□ 二十一歳 秋(15)

文字数 1,985文字

 引越ししたおかげで、講義を受けに行くのはとても楽になった。家から歩いて数分、自転車で二分と少しで大講義室に着く。医学部キャンパス内は自転車で入ってもオッケーなのが一番良かった。自転車に乗れるようにリハビリを頑張って本当に良かった、とつくづく思う。
 新しい学年の学生は私の存在に全く無関心なのが不思議だったが、とても居心地良い。同じ入学年度の学生はおらず、だからなのか、私の事を知っている人はいなさそうに見えた。
 二年生の後期の山場は組織学だ。前期で解剖をして人体を俯瞰的に学び、後期の組織学で各々の臓器の正常な状態を学ぶ。臓器を構成する細胞一つ一つの構造やその違いを知ることで異常な状態が分かるようになる。しかし今の私にとって異常も正常も何が何やら、だ。とにかく指示されたことを指示された通りにやるので精一杯で先々のことなど何も考えられない。
 家にいる間に解剖学は繰り返し復習している。その分だけ他の学生よりアドバンテージになっているらしく、講義を聞いていて皆が小さく囁く疑問は、私には全て解答が脳裏に閃く当たり前の常識だった。
「合原さん、でしたっけ、午後の内科総論、私の分、プリント確保してもらっていいですか?」
 突然、話しかけられて心底驚いた。私は思わず周りをキョロキョロしてしまった。まさか自分に話しかけられているとは思わなかったのだ。
「午後もここ座りますよね? いつも合原さん、ここ定位置じゃないですかぁ?」
 一つ空席を挟んで右隣の女子学生がこそこそ言う。
「はあまあ……」
「私、午後、バレエの合わせが入ってて、出席できないんですよ。内科総論、出席カードないじゃないですか? だからサボっても平気かと思って」
「まあそうかも」
「じゃ、お願いします」
「え? いや……お友達に頼めばいいのに……」
「内科出るようなオトモダチはいないんで」
「えっ」
「私の分だけ取っててもらったらいいですから、ヨロシクお願いします」
 思わずポカンとしてしまって、彼女の顔をマジマジと見返す。彼女は平然と私と視線を合わせて真面目な表情で頭を下げた。
 ……まあ、いっか……。プリント二部取るだけだし……。変な人。
 私に言われたくないかもしれないけど、本当に変な人だ。


 翌日、内科総論のプリントを渡そうとわざわざ持って来たのに、頼んだ女子学生はいなかった。というか名前も知らないし、顔も曖昧でよく覚えていない。探そうにも、簡単には見つけられそうになかった。
 結局、私は普段通り上辺だけ真面目な顔付きで講義を受けて、やれやれ帰ろうと自分の自転車に近寄った時だった。
「あの、合原さん」
 また知らない人に声をかけられた。
「昨日、真子のプリント、取っててもらいましたよね? 今、持ってますか?」
 スラリと背が高い、ボーイッシュな身形の女子学生だ。同じ学年の人だろうか。
「……内科総論? 今持ってるけど」
「やったー、さすが合原さん」
「え?」
「サト先輩が言った通り、真面目な人なんだなぁ」
「……」
「プリント下さい、コピーしなきゃなんで」
「え……」
「真子の分を刷り増して、三人分にする約束なんです」
「はぁ」
「あ、合原さんってプリントに板書とかする人です?」
「……あまりしない人、です」
「やっぱりそうなんですね! じゃあ、お礼に先輩から回って来てる内科総論のまとめデータ、今度あげますよ!」
「あ……ありがとう……」
「テストに出るところだけ抜き書きしてある伝統のまとめですよ! もう十年くらい同じところしか出てないんですって!」
「……へえ……」
 やたら元気が有り余っているらしく声も大きければ動きも大きい。プリントを渡した途端に逃げるインパラのように猛スピードでいなくなった。
 一体全体何なんだ……この学年の人達って、何だか、今までと勝手が違いすぎるわ……。
 私は大袈裟に溜息をついて、自転車に跨った。
 さっき聞こえた言葉は気のせいに違いない、と言い聞かせながら。


 さっちゃんには、あの日以来連絡していない。向こうからも連絡はない。それでいい、それでいいんだ、と自分に言い聞かせるたびに身体中がチクチクと痛んだ。あまりに痛くて最初のうちは驚いたけれど、原因は不明で治療方法も特にない。いわゆる心因反応だ。
 しかしリアリティのある痛みに気を取られているうちに、次第に全てがどうでも良くなってきて、復学する頃にはすっかりその存在は遠くなっていた。
「これで良かったんだ……お互いに」
 声に出して言い聞かせる。それはとても嘘臭く聞こえる。
 さっき、ちらりとその名を聞いただけで、こんなに動揺している。またすぐに思い出す、あの日のことを。……自分の失敗を。
「いつになったら、本当に忘れられるんだろうか」
 思わず呟く。自分の声が虚に響くのを聞くだけで、泣けてくる。
 大学に復学しないほうが良かったんじゃないか、そんな気がする。
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