□ 二十歳 春⑧

文字数 3,171文字

 ゴールデンウィークが終わると、すぐに皆は医学祭に向けてそわそわしだす。どうせ私には関係ないから、と思ってはみるものの、みんなが浮き足立ってくると、その分私への風当たりが明らかに弱まるので嬉しかった。
 留年生のなかにも医学祭を楽しみにしている人達が多い。部活繋がりで役割がある人もいるし、医学祭をコンパか何かと捉えている人もいて、そんな人達はやたら気合いが入っている。そう、その代表が綾さんだ。
「歩は医学祭、忙しいの」
「そうですね」
「ウソ、絶対今、ウソ言った」
「何でウソだと思うんですか」
「だって、歩、去年も医学祭に来てなかったよね? 今年も来ないでしょ、どうせ」
「……」
「今年はうちらと一緒に回らない?」
「遠慮します」
「え、何で? いいじゃん、歩もおいでよー」
「……今年は、まだ体調良くないからパスです」
「あ、そっか。じゃ、来年は一緒に回ろ」
 どうしても不信感がある。綾さんの真意がどうにも掴めない。いい人そうに振る舞ってはいるけれど、目が冷ややかに光る時も多いし、私にベタベタする目的も未だに分からない。表面上の振る舞いに騙されてはいけない気がする。
 ただ、明らかに綾さんの存在に救われていた。解剖学実習は遅々として進まないけれど、上手にチューターを手伝わせてギリギリの進捗を守っている。どう考えてもサボっている時間が長すぎるけれど、彼女がいれば平山君もサボらず黙々と作業をしてくれるし、時々他の班員を強引に連れて来てもくれる。
 私はすでに綾さんの馴れ馴れしさにも慣れてきていた。
「あの、俺、今日はこれで」
 三限の終了のチャイムが鳴った途端に平山君が立ち上がった。
「え、何で? 困るう」
「や、今日はこれから部で使う道具のレンタルしてこなきゃなんで」
「えー、そんなの一年にやらせたら?」
「いや、金額結構いくんで、一年には任せられないから」
 綾さんが引き留めるのも気にせず、彼はさっさと帰って行った。
「歩と二人になっちゃったね。私達も、もう帰るか」
「……綾さん、帰っていいですよ」
「冗談だよ、もう、つまんないな歩」
「……」
「そっか、もう医学祭、来週末か。そろそろどこの部活も準備本格的にやってるよね」
「……」
「ちょっと、相槌くらい打ちなさいよ」
「……はあ」
 私は手を止めることなく気のない返事を返した。平山君が抜けた穴を私が埋めなければ、来週以降、私が困ることになる。
「ねえねえあのさ歩」
 突然、綾さんがべったりと隣にくっついて来た。私は思わず退けぞって距離を取ったが、綾さんが無理やりそれを引き戻した。
「せっかく二人になったから、ずっと言おうと思ってたことを話すね」
「え?」
「あーあのさ……まず、前提として、私、佐倉慧が大嫌いなんだよね、知ってるよね? とにかく私アイツ本当に嫌いなんだ」
「……」
 急に顔がカッと火照った。心の準備をしていなかったから動揺を隠す事も出来なかった。
「嫌いなんだけど……だからって間違っていることは間違ってると思うから、だから歩に話したいんだ」
「……」
 私は何事もなかったかのように作業を続行した。
「私、佐倉は犯人じゃない、と思う」
「……」
「私、アンタが事故った日、佐倉を目撃してるんだ」
「……」
「ウチのオケ部の連中が佐倉を取り囲んでるのを見たんだ」
「っ」
 反応するつもりがなかったのに、思わず手元が狂って、メスが私の左の人差し指に突き刺さった。
「あ、歩何やってんの、早く洗え、化膿するよっ」
 アンタが私を驚かせたんでしょうが。私は慌てて手洗い場で手を洗った。血が止まらない。水道に指を晒しているとピンク色の水がどんどん排水溝に吸い込まれていく。
「バカ、何やってんの、もういいから、こっち戻れ」
 綾さんが私を強引に連れ戻さなかったら、私はいつまでも傷を水道で洗っていただろう。
「ほら、バンソコ持ってる? これあげるから」
 綾さんは私にちょっと古い絆創膏を押し付けると、改めて話し始めた。……私が聞きたくないってこと、気付かないんだろうか。
「知ってるかもしれないけど、私、黄金町でクラブのホステスしてるんだよね。で、あの日も出勤してたんだけど、何時くらいだったかな、まだ日が沈んてすぐだったと思うけど、参道通の駅側の入り口でさ、騒いでる学生達を見かけたわけ。ふっと見たら、ほら、五年の大原さん、あの人がいて、で、オケ部だなーって思ったんだけど。その中に佐倉がいてさ、結構マジギレしてたから、覚えてるんだ」
 オケ部。オーケストラ部。室内合奏の部活。……大原さんがオケ部なのは知らなかった、けど、進藤美咲がオケ部だ……。
「急いでるんで、どいて下さい、とか、止めて下さい、とか言ってたと思ったら、ふざけんなどけよ!って叫んで、マジでビックリしたって言うか……あんまり面白い光景だったから、めっちゃジロジロ見てたんだけど、多分十人以上あの場にいたと思うんだけど、全然佐倉を放してやんなくて、ちょっとヤバイ感じだったんだよね、あれは通報されちゃうんじゃないかってくらい。結局私、遅刻できないからその場を離れたけど、あの感じだと、なんていうか、佐倉はアンタに会いに行こうとしてたんじゃないかと思うんだよね」
 綾さんはやっと口を閉じた。ジロリと私の反応を伺っている。綾さんの顔は視界の端で真っ青に見えた。
「……もうどうでもいいことです。真相がどうであれ、首謀者が誰であれ、起こった事実と結果は変わらない」
 怒りからだろうか、寒さだろうか、身体中が細かく震えて言葉が音にならない。それでも綾さんはすぐ隣にいるからか、ちゃんと聞こえたようだった。
「私、すんごいモヤつくから、この話、この間警察に話したんだ、大学に水商売のこと、秘密にしてくれるって言ってたし。だから……もうすぐ犯人捕まるんじゃないかな」
 綾さんは、すっと体を離した。
「……私には関係ない。私の中では、なかったことになっているから」
「……そうか」
「私、帰ります」
 唐突に宣言した。そう、この指では、解剖実習など出来ない。……こんな話を聞かされて、実習なんて出来ない。
「え、歩!」
 綾さんが慌てて私に手を伸ばし、それは空を掴んだ。
「また来週。あとはよろしくお願いします」
 私は思いっきり足を引きずっているのも隠せずその場を逃げ出した。

