□ 二十一歳 秋⑨

文字数 2,566文字

「本当にお姉ちゃんは何をやってんだか、マジで人騒がせだなぁ」
 香が呆れたような顔でカフェテーブルにどんぶりを置く。わざわざ私のためにうどんを作ってきてくれたらしい。
「ごめん、勉強の邪魔になったね」
「ホントそうだよ。これ、私が秘蔵してた鍋焼きうどんなんだからね!」
「もうすっかり大丈夫なんだけどね……」
「でもキッチンに行きたくないでしょ。ママがすげー怒ってるから」
「……はあ、やっぱり? 雪子さん怒られちゃったかな」
「いや、さすがにそれはないでしょ。だからこそやり場のない怒りで、燃えて燃えてしょうがないんじゃない」
 私がベッドに横になったまま妹とダラダラ会話をしていると、ノックもなしに部屋の扉が開いた。
「香っ! こんなところで何やってるの! 早く部屋に戻りなさい!!」
 母親が入ってきた。やっぱりか。彼女は妹を見た途端に大声で怒鳴った。
「はーい。じゃ、お姉ちゃん、お大事に〜」
 妹はひょいと部屋を出て行った。
「ホント、あんた達は! どれだけママに迷惑をかけたら気が済むの! 大体、歩はどうして出かけたりしたの!?」
「あ、ちょっと散歩だよ。どれだけリハの成果が出ているか、体感したくて」
「だからって緑地公園まで行くことはないでしょ!」
「え、だって懐かしいじゃん、子どもの頃の良き思い出だよ」
「それで倒れてたら世話ないわよ!」
「……すみません」
「とにかく、良くなったんだったらいつまでも横になってないで、さっさとそのうどんを食べて、食器を持ってきなさい」
「はーい」
「明日、橘さんにお礼を言いに行くわよ」
「え? どゆこと?」
「あんたを助けてくれたのは、橘さんよ? 知らなかったの?」
「ってか……」
「ほら、貴方の学校の先輩の、数学オリンピックかなんかで入賞した人じゃないの」
「ええ?!」
「もう、ホント、他人にとことん興味がないんだから。一時期、学校中でもてはやされてたでしょうが、舞山銀行の橘さん」
「舞山銀行?」
「何言ってんの、舞山銀行の今の副頭取の姪御さんでしょ」
「……知らん」
「もう、いいわ、貴方は大人しくついてきなさいよ。明日、お礼に伺うから」
「えー」
「貴方が余計な面倒を起こすからよ。諦めなさい」
 母は足音高く部屋を出て行った。
 はあ、一体、何なんだ、私の交友関係。益生ガラスのお嬢さんに銀行の副頭取の姪っ子。舞山の社交界関係図みたいになっているじゃないの。
 でも、全然私は知らなかったし、だからどうした、って感じ。どんなバックボーンがあろうと美冬さんは美冬さんだし、咲良さんは咲良さんだ。
 私が広場で意識を失った後、咲良さんがどうにかして家に連絡してくれたらしい。家から母と雪子さんが迎えにきて、私は無事に家に帰ってくることが出来た。私が意識を取り戻したのは車の中だから、時間にして十数分の出来事だろう。
 しかし、母が咲良さんを知っていたとは大きな誤算だ。二人にとってまずいことにならないといいけれど。明日お礼に行く? そんな余計なことをして美冬さんの居所を家族に知られたら大変だ。……その前に、連絡しよう。
 母は私たちがたまたまあの場で出会したと思っている。お互い知らないもの同士だと思っている。それを信じ続けてもらうためには、口裏を合わせておかなければいけないだろう。
 私は机に置かれた携帯電話を手に取り、咲良さんの番号に掛けた。
「もしもし、歩ちゃん、大丈夫だった?」
「あ、もしもし、合原ですけど、あ、あの、先程はどうも有難うございました」
「いや、びっくりしたけど、すぐにお家の人に連絡がついて良かったよ。もー、歩ちゃんのお母さんがやたら恐縮して謝ってくれるから、本当に気まずくて。だって私のせいだよね」
「うちの母がすみません、変なところ見せちゃったみたいで。で、その母が明日、咲良さんのお宅にお礼に伺うのなんのって言ってて」
「ええ! もう、これ以上はいいよ、大したことしたワケじゃないし!」
「多分、私が何と言おうと、絶対行くと思うんです。私を伴って。……で、その、その時のことなんですけど」
「どうかした?」
「私達、あの時が初対面だった、ってことにしてもらえませんか?」
「え、どうして」
「うちの母は、厚山大学に纏わることの全てに良い感情を持ってなくて。私が心配ばっかかけているから仕方ないんですけど。あの、厚山で知り合っていたっていうのを伏せておいてもらえませんか」
「……歩ちゃんのお母さんの気持ちはよく分かるよ。それに、私にとっても好都合だし。私と歩ちゃんは美冬を介して知り合っているからね、美冬の存在を伏せておきたいこっちとしても有難い。もちろん、あの時が初対面ってことでオーケーだよ。ただ……」
「何ですか?」
「あ、いや、何でもないんだ、ごめん」
「……そう、ですか。じゃ、じゃあ……明日もうちの母がお騒がせすると思いますけど、どうぞよろしくお願いします」
「え、ああ、もういいんだけどねえ」
 それほど迷惑そうでもない口調で咲良さんは電話を切った。私は、本当は聞きたかったことに触れずに切ったことを少し後悔して、溜息をついた。
 自分が広場で倒れた時のことを思い出す。きっかけは咲良さんの一言だった。今回はちゃんと覚えている。
 サトが自分の目の前で。そう言った。サトと言う人の目の前で私が事故にあったと。
 事故の時のことは最も思い出したくない事柄だ。なぜか、車に撥ねられた瞬間のことはよく思い出せる。軽トラックを運転していた人と一瞬目があったことさえありありと思い出せる。その時にいた人ってこと? あの場には誰もいなかった気がしていたんだけど。
「そう言えば!」
 合原さん、と叫んだ人がいたような気がする。私に注意をしてくれた人が、危ないって言ってくれた人が、いたかもしれない。……その人なんだろうか、サトという人が。
 急に動悸がしてきて、息苦しくなってくる。事故のことを思い出した時とは違う、とても嫌な不安が襲ってくる。……思い出してはいけない名前だった気がして、どうしても拭きれない。
 サト……サト、苗字は何て言うんだろう、私は苗字しか知らない可能性もある。……いや、どうだろう……分からない……。
 これ以上一人で考えない方がいいのは分かっている。それでも胸騒ぎに背中を押されるように私はずっと誰なんだろうと考え続けていた。
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