□ 十八歳 春①

文字数 10,683文字



「あ、あゆみーーー、あ、あ、あなた、どーしちゃったのーーー!!!」
 思った通り、いや、それの何倍も激しく母親は叫んだ。
「どうもしない」
「い、いや、あ、あ」
「うるさいな、いいでしょ、ママが嫌なら部屋に籠るから」
「あ、あ、歩」
 いつまでも馬鹿みたいにわめいている母を、私は予想以上に冷静に眺めていられた。バカじゃないの、驚き過ぎだろ。
 高校卒業式の後の謝恩会的なヤツは、当然行かなかった。当たり前だ、卒業してまで嫌な集まりに出向いてってどうする。そのかわり、その足で美容院へ行った。髪を染めに。
「あゆみ、歩、ね、ね、ママがお金出すから、もう一度行ってきてちょうだい」
 離れの自室へ逃げようとしている私を母は捕まえて、そう言った。
「嫌だよ。髪、傷むでしょ」
「だ、ダメ、それはダメ、ママの目の黒いうちは、ダメ」
「じゃあ、大学行けないわ。この頭じゃなかったら、大学なんか行かない」
「別に行かなくていいわ、その髪の色は絶対ダメ」
「気が向いたら変更します」
 バカじゃないの、私の勝手でしょ、もうすぐ貴女の目に入らなくなるっての。
 そもそも、私が髪を染めてくるって言った時、なぜ色を聞かなかったの。ま、聞かれたって正直に答えるわけがないけど。私が貴女の常識に則って髪を染めてくるって、どうしてそんな事、信じられたのか分からない。今まで私が貴女の意に沿う行動をとった事、あったっけ?
 私はさっさと自分の自室へ逃げ込んだ。離れにある私の部屋まで母の声が聞こえてくる。うるさいなぁ。これが一般的な住宅地だったら即苦情くるわよ。
 舞山市の南の外れ、隣の市との境近くの丘の上に建つ、灯家(とうか)リハビリテーション病院と有料老人ホーム(あかり)の家を見下ろす位置に、我が家は建っている。周囲に建つ住宅はまばらで、ほとんど荒地しかないから、どんな大声を出そうと誰にも文句は言われない。だからって、上品な奥様がそんな奇声をあげるのはどうだろうか。
 この家を父が建てた時、私はまだ小学二年だった。小二の女の子に個室を与える贅沢もさることながら、離れの、義母に与えた部屋の二階に長女を押し込める異様さを、建築士は何も感じなかったんだろうか。確かに母屋と離れは廊下で繋がる大きな一つの家ではあるけれど、明らかに隔離部屋としか思えないだろうに。あの男が娘をどう思いどう扱っているのか、如実に表れてるはず。誰か、たしなめる人間はいなかったのか。
 まぁ、誰も逆らえなかったからこそ、私の部屋はここだし、私はこの隔離部屋を与えられて本当に感謝している、あの父親に。
「あ、お姉ちゃん、マジかー」
 妹がノックもなし挨拶もなしで部屋に入ってきて、うめいた。
「何か用?」
「凄い激しい色に染めてきたねー。ママがショック受けてたよー可哀想だよ」
「どうして」
 アンタまでうるさく言ってくるの。
「だって青だよ、青!!それもオバーサンがよくやってるような紫の白髪染とかだったらまだしも、青!!」
 いや、紫の白髪染って・・・それこそ可笑しいだろ。バカか。
「何で青?ピンクとか赤とか、地味に茶色とかには出来なかったの」
「どれも似合わない」
「いやいや、青も似合ってないって」
「とにかく、もう、やってしまったものはしょうがないでしょ。うるさいよ、早く向こう行って」
「いくら何でも」
「うるさい、あっち行けって!!」
 妹は心底馬鹿にしたような変な顔をして部屋を出て行った。
 鬱陶しい。アンタになんの関係があるんだよ。私の気持ちなんか分からないくせに。もう全てが本当に煩わしい。
 私の気持ちなんか、全く分かってないくせに。文句だけ人並みに言ってくるな。
 私の髪は小学校を卒業する頃から、白髪が目立つようになっていた。初めは中学受験に因るストレスだと言われたし、私もそうかな、と思っていた。しかし中学に入学してどれほどの時間が経っても白髪が減ることはなく、むしろ年々増える一方で、高二の時にはほとんど白髪に置き換わっていた。有難いことに黄色味のないグレーだったので、自分としてはそれほど嫌でもなかったが、家族はものすごく気にしていた。
