□ 二十一歳 秋②

文字数 5,487文字

 しーんと静まり返った廊下にリクガメみたいに顔を出すと、そっと耳を澄ます。やっぱり母屋から何の音もしない。
 妹と弟は当たり前だが学校へ行っている。今朝、母親が用事があるからと言って自分が運転して二人を連れて行った。母はどこへ行くかも、いつ帰ってくるかも私には言わなかったが、妹に学校に迎えに行くからね、と言っていたから、妹が予備校に行く時間まではおそらく帰って来ないのだろう。
 私はゆっくりと廊下を歩き、母屋に侵入した。弟妹がいる間は母屋に来るな、と言い渡されているから、こんな時でもないと母屋にも行けない。
 ざっと探すがお手伝いさんの姿も見えない。いつもの買い物の時間には早すぎるし、どこに行ったのやら。まあいい、勝手に冷蔵庫の中を漁ろう。
 今朝は変に喉が渇く。理由がわからないから気持ち悪いが、おそらく昨日、フライにソースをかけ過ぎた代償だろう。
 冷蔵庫の中には私が大好きなみかんジュースが入っている。大学に入って、初めて厚山のご当地ジュースを飲んだ時の驚きは今でも続いている。何とも言えない味の濃さが、中毒になるほどなのだ。母はいい顔をしないが、私は勝手に通販で大量購入している。
 母親は大学に纏わる全てのことにいい顔をしない。ちょっとでも厚山っぽい何かが話題になるたびに、露骨に不機嫌になって、その話はお終いにして、と言い出す。
 その気持ちは分からないでもない。でも実際に嫌な思いをしたのも痛い思いをしているのも私なのに。こんな目に遭って初めて母親の愛情を実感できるようになった気がする。
「あらあら歩さん。びっくりしましたよ!」
 お手伝いの雪子さんがキッチンに入ると同時に大きな声を出した。
「ごめんなさい、いきなりこんなところにいて」
「いえ、謝るようなことじゃないですよ! やーですよ、ホントに。ただ、ちょっと驚いただけなんです。でもね、とりあえず、立ったまま飲むのはお行儀が悪すぎますから、さ、座って下さい」
 雪子さんは私のためにダイニングの椅子を引いてくれながら言う。
「そのジュース、もっと大きな規格のものないんでしょうか? そのちっちゃな瓶が溜まってしょうがないんですよ。ほら、ここはガラスの回収日、月一回じゃないですか。瓶の置き場に困っているんですよねぇ」
「って、ママが言ってるの?」
「いーえー、違いますけど……」
「嘘だね、絶対ママが言ってるんだ。ま、いいけど。通販だと贈答用のしかないから、この小瓶のしか手に入らないんだけどね、地元は一リットル瓶のがあるんだよ」
「へぇ、そうなんですね」
「地元の人にとっては『私の血液はみかんジュースで出来ている』って感じなの」
「まあ、そんなに飲まれてるんですか?」
「……さあ、今のはテキトー」
「もう、歩さんったら。……それにしても、歩さん、だいぶお元気になりましたね」
「……そうかな」
「こちらに退院して来られたばかりの頃は、何だかすごくお元気がなくて。……ホント、嬉しいです」
 雪子さんは私が中学生の時から家事をやってくれている。だから私が苦しい時や悲しい時、すぐに気付いてくれる人だ、それこそ母親より先に。雪子さんはいつだって私に甘い。はっきり聞いたことがないけれど、雪子さんの生き別れの妹さんに私が似てるとか何とか、らしい。……嘘だろうと思うけど。
「今日、ママ、どこに行ったか知ってる?」
「いいえ、特にお聞きしませんでしたけど」
「……そろそろまーちゃんが、危ない、とかじゃないよね?」
「違うと思います。ここのところずっと松枝様は落ち着いているとお聞きしていますよ」
 元々雪子さんは母方祖母の身の回りの世話のために雇われていた。だからいまでも祖母のことだけ、松枝様、と様呼びしている。
「……良かった」
「歩さんがお顔を見せるまで、お元気でいらっしゃると思いますよ」
「……」
 そんなワケない。祖母は特に私が嫌いなのだから。
 大嫌いな孫の部屋の下の部屋を充てがわれてから、祖母は色々な病に罹り、一気に身体が衰えていった。ほんの数年前、同居するまでは、百歳以上生きるんじゃないかと噂されるほど若くて元気だったのに。
 祖母が私を憎む理由、それはよく分からない。きっと祖母が死ぬまで、いや死んでも分からないだろう。
 だから、母は絶対私には自分の母親の話をしない。……一体どちらに気遣っているのか知らないけども。
 ま、どうでもいいや。母親も祖母も、父親も妹も弟も。何もかも、今はとても面倒臭い……。
