□ 十九歳 夏⑤

文字数 2,607文字

 自分の部屋に戻った時には、もうあまり時間がなくなっていた。慌てて着替えると、私は部屋を飛び出した。
 慌てていつものように自転車の鍵を持って出てしまった。しかし今日は母が買ってくれた例の店のスカートを履いている。少し迷ったが、電車で行くことにして自転車の鍵は鞄にしまった。
 気合を入れ過ぎて、ヒールの高いサンダルを履いて来て、早速後悔した。駅まで歩くにも、歩きにくい。いつもならさっさと歩いていける距離も、ずっと時間がかかってしまった。
 もしかして靴擦れ起こすかも。何となく踵のストラップの肌当たりが良くない気がする。それでも快適さより見た目を、今日は優先したかった。
 駅の改札を抜ける時に、電車が間もなく入ってくるとアナウンスが聞こえた。私は焦って小走りでホームへ駆けつけ、何とか電車に滑り込んだ。
 次の電車だと、約束の時間ギリギリになっちゃうもんね。こんな時、遅刻してはいけない気がする。間に合って良かった。
 耳元でチリっと音がした。例の、マスオのピアスをして来た。美冬さんのお店にもあった、あのピアス。初めてさっちゃんに会った時の思い出のピアスだ。
 さっちゃんの話が良い話であっても、悪い話であっても、私は動揺しないと自分に何度も言い聞かせていた。
 たとえ、さっちゃんから何らかのキツイ言葉を言われても、それは自分の今までの行いから来るもので、さっちゃんを責めるのはお門違いだ。
 さっちゃんの話が自分にとって良くない話だ、と私はあえてそんな風に考えていた。もし楽しい話だと思って会ってみて、それが辛い話だったら、ショックは二倍になってしまうだろう。最初から良くないと覚悟を決めていた方が良い気がしていた。
 電車に乗っている時間はわずか二駅分だ。目的駅にすぐ着いてしまい、私は息が震えそうになるのをぐっと堪えた。
 参道通商店街の中を早足で進む。ササモトドラッグは駅から向かうと商店街の奥の方にある。そこまで行く距離が私には途方もなく遠く感じられた。
 ササモトドラッグに到着した時は、まだ十分前だった。店は明るく元気な音楽が流れ、店の外にまで商品が山積みされて、客もとても多かった。
 となりの店はシャッターが降りて閉まっている。今までこの店がやっているのを見たことがないから、ずっと前に廃店になっているんだろう。私はササモトの前でなく、そのシャッターの前で立っていた。
 夜だというのに空気が倦んで暑かった。焦って歩いて来たからじんわりと汗が滲んでいる。せっかくさっちゃんに会うのに汗でメイクが浮いているんじゃないか、と思いついた。
 いつもは自分の顔など興味がないから、当然女子なら持っているだろうメイク道具は勿論、鏡すら持っていない。仕方なくササモトでこっそり鏡を見てみようと思いついた。
 店内に一歩足を踏み入れると、音楽がどきりとするほど大きな音量で流れていた。店内をゆっくりと化粧品コーナーへ移動する。そこにはメイクをお試しできるようにサンプルがあり、鏡も置かれている。
 私はそっと鏡に顔を移した。うーん、いつもと変わらないような。よく分からない。でも、心配していたほど変じゃない気がする。……まあ、いいか。
 女友達に会うのにメイクを直している、というその不自然な行動を、誰が見ているでもないんだけれど、する勇気がなくて、鏡の前をすぐに離れた。
 いいや、さっちゃんは別に私が綺麗だろうと不細工だろうと気にしないだろう。だって、友達なんだから。……恋人じゃないんだから。
 逃げるように店を出たところで、私の電話がなった。
 え?
 メールが届いていた。さっちゃんからだ。
 ごめん、ちょっと遅れそう。少し待たせるけど、ごめんね。どこかで座って待ってて。
 どこかってどこよ。どれくらい遅れるのよ。私はそのメールを見ながら、心の中で返事をした。
 さっちゃんへ送ったメールには、OKとだけ書いた。それ以上何を書けば良いのか分からなかった。張り詰めていた緊張が一気に溶けて、頭がぼんやりしてしまった。
「あれ、合原さん、こんなところで何してんの?」
 突然、背後から声をかけられた。振り向くと三人の男の人が立っている。
 誰だ、この人。どうして私の名前を知っているの。
「誰かと待ち合わせ? こんなところで?」
「……あの」
 誰ですか、と聞こうとして、もしかしてそれはとても失礼なんじゃないかと思い出して、中途半端に口を噤んだ。
「あ、俺のこと知らない? 同じ学年になった間宮(まみや)、留年生とか興味ないか」
「いや、あの、人の名前と顔を覚えるのが苦手なので」
 適当に言い訳をする。こんな人いたかどうかなんて、全然記憶にない。普段、学内では疑われるのが嫌でキョロキョロしないから、全然覚えられていなかった。
「こっちは分かるっしょ、山下クン。同学年じゃん」
「俺は合原さんと同じ班になったことないし、選択も一緒だったことないし、分かんないか」
「ってか、この人、佐倉のトモダチじゃない? なんか前に佐倉がそう言ってなかった?」
 三人目はかなり年嵩に見える人だった。間宮という人よりも更に偉そうに見えるが一番背が低い。それでも私が見上げるほどの身長で、正直三人に囲まれているのが不安になるくらいだった。
「ああ、じゃあ佐倉さんが待ち合わせているってのは合原さんか」
 山下さんが、抑揚をつけずに言う。
「そうじゃね? ……だよね?」
 間宮という人が私に確認をとる。
「じゃあさ、俺らが佐倉のトコ、案内しよっか? 今、部の打ち上げしてんの、佐倉、人と予定があるからって言ってたし、合原さんもこっちおいでよ」
「え……いや、あの」
「大丈夫大丈夫、そんな大袈裟な集まりじゃねーし、一人二人増えようが減ろうがカンケーねーし。合原さんだってこんなところで待たされて、つまんないだろ?」
「じゃ、山下、先に行って、合原さん連れてくって言っとけ」
「はい、坂野(ばんの)さん」
 山下さんが、先に走って行くのを私はぼんやりと見ていた。
「じゃ、行こうか」
 突然、間宮という人が私の肩に腕を回して来た。
「ちょ」
「さ、行こうぜ、お楽しみが待ってるから」
「思ってたより、カワイイな」
「そりゃあ、佐倉のトモダチっすもん、ねえ?」
 もう酔っ払っているんだろうか。気持ち悪さで目眩がするが、間宮さんは私の肩をがっちり掴み、体を密着させていて自由が効かなかった。
 されるがままに私は二人に連れられて歩き出した。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み