 とにかく黒く染めろ黒く染めろと毎日言われ、実際、高三になるまでは大人しく染めていた。本当は黒く染めると不気味な日本人形みたいになるから、私の美意識は大いに抵抗していたけれど。ただ、そんな外見如きで誰かと言い争うのも面倒だったから、諦めていたのだ。
 高三になって、本格的に受験生になったら、髪どころではなくなっていた。外見よりも気にしなければならないことが沢山出てきて、家族の誰も私に髪を染める事を強要しなくなってしまった。おかげで野放しになった私の白髪は生活結びに纏められて、まるで老武士のようだったが、それも気にならなかった。
 そもそも、誰もが私のことなど、ある一点を除いて興味を持っていなかった、ずっと。
 私は、勉強して、誰よりも良い成績を取って、親の病院を継ぐ、それしか期待されていなかったし、実際、それ以外の何をしてもまるで空気のように流れてしまっていた。運動会は運動音痴だから添え物だし、学芸会は壁の花レベル、何をやらせても勉強以外はパッとしない。むしろ勉強以外はしない方が良い、という扱いだった。
 私の好みや希望、夢や憧れなど誰も聞いてくれないし、そんな事を言い出す権利も与えられない。私はただ、自分の存在を示すために勉強して、親が期待する通りに医師になり経験を積み、経営を覚えれば良かった。そして、それは私にとっても好都合だった。何しろ、周囲の期待に応えるのはとても簡単だったからだ。
『合原さんって、ホント気持ち悪いよね』
『いっつも無言だし無表情だし、生きてんだか死んでんだが分からないよね』
『あの髪、何あれ、マジで動く悪魔の人形じゃん』
 通っていた女子校の優しい学友達は、そんな風に私を評価してくれていた。むしろそう言われるだけマシだった。大半の人間は私を空気として扱い、残りの人間は忌わしいとあからさまに避けた。教師すら、私のことを忌避しているのは明らかで、誰一人まともに取り合おうとしなかった。そもそも私の日常は、一見非の打ちどころがなく、ひたすら大人しく目立たず真面目だった。
 さらに幸いにも、私は、父親のおかげで明らかないじめには遭わなかった。それが本当に救いだった。父親の七光りだろうと何だろうと、自分を守れるものは何だって利用しない手はない。
 自分が普通でないことは、物心ついた時から知っていた。周りの子よりも多くの事を知り、多くの事を考え、多くの棘を持っていた。
『どうしてこの子は可愛くないんだろう』
 どれだけの人間にそう言われたか、もう覚えてもいない。
 母にはとにかく、愛想、愛嬌、愛らしさを求められた。必要ない事は口に出さず、常にニコニコ笑顔を振りまく。一日中一年中同じ事をずっと言われ続けた。もう言葉として認識する前から頭の中で幻聴のように響いていた。・・・それが出来たらどんなに幸せだったか。努力しても努力しても、どんなに鏡に向かって頑張ってみても、笑顔を何度試みても、私の表情筋は動かなかった。
 おそらく私の表情筋は脳神経と接続していないんだろうと思う。どれだけ嬉しくても、どれほど悲しくても、どんなに怒り狂っても、私の表情は全然変わらず、誰も私に感情があるなんて、気付いてくれなかった。いつだって青白い顔は虚ろで、声は掠れて平坦、私だって、これが自分でなかったら、近づかなかったに違いないと思うほど、不気味だと思う。
 だから、どんな酷い扱いをしても、私は気にしていないと思っているに違いない。私だって、傷付くんだって、感情があるんだって、想像することもなかっただろう。私も意思がある人間なんだって、家族すらも忘れているに違いない。
 だから、髪を染めてやったんだ。どうせ真っ白髪、異様な頭なんだから、とことん奇抜にしたいと思って何が悪い。
 まぁ、青はやり過ぎだったかもしれないけど。
 部屋の隅で曇りきっている全身鏡の前に立って自分を眺める。
 でも、結構似合ってるんじゃない?