 ピンポーン。とても華やかな音がした。私はこのチャイムの音色が大好きだ。一般的なインターホンの機械的な音と違い、ハンドベルの和音のような音がすごく気に入っている。
「ちょっと応対してきますね」
 雪子さんは言い置いて足早に玄関へ向かった。そしてものの数分で戻ってきた。
「歩さんにお会いになりたいそうで、お若い女性がお二人みえてます」
 雪子さんは怪訝そうな顔を隠しもしないで、私に言う。私も無意識のうちに眉が寄っている。
「誰?」
「それが、とても不審なんです、歩さんが会えば分かるからって。そんなことではお取次出来ないって言いましたのに、すごく……図々しい人で……」
「……私に会いたい人なんかいないよ。今、取り込み中って言ってください」
「とても綺麗な人と、品のいい人なんですけど」
 美人だったら皆善人、ってワケないでしょうが。どうして雪子さんはその場で断らなかったんだろう。
 雪子さんはうなづいて、玄関に戻っていったが、またすぐに戻ってきた。
「どうしても歩さんに会いたいと言って聞き入れなくて……お名前を伺ってきました。セガワさんとシンドウさんとおっしゃるそうです」
 セガワ? シンドウ? 記憶にあるような無いような……。誰だろう。
 私はそもそもほとんど人の名前を思い出せていない。今まで接してきた多くの人達の名前が全然分からない。顔を見て、この人知ってるな、と感じても名前が出て来ないことの方が多い。私はいつまでも考えていても仕方ないな、と玄関に向かった。

 母屋の玄関は無駄に広い。大勢の客が来ても困らないようにスペースがゆったりとってある。その中で、二人はポツンと立っていた。
 私が顔を出すのと同時に二人は文字通り破顔した。ちょっと違和感を感じるほどの笑顔を浮かべて、言った。
「お元気そうね、お久しぶり」
「かなり良くなってますね……」
 確かに、これは門前払い出来ないくらいの美人だ。私は目の前の女性を見ながら、納得した。もう一人はその美人の斜め後ろで控えめに立っているが、こちらも地味ながら整った顔立ちをしている。
「どうしたの? 私達の事、忘れちゃった?」
 美人がにこやかに、しかし妙に押し付けがましく言う。後ろの人は黙って足元を見ている。何だか正反対の二人だ。
「……ごめんなさい、私、その、あまり人の名前と顔を覚えられなくて……」
 私が言うと、美人が笑い出した。
「あはは、そうだよね、ごめんなさい、私達のことなんか思い出したくないよね」
 ん?
「ちょうど、オーケストラのコンサートで舞山市に来たから、ついでに寄ってみたの。本当に合原さんってすごいのね。タクシーの運転手に桐花の合原先生のお嬢さんの同期生だって言ったら、住所も言ってないのにここまで連れてきてくれたわ。……本当に、すごい」
 美人がまくし立てる。顔とギャップがある気がする……。
「とにかく立ち話も何だから、上がらせて?」
 え? 何か……確かに図々しい人だ。
 私は呆気に取られてしまって、ついに客間に二人を通してしまった。
 二人は行儀良く家に上がり込むと、客間のソファに堂々と腰掛けた。まだ座っていいとも言っていないんだけど……。私はだんだん不安になってきた。この二人、何か変だ。
 雪子さんがとっておきのアールグレイを入れて持ってくる。お茶菓子に昨日父親が置いて行ったマドレーヌを持ってきている。……あまり長居してもらいたくないんだけど。
「えっと、お二人は……いつの時の知り合いでしたっけ?」
 私は向かいに座りながら、ついに聞いた。全然二人について記憶がないことを、本当は知られない方が良かったのかもしれない。言ったそばから不安になりながら、でも探りを入れるのも面倒だったから、ずばり聞いてしまった。
「いやね、それって演技?」
 美人が言う。雪子さんがハッとしたように動きを止めた。雪子さんは明らかに顔を顰めている。この二人への不信感を強めたようだ。
「……本当に思い出せないんじゃない? 美咲……」
 地味な方がそっと言う。
「え? そうなの? 都合のいい記憶喪失ねえ」
「あの。……今日はどういう用件で?」
 私は浅く座り直して、出来る限り厳しい顔をして、言った。二人を追い出すことしか、頭に浮かばなかった。何でこんな人達を上げてしまったんだろう、私。
「私、進藤美咲、本当に思い出せない?」
 私は反応しないことにした。……全然記憶にない、なのに何だか胃の向こう側が痛む。記憶の底で、この人は危険人物だと自分の本能が言っている気がする。
「困ったわね。私、今日は、貴方に謝ろうと思ってきたのよ」
