□ 四十一歳 冬⑨

文字数 2,041文字

 メールチェックしているつもりだったのにいつの間にか眠ってしまっていたようだ。
「先生、おはよう。週末はゆっくり出来ましたか?」
 結木主査が冷たい目付きで挨拶してくる。二日も休んだことを恨んでいるに違いない。
「先生が二日も休んだせいで、俺が酷い目にあったんですけど? 昨日は課長から三回も電話かかってきて!」
「え? うそ、課長は患者が少ないから大丈夫って私には言ってたのに」
「少ないイコール暇ってことはないって、先生だってよーく分かってんでしょ。やれ、患者連絡票はどこだ、タクシー依頼書はどこだ、終いにはプリンタのインクはどこだって電話かかってきてさ、全然休んだ気がしない」
「それはごめんなさい……ってか、課長、そんなことも知らなかったの? 四月から今まで、何やってたんだろ……」
「知らないよ。ホント、先生に世話を任せたつもりだったのに!」
「本当にごめんなさい、これからは一生懸命頑張りますから、許して下さい」
「お願いしますよ、マジで」
 主査はにこりともせず、自分のパソコンを立ち上げて出勤登録している。その不機嫌な顔を見ていると、ああ、現実に帰ってきたな、とじんわり思った。
 さっきまで慧と一緒にいたことが、まるで起きがけに見た淡い夢のような気がする。全部、自分自身の夢、妄想、作り話のようにしか思えない。私の現実は、これだ。こうして朝から大量のメールを見たり、主査からイヤミを言われたり、課長の尻拭いをしたり、朝からぐったり疲れて始まる、この朝が、本当の私の時間だ。
 課長が甲高い声で、おはよう、おはようと連発しながら事務室を歩いてくる。
「先生、週末はゆっくりできたぁ?」
 私は口の中で、ハイありがとうございます、と呟いて、課長を二度見した。頭が金茶色になっている。
「課長、美容院行かれたんですか?」
「うん、土曜に。思い切って明るくしてみようかと思ってさぁ」
「冬なのに?」
「え? 冬だからでしょ? 天使みたいじゃなーい?」
「……ま、そうとも言いますかね……」
 この人はすごい。こんな忙しい合間でも自分磨きに手を抜かない。でもよく見たら課長が飼っているトイプードルに似ている、と心の中で突っ込んでしまった。
 だんだん職員が揃って、事務室内が騒がしくなってくる。私は、再び、不在の間に溜まってしまったメールチェックを始めた。
「センセ、おはようございます、例の厚山市からの依頼の家族、発生届が出てきましたよ?」
「えっ……」
 後ろから近藤さんの声がして、私は思わずオーバーリアクションで反応してしまう。
「今頃っ?」
「そう、ギリギリ健康観察期間内で良かったですね?」
「そう……やっぱりうつってたんじゃん」
 例の家族は最初のアプローチでは無症状で検査も陰性だった。しかしこちらが健康観察しているうちに微熱が出てきていた。それでも全員検査では陰性だったのだが。
「一番下の男の子だけ陽性でしたよ? 土曜に出て、また母親とお姉ちゃんは観察期間が延びちゃって、ブーブー文句言われました」
「そうだよね……」
「私達絶対もうかかってるから大丈夫、の一点張りで。説得に非常に苦労しました」
「そうは言っても、ルールはルールだし……男の子は三歳だっけ? 隔離できる年齢じゃないし……」
「だから、もうかかってるなら、今後症状が出る可能性はないから、三人で過ごせ、と言っておきました。期間が延びる、とか仕事が、とか言ってましたけど、無理なものは無理、と厳しく言っておきましたよ? それで良かったです?」
「ありがとう……」
 接触者の扱いは本当に難しい。こちらが思いもよらない常識外れな発言をする人間が、驚くほど多い。平気で未就園の幼児を隔離出来る母親もいる。今回の母子がまともな人であることを祈るばかりだ。
 自分だったら絶対無理だわ。息子は小五だけれど、一人では何も出来ない人だし、何より寂しがるに決まっている。体調が悪くて伏せってる息子を一人にするなんて、私は出来そうにない。心配で可哀想で、ついつい顔を見に行ってしまうだろう。……それを職場は許さないだろうけれど。私が長く仕事を休む事は許されない。逆隔離するように言われるのがオチだ。
 そこまで上の空で考えていて、急に頭から水を浴びせられたような幻覚を感じた。
 ……さっきまで、息子を裏切ってたくせに。自分の声が聞こえた気がした。
「疲れてるのかな、幻聴が聞こえる」
「はぁ? 先生、何を唐突に言い出してんの! ビックリするじゃん!」
 独り言を言っていたらしい。主査が呆れた顔で私を見ている。
「いやホント、ちょっとやそっとじゃ、疲れは取れないものなんだねぇ」
「だったら休むな、どうせ疲れが取れないなら、死ぬまで働け」
「えー、それは嫌だよ…」
 結木主査がかなり真顔で言うのを私はゾッとしながら見返していた。
 いつの間にか、始業のチャイムが鳴ったらしい。課長が、朝礼を始めまーす、と大声を出している。
 私はのろのろと立ち、誰の話も聞いてないままに窓の外をぼんやり見ていた。
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