 顔も赤みのない真っ青と言ってもいいくらいの白さだから、青でもそれほど違和感がない気がする。むしろ顔の青さが緩和されてるんじゃないかな。
 ・・・やってしまったんだから、今更色々考え込んだってムダだ。

「お姉ちゃんが医学部入ったから、これで桐花(とうか)グループは安泰だね」
 妹がみんなの気持ちを引き立てるように、下らない事を言い出す。
 日頃から家族がよく使っている本格フレンチレストランの、本日は個室をとってもらっていた。私が個室でなかったら絶対に行かない、と言い張ったからだ。事実、私はほとんどこの店に足を踏み入れない。私が存在しているだけで他のお客は味がしないだろうと思うから。
 今日は私の卒業記念のディナーだというのに、やはり父親はいない。よりによって学会だと言う。馬鹿らしい、学会と娘とどちらが大事か考えてみれば自ずと分かるだろ。ああ、学会に決まってるか。
 ま、いいのだ。父がいたら食べた気になれない。あの顔を見ながら食事なんて、正直頼まれたってごめんだわ。
「その髪、お父様になんて言うつもりなの」
 母親はまだ未練がましく言っている。諦めてよ。
「どうせもうしばらく会わないよ」
「お願いだから、次はもっと可愛い色にしてよ」
「じゃあ、ピンクね」
「茶色で」
 どうせ似合わないよ。
「お化粧でもしたら、もっと可愛くなれるから、お願いだから可愛いお嬢さんになって頂戴」
「気が向いたら」
「向けてちょうだい」
「・・・香に期待して下さい」
「私はお姉ちゃんと違って可愛いもん」
「あそ。そりゃ良かった」
「あのさ、早く注文してよ。俺、お腹、無茶苦茶空いてるんだけど」
 弟は家族の会話に全く興味を示さず、メニュー表ばかり見ている。ホント、この人、私が言うのもなんだけど、おかしいよ。
 三歳下の妹と四歳下の弟は、なんだかんだで仲が良く、陽気で明るい性質を持ち、誰からも好かれるタイプだ。能面人形の私とは遺伝子レベルで違う人間だとしか思えないが、二人と私は外見だけを取れば、良く似ている。弟の細工の良いパーツと妹の不細工なパーツを合わせると私になる。三人並べば間違いなく兄弟だと分かる。
 しかし三人とも、両親にはほとんど似ていない。幼い頃はよく三人まとめて川で拾ってきた、などと言われたものだが、信じてしまっても仕方ないくらい、似ていない。
「さっきの話だけど」
 また母親が何か良くない話を蒸し返そうとしている。
「歩は早くお父様のサポートが出来るように、頑張ってちょうだいよ。留年するとか、もっての外よ」
「姉ちゃんが留年なんかするわけないじゃん、勉強しか趣味ないのに」
「桂馬もお姉ちゃんくらい勉強好きだったら良かったね〜」
「・・・別に、普通」
 普通にやって普通に卒業するわよ。何で敢えて頑張らなきゃならないの。たかが地方の病院の跡継ぎくらい、誰だってやれるわ、血が繋がってれば。
 本当に下らない。病院の跡継ぎなんてやりたいって誰が言ったよ?