「謝る?」
 そんな態度には全然見えないけど。
「私達、厚山大学の医学部で同期だったのよ? 貴方が事故で留年したから、学年は別れたけれど。まだ思い出せない?」
「……で?」
「あの頃、私、合原さんにちょっと意地悪だったと思うの。本当にごめんなさい。合原さんがちょっと羨ましかったの、私。本当に申し訳なかったわ」
「羨ましい?」
「ええ。合原さんはこんなお嬢様だし、成績も良かったし。合原さんが大人しいのもちょっと憎たらしくて」
「……」
「で、あんな不幸な事故があったでしょ、このまま謝らずにいるのは私の良心が許さなくて」
「……あんな、事故」
「お手伝いさんの前でお話ししていいの?」
「いいです」
「あの、歩さん、私、席を外しましょうか?」
「いい、雪子さんもここにいて。……私は大学に入学した以降の記憶がないから、ぜひ貴方の話を聞きたい。でも、一人で聞いたら、信憑性が落ちる。雪子さんと二人分の耳と記憶で確認したい」
 私は身体の奥底から震えが起こってくるのを、全力で押し留めながら、つとめて冷静に言った。もう間違いなくこの二人は、招かれざる客だ。私は一人で二人と対峙するのがとても怖かった。本能的に恐ろしくて堪らなかった。
「そう? あまり他人に聞かせたくない話じゃないかと思うけど」
「いいですから」
「事故のことも覚えていないのね?」
「詳しく教えて下さい、勿体ぶらずに」
「と言っても、私は当事者じゃないから、噂を聞いたにすぎないけれど」
「どうぞ」
「合原さん、夏休み直前に、繁華街で不良に絡まれて暴行を受けたって聞いてるわ」
「……」
 雪子さんがフラッとそばにあった椅子に倒れ込んだのを横目で見ながら、私は自分の中の記憶と照合するのに必死だった。……全然覚えていない。
「で、貴方は運良く、逃げ出すことが出来たのに、逃げている途中で車に撥ねられた、って噂」
「……」
 それは思い出せる。車とぶつかった瞬間は私の記憶にある。……この人は本当のことを言っているんだろうか、もしかして。
「貴方、男達に襲われたんでしょ? 可哀想ってみんな心配していたのよ? 私だったら、とても耐えられない。合原さんって思ったより図太いんだなぁって私びっくりしたの」
 クスクス笑いながら、二人はティーカップを手に取った。そのシンクロぶりに私はぞっとした。
「で、やっと復学したと思ったら、またお休みしたでしょ。本当に私心配で。噂では合原さん、投身自殺した、とか言われてたから、本当にすっごく心配したのよ? ま、それは嘘だったみたいね? まだ十分治りきってなかったからお休みしたのね」
「……」
 勝手なことを言うその口を見ながら、私はどんどん寒気が我慢できなくなっていた。
「それにしても、本当にごめんなさい。私達も合原さんの心を傷つけた一端を担ってるんじゃないかと思ったら、いてもたってもいられなくて。それに、ほら」
 目の前の人物の容姿が美しいのが、一層気持ち悪さを強めている。早く帰って欲しい、というかもう黙って欲しい。
「慧が、貴方をあんな風に傷付けちゃって、本当に可哀想だったわ。私達も慧は酷いと思ったもの。本当にごめんなさい、慧の分まで謝るわ、本当にごめんなさい」
「……」
「でも、結局、貴方、本当に慧が好きだったのね。私、冗談かと思ってたわ。ちょっと気持ち悪いから、ついでに治療したら?」
「いい加減にして下さい!!」
 突然、雪子さんがカフェテーブルを殴りつけた。
「さっきから聞いていれば訳のわからないことを並べ立てて。さっさとお帰り下さい、貴方達は害虫以下だわ!!」
「な、使用人の分際で」
「あんた達に雇われてるワケじゃないから、関係ないわ! さっさと出て行け!!」
 雪子さんは二人を物凄い勢いで追い返すと、塩を撒くわ、と言ってキッチンに塩を取りに行った。塩の入った入れ物ごと戻ってくると、悪はぁ外! と言いながら、塩を大量に撒いているようだ。私はその声を聞きながら、放心していた。
 雪子さんがいつの間にか隣に来ていた。
「歩さん、ちょっと向こうで、何か飲みましょう。ここは後で片付けますから。まずは換気しないと。悪い気が溜まっているから。さ、立って」
 雪子さんに引きづられるようにキッチンへ向かい、さっきまで座っていた椅子に再び腰を下ろした。思わず置きっぱなしになっていたジュースの瓶を手に取る。その重みがゆっくりと私を現実に引き戻していくような気がした。
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