□ 二十一歳 冬③

文字数 3,201文字

 雪子さんは私にそっとついて来て、腕を取った。
「歩さん、やめて下さい」
「しっ。静かに。バレるでしょ」
「だから」
「いいから雪子さんはあっちに行ってて。怒られるなら私だけで十分だよ」
 雪子さんを雑に追い払って、私はドアに耳を寄せた。中での会話は想像より大声で、よく聞こえた。
「とにかく、このようなやり方は困ります。きちんとそれなりの場を設定して下さいと申し上げてありましたよね」
 弁護士の先生の声だ。えーっと、何て名前だったかな……。
「だから本日はこうして参ったのですよ。理事会でも閉め出し、幹部会も参加させず、で、進捗状況の報告もない。このまま何も知らせずに結果だけ告知するつもりなのでしょう」
 知らない男性の声。かなり若い感じがする。
「少なくともそちらの代理人を通して連絡していただくのが筋でしょう、違いますか?」
 うちの弁護士が苛々した声をあげる。
神戸(かんべ)先生に相談したって、待ってろの一点張りですからね、もうアテにできないと思っているんですよ」
「だからって勇也さん達が、こうして合原家に押しかける理由にはならないでしょう」
「……とりあえず、まずはそちらの弁護士を通じてきちんと話し合いの場を設けます。調整を宜しくお願いします、吉成(よしなり)先生」
 そうだ、吉成先生だ。って、そうじゃない、今の、ママだよね? 今まで聞いたことのない母親の声に私はぞくっとした。
「今夜は合原も不在ですし、私では何ともお返事が出来ません。私達家族は合原の指示に従うだけですから、このようにいらっしゃって頂いても仕方がありません。どうぞお引き取り下さい」
「早穂さん、貴方の御実家、無事に仕事が出来ているのも、合原のお金のお陰でしょう。恒己さんが援助しているからこそですよね。御実家の皆様は今回の私共の申し出を何とおっしゃっているの?」
 また違う声。妙にガサガサした女性の声だ。あまり心地よい声ではない。
「……どうぞお引き取りを」
「早穂さん」
「そんな質問にお答えするよう言われておりませんから」
「せっかく実家の事業を立て直すために嫌々結婚したのに今更出てこられても困る、といったところかしら」
「……そう言えば、公一さんのお子さんはもう一人いらしたはずですよね?」
 突然母の声がワントーン明るくなった。これは良くない兆しだ。うちの母親は見た目によらず気が強いところがある。明らかに売られた喧嘩を買おうとしている。
「公一さんの取り分なるものをお子さんに譲るとすると、三等分しなければならないのかしら? ねえ吉成先生? 勇也さんと翠さん、そして、祐未さんとおっしゃったかしら、もう一人のお嬢さんは」
「な」
「公一さんは祐未さんを認知していたはずですよね? こうなったら全てを奇麗に整理するべきかしら、ねえ? 先生?」
「奥様、そこまでにして下さい」
 吉成先生が大声で制するが、多分、もう止まらない。
「ねえ久美子さん? こうなったらきっちりさせていただきたいと思います。その方がお互いに禍根を残さずに済みますから」
「……今日のところは失礼しますっ」
 ガタガタっと物音がして私は慌てて廊下の陰に逃げ出した。扉を見ていると、いかにも高そうだけれど派手すぎるワンピース姿の女性と、地味なグレイスーツ姿の男性が足音高く出て来た。
 二人はふんぞり返るように背筋を伸ばして玄関へ向かう。雪子さんが見送りの声をかけるが、それには答えず、ドアをガシャンと激しく閉めていなくなった。
 客間から母と弁護士の声が続いている。
「早穂さん、合原先生になんて言うつもりですか?」
「フン、何なのあの人達。下品な格好で」
「早穂さんっ!」
「あなたも父の話の時にビシッと言ってくれれば良かったのに!」
「私は今は桐花の顧問弁護士です、早穂さんの幼馴染じゃなくて」
「あなたが弁護士になれたのは誰のおかげだと思っているの」
「……いつまでそれを言うつもりですか、本当に信じられない。どうしてこうも気が短いんだろうこの人は」
「だいたい、合原も何を考えているんだろう。私が何も知らないとでも?」
「いいですか、合原先生には絶対に、知っていることを話さないでくださいよ? 合原先生はああ見えて、早穂さん達を守りたい一心で隠してこられたんです、兄二人の隠し子のことも、相続があやふやになっていたことも、全部!」
「……メンドくさいから言わないわよ、それでいいでしょ」
「いいですね、今日のことは私から先生に報告しますから、奥様は何も知らなかったってことで!」
 吉成先生がドアを開けながら厳しく母に言い渡すのを、こそっと見ながら私は廊下で寒さに震えていた。
 母親のあんな声を聞いたことがなかった。母のいかにもわがままなお嬢さん、という振る舞いも、吉成先生と因縁がありそうなことも、ショックだった。
 それ以上に、本当に私達はこれからどうなってしまうのだろうという漠然とした恐怖が、身体の芯を押しつぶすように染み込んできて、息をするのも恐ろしくなっていた。