 ・・・お父様も、同じように思ったのかな。・・・そんなわけないか。あの人は好き好んで跡を継いだに決まってる。
 父は桐花総合病院を診療所から発展させたやり手の院長、合原奏太郎(そうたろう)の三男だった。本来なら跡継ぎになるはずもなかった気楽な立場だったはずなのに、長男が四十になる前に早逝、次男は二十歳かそこらで行方不明、長男が亡くなる時には跡を継ぐ以外の選択肢がなくなっていた。長男が亡くなった当時、奏太郎はまだ存命だったが、それほど長くもないと分かっていた。ある日突然後継者になった父の気持ちを考えると少し哀れな気もするが、そもそも野心家だし、医師としても経営者としても才能がある人だから、きっと棚ボタな運命に喜んだに違いない。
 誰もがそう考えざるを得ない程、父は今も昔も仕事にのめり込んでいた。
「ね、歩、聞いてるの?」
「んあ?」
「真面目に聞いて。ね、厚山大学にはお父様の知り合いだってたくさんいるし、お父様の顔に泥を塗らないように、大人しく可愛く成績良く、やってちょうだいよ」
 嫌だよ。
「姉ちゃんなら、成績良く、は出来るな」
「大人しく、もクリアじゃない?」
「可愛く、が一番重要です」
「何で」
「貴方、一人で桐花をやってくつもり? 貴方は子育てだってあるんだし、当たり前だけど、ちゃんと医者の結婚相手も見つけてきなさいよ。じゃないと、お見合いかなんかで変な医者と結婚しなきゃならなくなるわよ」
「・・・」
「あはは、お姉ちゃん、固まってるよ、ママ、可哀想だよハードル上げすぎ」
「香も笑い事じゃないのよ。貴方はそもそも医学部受かるかどうか、怪しいところだわ」
「私は別にいいもん、お姉ちゃんがいるし」
「何言ってるの、歩だってどうなるか分からないんだからね。もっと大きな病院の跡取りに見染められるかもしれないんだし」
「あは、絶対有り得ないわ〜」
 香は吹き出した。
 何でアンタにそんな笑われないといけないの。そうは思っても口には出さなかった。だって私もあり得ないと思っているから。
 私には、恋愛なんか無縁だ。お見合いしたって無理だ、絶対。

 母親に新生活に必要な物品を買いに行こうと誘われるまで、私は部屋に籠ってひたすら少女小説やマンガを読んで過ごした。人生で初の自堕落な生活だ。やる事が無い、という状況が、私には妙に居心地悪くて気が変になりそうになっていた。
 小説やマンガは妹がいくらでも持っていた。彼女は自室の隣の小部屋を趣味の部屋にしていて、変なマンガや小説をたくさん隠し持っていた。それを彼女は私にこっそり開放してくれ、とにかく恋愛について学べ、と命令した。
 馬鹿じゃないの。無意味だわ。そうは思うものの、やはり興味がないわけでもなく、ついつい借りては読み耽る。ただし、読むのは暗い悲恋物ばかりだった。
 明るい青春恋愛ストーリーは、自分の現状とつい引き比べてしまって痛かった。とてもじゃないが読んでいられない。自分の乾き切った人生と、物語の向こう側の差は、私がそれまで漠然と思っていた以上に大きかった。
 それに比べて悲恋だと分かっているものは良かった。全く自分と重ならない。画面の向こう側で、ひたすら美しい人達が美しい恋愛を繰り広げ、悲しい結末に泣いている。全く私の心は痛まない。時間だけが経過し、後にはみんな孤独だ、という甘い安心感が得られる。こんな良い事はなかった。
「お姉ちゃんさぁ、私が言うのもなんだけど、そんなんばっか読んでないで、ちゃんと学んでる?」
「学んでる学んでる」
「そんなの見ても参考にならないよ」
「分かってる分かってる」
「やる気あるの」
「あるある」
 妹は溜息をつきつつ、それでも私に小部屋の立ち入り禁止は言わなかった。あまりに憐れだったんだと思う。

 母親と買い物に出かけるのは本当に嫌いだ。何しろ趣味が全く合わない。母はいつまでも少女趣味で乙女チック、メルヘンチック、フリルと花柄が絶対必要な人だ。