 分からない、わからない。もう何が何だか、全然分からない。
 綾さんの話が真実である保証はない。でも嘘だと決める証拠もない。
 ただ、分かっていることはただ一つ。
 犯人はあの時、佐倉さんに頼まれた、と言った。佐倉さんが可哀想だから、やるんだ、と。
 犯人達の、佐倉さん、という声だけが鮮明に耳の奥で響いている。
 犯人が誰なのか、思い出せない。それが分かれば、もっと色々判るはずなのに。
 でも、間違いなく、佐倉さん、と言っていた。
 だから、関係ないなんて、絶対にありえない。

 親には、何かあったらタクシーで帰るように言われていた。今日は何かあった日、だろうか。私は電車で帰る気力がどうしてもわかず、とぼとぼと病院の正面玄関前のタクシー溜まりに向かった。
 そういえば、入学説明会のあの日、私はここでタクシーを降りた。……あれが全ての間違いだったんだろう。
 ちらっと振り仰ぐと、サクラは全て花が落ち、瑞々しい若葉が繁っている。なのに、満開のサクラの幻影が見えるような気がした。
 タクシーは一台しか停まっていなかった。もう外来も全て終了していて、いつもは客が来ない時間なんだろう。私がその一台に近づくと、運転手はやけに驚いた顔をして、後部ドアを開けてくれた。
「あゆ!」
 ドアを閉めるのと同時に、何か聞こえた。幻聴かな。
「お客さん、知り合い? いいの?」
「いえ、人違いじゃないですかね」
 私は自分の住所を早口で告げると、座席に深く体を沈めて目を瞑った。
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