□ 二十歳 夏①

文字数 1,381文字

 誰かの声にフワッと目が覚めた。瞼が重い。このまま眠り続けたい。私は全身を包む眠気のベールに意識を委ねて、再び眠ろうとしていた。
「本当に重ね重ね、ありがとうございました。貴方のおかげで歩は助かったようなものだわ」
 母親の声だ。うるさいなぁ……。人がいい気分で寝ているのに、どうして喋ってるんだろう。ちょっとは気をつかってよ。
「いえ、全然。たまたま居合わせただけですし。……というか……もしかして私のせいかもしれなくて……」
「どういうことかしら」
「あゆ、歩さんは私と別れた後、何かを言いかけていたような気がするんです。私に声をかけようとして足を滑らせたのだったら」
「ならばやっぱり娘が悪いのよ。まだ十分に体が動かせないと分かっていながら慎重さを欠いたのだから」
「でも」
「佐倉さんは気にすることない。むしろ娘の命の恩人だわ。本当にありがとう」
 一体母親は誰と話しているんだろう。なんか……聞いたことがあるような……。
「合原さん、お母さん、ちょっと面談室へ来て下さい」
 また誰か人が増えた?
「あら、何かしら、ごめんなさいね、ちょっと席を外します。歩を見ててもらってもいいかしら」
「勿論です。私はここでもう少し歩さんの様子を見ていきます」
「何のお構いもできなくて申し訳ないわね」
「いえ……」
 誰か、多分、母がどこかへ歩いて行ったようだ。瞼は相変わらず重くて開かないけれど、耳はクリアに働いている。
 誰かがパイプ椅子をベッド側に持ってきた音がした。
「あゆ」
 ……声が近い。
「あゆ、ごめん……私が感情に任せて立ち去ったりしなければ……こんなことにならなかったよね」
 急に鼓動が早くなってきた。何かを思い出しそうで思い出せない。
「あゆ……まさか、このまま目が覚めないなんてこと、無いよね?」
 あるわけないでしょ、だって今もアンタの声、聞いてるし。
「あゆさ、あの時、何を言おうとしてたの? 何か言おうとしてたよね。聞き取れなかったけど、何か言ってたよね?」
 さあ。全然記憶にないけど。何か言いかけた? ……それはいつの話?
「私の気持ちに、もしかして……そんなわけないか」
 誰かが脳味噌を混ぜ合わせているような感じが、頭の中でする。何だ、何か……何か忘れているような気がする。
「本当にごめん……あゆ、お願い、早く目を覚まして」
 何か、私は忘れている。何かを思い出せそうなのに。何だろう、この変な感じは。
 恨むなら、佐倉を恨めよ、アユミちゃん!
「ああっ」
 突然目が開いた。目の前には佐倉慧。
「あ……あ……」
 言葉が出ない。目の前の顔は硬直している。
「アンタが主犯でしょ、嘘つき!」
「あゆ、何を、ってか」
「出て行ってよ!!」
 大声で怒鳴った途端、後頭部を力任せに殴られたような痛みを感じた。
 目が回る……。

 思い出したくない、もう、思い出したくない、何も思い出したくない。何が何だか分からないけど、もう全てを忘れたい。私が大学に入学してから起こった全てを忘れたい。
 誰と話し、誰と笑い、誰に嫌味を言われ、誰に蔑まれ、誰に裏切られたのか。
 どんな目に遭って、どんな痛い思いをして、どんなに心が割れるように苦しんだのか。
 そして、どうしても信じたくなってしまう私の心と、どうしても捨てることができない私の気持ち。
 全て綺麗さっぱり忘れたい。
 ……私の説明し難い想いと、それに纏わる全てを。
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