 私は似合いもしないし、そもそもゴテゴテしているのは好きじゃない。シンプルイズベスト、なるべくあっさりしたものがいい。色もパステルカラーなど冗談じゃない、モノトーンで気分が暗くなるような色がいい。明るい柄物は絶対お断りだ。
「歩、そんなに青が好きなら、せめて水色にしなさい」
 ふと足を止めたセレクトショップのショーウィンドウを見ながら、母は言い出した。
 別に青が好きってわけでもないけど。
「これなんか、どう?」
 彼女が指差したのは、薄い水色のアシメトリーなデザインが変わっていて不思議な雰囲気のワンピースだ。母が選ぶものには思えない。
「ママらしくない。どうしたの」
 彼女は珍しく溜息をついて、白状した。
「お父様が、これが歩にいいんじゃないかと言ってたの」
「はぁ? 気持ち悪い」
「貴方がそんな風に憎まれ口叩くと思ったから言いたくなかったけれど。たまには歩にも綺麗な服を着せろ、って言われたのよ」
「好きでジャージ暮らしなんだけど」
「今度、入学前説明会があるでしょう。その時に、これを着てみたら?」
 値札を見る。かなりいいタンスが買えるほどの値段だ。ありえない。絶対買ってもらおう。
「そうだね、試着してみよう」
 多分人生初、私は自分から店内へ足を踏み入れた。店内はふんわりと良い匂いがする。視界に広がる様々な色彩が私に襲いかかってきて、私はすぐに入店してしまったことを後悔した。
 急に私がやる気を見せたのがよほど嬉しかったのか、母親はさらにあれこれ物色を始めてしまった。いやいや、そんな可愛い奴はいりません。
 視界の端に、キラッと光る何かが目に入った。ピアスだ。キレイに磨かれたショーケースの中に、それはそっと置いてある。他のアクセサリーの添え物のように、ひっそりと存在している。チラッと母を見る。こちらには全く意識を払っていない。よし。
 私は高三になってすぐにピアスを開けた。勉強が忙しいからと部屋に籠っていればバレないと思っていたからだ。そしてその通りだった。誰も私なんか見ていない。透明なファーストピアスを選んだとはいえ、普通の家族なら気付くだろうし、普通の教師、普通のクラスメイトなら気付くだろう。しかし誰も最後まで気付かなかった。みんなを試した私がバカを見ただけだ。
 店の奥にひっそりと置かれているそのピアスは、クリスタルのようだった。長いガラスの連なりの先に小さな花が付いている。綺麗なピアスだ。どうしよう、欲しい。
 値札を見る。それほど高くはないが、自分で買える値段でもない。どうしよう、欲しい。
「歩、何やってるの、早く試着しなさい」
「あ、うん・・・」
「どうしたの?」
「このピアスが欲しいの」
「は? 何言って・・・貴方、いつの間に開けたの!!」
 知らなかった、気付かなかった貴女が悪い。
「全く、とんでもない不良娘だわ」
 怒りを抑えられない母に、上品な中年女性店員がそっと言う。
「このワンピースに良く合うのじゃないかしら」
「・・・ほら、プロが、こう言ってますけど」
「もう、いいわ、めんどうだわ、このワンピース着てくれるなら、このピアスも買います」
「やったっ」
 父親が薦める、というだけで手に取るのも嫌になっているワンピースだが、ピアスのためにと我慢して試着した。
「歩、本当は貴方も女の子だったのねぇ」
 母親がぼんやり言う。色々突っ込みたいところだったが、私自身も同意見だった、正直。
 自分で言うのは大いに憚られるが、これなら何らかの男を釣れるのではないか、などとつい下品な発想をしてしまう。・・・先日の家族の会話が私にはまだ刺さっている。
「同じデザイナーの作品で、こんなものもありますよ」