 部屋に戻っても寒気は治らない。さっきココアも飲んだしお風呂にも長く浸かったのに、ずっと身体の奥から震えが消えない。
 電話が鳴った。そういえば今日は金曜か……。
「はい」
「あゆ、今、大丈夫?」
「……うん」
「あれ、まずかった?」
「ううん、いや……今日は寒いなって」
「そりゃそうでしょ、もう十二月だし……日中晴れてたしね、あ、そっちも晴れてた?」
「うん……たぶん」
「え?」
「何でもないや。うん」
「どうしたの? なんか変だけど」
「さっきまで、招かれざる客が来てたの」
「え?」
「いや、ずっと付き合いのなかった親戚だけど……色々あるのよ、うちって」
「……大変だよね、親戚付き合い。うちもそう、厄介な人達いるよ」
「ごめん……変な話しちゃった」
「いや、あゆが気が済むまで話聞くよ?」
「ううん、いい。こんな話楽しくないし、私自身もしたくないんだ」
「そう……」
 今日は本当に色々あった。このかちゃんの家庭教師をしに行ったつもりが美冬さんに会ったり、さっきの騒ぎだったり……。全部さっちゃんに話してしまえたらどんなに気持ちが楽になるだろう。でも、さっちゃんにとって私はそんな話をしていい相手かどうか分からない。……第一、咲良さんと美冬さんの関係を打ち明けるわけにいかないし。
「あゆ……あのさ、来週の金曜って家庭教師だっけ?」
「うん、その予定だけど」
「橘さんの妹さんだったよね、生徒さんって」
「うん。それがどうしたの?」
「何時まで?」
「一応八時までってことになってるけど、大抵ちょっと遅くなって、家に着くのは九時近いかな」
「……そう。始まるのは?」
「咲良さんが五時頃迎えにきてくれるけど」
「ふーん」
「どうかした?」
「いや、別に……まだ何でもない」
「まだ?」
「何でもないよ」
「気になるんだけど……」
「まあまあ、気にしないで」
 さっちゃんが楽しそうにしているから、まあいいか。どうしてそんなことを今更聞かれたのか、すごく気になるけど……。
 何となくすっきりしないまま当たり障りのない話をして電話を切ったが、私はすぐにモヤモヤしたことを忘れてしまった。母屋から母親の叫び声が聞こえたからだ。
「どうしたの!!」
 思わず部屋を出て母屋に向かって怒鳴る。
「おねーちゃん、きてー!!」
 妹の大声に私は可能な限り急いで声の元へ向かった。


 弟が怪我をして帰ってきたのだった。予備校からの帰りに、自転車同士でぶつかったのだと言う。相手は無灯火だったらしく、母はさっきまでの勢いそのままに警察に届け出ると息巻いていた。
 興奮している母親に救急外来へ連れていくことを指示し、妹に部屋に戻るように言って、私はキッチンへ向かった。こんな時こそお酒の力を借りたい。
 さっき桂馬と目があった時のことを思い出す。桂馬の顔は真っ青で、明らかに嘘をついていると白状していた。
 ……今日はホント、なんて日なんだろう……。
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