ったから、今こうして」
「全然、さっちゃんのことはどうでも、関係ないですし。……宇佐美さん、良かったですね、私は……」
 突然、声が出なくなった。
「な、何で、泣く? これ、泣くようなこと? ごめん、なんかごめん、いや、まさか合原を泣かせるつもりはなかったんだごめん」
 私は可能な限りの笑顔を作って、深々と頭を下げた。そうすることで、きっと本心を隠すことが出来る。
「宇佐美さん、ありがとうございます、とても良い冬休みになりそうです、では、また年明けに」
 私は自転車に飛び乗ってその場を逃げ出した。

 頭の中がぐちゃぐちゃになって、何が何やらさっぱりだった。
 進藤さんはさっちゃんと大原さんが付き合っているとはっきりあの日私に言った。なのに、実は違う、なんてどういう話なんだろう。ただ、私を遠ざけるために、私に思い知らせるためだけに嘘をついたってことだろうか。
 進藤さん達が勘違いしていることはあり得ない。あれだけ四六時中一緒にいる仲良しなんだから、付き合っていないのに付き合っていると思い込むことなんてあり得ない。
 涙が凍るほどのスピードで家に帰る。頰が冷たさで痛くて痛くてたまらない。しかしその痛みだけが私を正気でいさせてくれている。
 どういうこと? どうしてそんな嘘をついて……あんな風にひどい言われ方をされなければならなかったの。
 あまりにひどい。ひどすぎる。
 それでも、一瞬たりとも、さっちゃんが嫌いだ、とは思わなかった。その時点で私は完敗だ。

 実家に戻って考えてみたら、何か分かるかもしれない、と思っていた。
 でも、そんな時間は私にはなかった。年末年始は父の仕事関係の人間の機嫌をとったり、妹弟のしょうもない話を聞いたり、母のあり得ないような勘違い話を聞いたり、想像を絶する忙しさだった。
 一人きりになることはほとんどなく、自分の部屋には寝に戻るだけで、いつしか大学での出来事は頭の片隅に追いやられていた。……つまり、私にとっては、その程度の話だったということだろう。脳裏にさっちゃんという言葉が浮かぶこともなかった。
 年末年始、珍しく父が自宅にいた。当直でもしに行けばいいのに、鬱陶しいな、と思ったが、私以上に母は憂鬱そうだった。……憂鬱そうに見えた。
 私が大学にいる間に、何かあったのだろうか。むしろそれが気になって、さっちゃんどころではなかった、のが真実かもしれない。
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