 店員がここぞとばかりにあれこれ持ってくるが、どれも同じシリーズなのだろう、変わった切り口のシンプルな服だ。これなら、まあ着てやってもいい。
「ニンフ、というテーマなんですよ」
「ああ、やっぱり」
 何のことか分かっていない母を無視して、私は数点のワンピースとスカートを選んだ。初めて私が自分寄りの服を選んだことに気を良くした母親は、金額も気にせず会計している。
「待って、ママ、これも」
 手に持っていたワンピースを更に追加する。ごく淡いピンクと紫の中間色のノースリーブワンピースだ。母は気を良くし過ぎているのか、何も聞かずにそれも買った。
 インナーがないと、透けてて着られないんだけどね。ま、いいか。

 こんな大量に買ってもらったってどうせ着ないと決めていた。母親にピアスを買ってもらう方便だし、最後の思い出に女の子らしい私を見せてやってもいいか、くらいの気持ちだった。全て後で妹にこっそりあげてしまえばいい。どうせ彼女は私より細いままで居続けるだろうから。

 入学前説明会までの時間は思ったよりもすぐに経った。よく考えたら私は後期合格、そんなにのんびりしている時間はなかったのだ。
 父親は病院の車を使って、運転手に運転してもらって行け、と母に言ったらしい。だが長年知っている運転手とは言え、色々気詰まりなのが嫌だったらしく、珍しく母はそれを断った。
 そのため、私達は公共交通機関を乗り継いで、厚山大学医学部キャンパスへ行くことになってしまった。この、母親の決断を、私達二人は大いに後悔した。まぁ後悔したって、文字通り後の祭りだったが。

「どうして、建築計画立てた時、こんな複雑なキャンパスでOKが出たんだろ。全然分からない」
「歩が方向音痴なだけでしょ」
「ママだって、地図持ってるのに全然分かってないじゃん」
「歩よりマシよ」
「五十歩百歩」
 医学部キャンパスの門の中でタクシーを降りてから、私達は延々とケンカしていた。キャンパスまでたどり着くのも本当に大変だったのに、キャンパス内がなぜか複雑怪奇なのだ。
 さらに私にとって悲劇だったのは、例の水色のワンピース姿だと言うことだ。普段着慣れないから何となく息苦しく、歩きづらく、ぴったりと身体に纏わりついてくるのがうっとうしい。
「とにかく、まだ時間はたっぷりあるんだから」
「もう、疲れたよ・・・」
「馬鹿じゃないの、ママは貴方のためについてきたのよ、貴方がそんなこと言ってては駄目じゃない」
「・・・ホント、分かりにくい」
 私と母親は、揃いも揃っておそろしく方向音痴だ。地図なんて見てみたところで、どちらがどちらか分かりゃしない。
 そもそも目印がない。どれも全部似たような建物で似たような気配、似たような周囲の風景だ。これは学生を惑わすために建てた巨大迷路じゃないか。
 そもそも、サクラが多過ぎ。サクラのせいでどこを見渡しても似たような景色にしか見えない。
 大学構内にはそこら中に桜が植えられていた。私の地元ではもうとっくの昔に桜は終わっていたし、ここ厚山市も、今まで通ってきたどこでも、桜の盛りは過ぎていた。
 なのに、ここと来たら。ちょうど今が満開の時期なのか、嫌味たらしくあちこちが薄ピンクに染まっている。
 私は気が重いのに。全然、サクラを愛でる気になどならない。
 何が、サクラサク、だ。全然嬉しくない。
「あの、すみません」
 突然、声をかけられて立ち止まる。何だこの人。
 見るからに大学生、といういでたちの女性だった。あれ、先輩かな。
 先輩だと思うのは、その人がダボッとした白パーカーにデニムという超絶ラフな格好だったからだ。入学前説明会にくる新入生には全く見えない。
 かなり綺麗な人だ。顔のパーツがどれも大きく中性的で、綺麗な二重の目の奥は鋭い光を湛え、見るからに頭が良さそうだ。しかも悔しいことに、長めのショートの髪はサラッサラ。私とは真逆でキラキラした黒髪にかなりイラっとさせられる。
「説明会に来られたんですか?」
 切長の目が親切そうに瞬いている。
「ええ、そう、そうなんです!」
 母親が前のめりに食いつく。恥ずかしい。
「会場までご案内しましょうか?」
「ええ、お願いします!」
 彼女は、にこりとして母親を促した。母は一緒に歩き出しながら、いつも通り図々しく話しかける。
「貴方は何年生なの?」
「ちょ、ちょっとママ、いきなり失礼だよ」
「いえ・・・私も新入生です・・・見えないですかね」
「あら、まあ。全然見えないわ」
「ちょっと! ママっ!」
「いえ、大丈夫です・・・」
 母親は放置すると、ところで貴方何浪なの、などと言い出しそうだったので、慌てて私も口を開く。
「あの、あなたは、説明会は」
「午前の部を聞きました。今日のうちに書類を提出しておこうと思って。その帰りです」
「・・・書類・・・」
 あーめんどくさ。私はとにかく書類提出だの手続きだのが大嫌いだ。聞くだけでゲンナリする。急に気持ちが後ろ向きになる。
「私、ギリギリまで実家で過ごすつもりなので、また改めて書類出しにくるのも面倒だったから」
 軽く肩を竦める仕草がまるで俳優のようだ。
「そうなんですね」
 いったいどういう反応を返せば正解なのか皆目見当もつかない。
「あら、書類の提出があるのね? 歩も今日出して帰ればいいわね」
 いやいや、どんな中身の書類かも分からないのに何を勝手に。
「大したものではないから、出して帰られると楽かもしれませんね」
 いやいやいや、あなたも何を言ってるの。
 でも、めんどくさいからって後回しにしてしまう自分の性格は、よくよく分かっている。今日出せる物は勢いに乗じて出しておいた方が、自分の為にもいいだろう。
「あ、ガイダンス会場はこの階段を上がって、すぐですよ。入り口にスタッフ立ってますから」
 彼女が示したのは、他の建物とは少し趣の異なる白い建物だ。まるで新築の小学校みたいな三階建てだ。外階段を差してにこりと微笑む。その優しい表情をついぼーっと見ていて、母に促される。
「ほら、歩、行くわよ。貴方、本当に有難うございました。あ、まだ名乗ってなかったわね。この子は、合原歩と言います。同じ新入生だから、どうぞ宜しくね。ちょっととっつきにくいところがある変わった子だけど、決して悪い子ではないのよ」
 母親がここぞとばかりに私を売り込む。いや、やめて。別に友達欲しいわけじゃないから。好きで一匹オオカミなんだから。ちょっと!
「私は佐倉慧です。合原さん、こちらこそ、どうぞ宜しくね」
 彼女は私の目を真っ直ぐ覗き込んで、にっこり笑った。それがまるで大輪の・・・そうカサブランカみたいに思え、私は人生初の経験に戸惑いを感じた。
 ・・・何なの、この人。

 私は物心ついてから今日まで一度も、他人と親しく会話をした事がない。誰ともだ。いつだって人間は私を遠巻きにして、何か私の周囲には半透明な幕が貼られている感じがした。人と会話しても、私の言葉が相手にはまるで聞こえていないんじゃないか、と思うような手応えのなさや、相手には私の姿が見えていないんじゃないか、と思うような頼りなさがあった。誰も、それは家族すらも「私」を見ていない、そんな感覚がずっとあって、だから私は人間と意思疎通するのを諦めていた。
 しかし、佐倉慧と名乗ったこの女性は、何かが違っていた。私の目をきちんと真っ直ぐ見て、私を視線で突き刺して、私にはっきりと声を掛けた。
 透明な幕なんか初めから無かったかのように、剥き身の私に直接言葉をかけた。まるで私を声で串刺しにしようとしているように、真っ直ぐ、私に笑った。
 私は、生まれて初めて、人間を本当に、怖い、と認識した。
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