□ 十九歳 夏①

文字数 2,461文字

 二年になったからといって、大学生活はほとんど変化しない。それどころか、むしろ悪化したような気がする。
 一年間見慣れた顔ぶれに、新たな仲間、つまり留年生を加えて、空気感はなんとなく打ち砕けたものになっていた。
 ただ、私にとっては、苦痛が増した。問題は留年生が私の存在に慣れていないこと。彼らは、見るからに異分子である私に興味を示した。そのせいで、下らない中傷や噂話や、色々な不愉快な話し声が、また聞こえてくるようになった。
 さらに、二年になり解剖学実習が始まった。それが最も悪だ。また出席番号順に六人班にされた。
 去年までの五人に一人、甲斐田(かいだ)さんという大人しい女性が班に加わった。甲斐田さんは、元の班では目立たない静かな人だったが、私達の班に加わって、さらに無口になった。
 井上さんは甲斐田さんも気に入らないようだった。根暗だ、とか、陰気だ、とか、本人にもはっきり言ってしまう。そうすると、また及川さんが怒り出して、いつでもうちの班は、ギスギスしていた。たまに相田くんがおかしなタイミングで及川さんに文句を言うものだから、なおさらだった。
 宇佐美さんは相変わらず、うまく中立を保っていた。それでも私に対して井上さんがヒステリックに突っかかる時などは、まぁまぁとりあえず解剖やれよ、などと言って助けてはくれる。さっちゃんは、その様子を見ていたのか、ますます宇佐美さんを信頼するようになっていた。
「やっぱり、宇佐美さんは、ちゃんと人を見る目があるね。あゆの事、安心して任せられるわ」
 そうかなぁ、単に自分がさっちゃんに対して点数稼ぎたいだけでしょ。下心みえみえなんだけど。
 そうは思っても、やはり宇佐美さんの存在は私にとっては有難くて、だからちょっとだけ、ほんの時々だけど、さっちゃんと宇佐美さんが付き合うならいいかな、などと思う時もある。
「まぁ、宇佐美さん、悪い人ではないよ。うん」
「え、どうしたの、あゆ。あゆは点数辛すぎじゃない、宇佐美さんはよくやってくれてるよ」
「いや、さっちゃんも、結構偉そうだよ」
「あは、だって、私、宇佐美さんの事、あゆのガードマンくらいに思ってるから」
「いやいやいやいや、それは失礼でしょ」
「でもさ、ちょっと、心配してたから、安心した」
「え、どうして?」
「あゆの班、甲斐田さんがいるでしょう。彼女、ちょっと……」
 さっちゃんが誰かを悪く言うのは初めてな気がする。
「どうしたの、さっちゃんがそんな言い方するなんて、珍しい」
「……本当は言いたくなかったんだけど、でも、知らなかったらあゆがまた傷付けられるかもしれないし……甲斐田さん、美咲と幼馴染なの」
「え……」
「彼女、二浪してるでしょ。それも、なんか美咲のためとかなんとか……まさかとは思うけど。とにかく、甲斐田さんは美咲と仲がすごく良くて、何考えてるか読めないから、気をつけてね……」
「進藤さんと甲斐田さんが一緒にいるところとか、見たことないけど」
「あの人、陸部だから、私は、時々見てた、よ? ……ホントはあゆを不安にさせたくなかったけど、よりによって甲斐田さんがあゆの班だから、さ」
小山田(おやまだ)さんが大学辞めちゃったからね」
「……マジで注意してね。でないと、今、敢えてあゆに話した意味がない」
 さっちゃんの声は私を震え上がらせるのに十分な真剣さだった。

 さっちゃんに脅されて以来、私は甲斐田さんの言動に細心の注意を払った。それでも、彼女の行動に不審なところはない。いつだってちょっと陰気で、黙々と作業をするばかりだった。
 うちの班は不仲なのが功を奏したのか、どの班よりも作業は進んでいた。疑問や質問に答えてくれるチューター役の院生達も、私達の班がどんどん作業を進めていくのを、半ば呆れて驚いていた。
「次からは頭部に移ろうか」
 院生の中でも一番穏やかで優しい、柿谷先生が付きっきりで私達の班を見守ってくれていた。多分、放っておくとどんどん勝手なことをすると思われていて、不安がられているのだろう。
「本当に一班はすごいスピードだね」
「精度だって、まずまずでしょう」
 宇佐美さんが胸を張って答えるけれど、他の班員は曖昧に俯いて何も言わない。それを見ていた柿谷先生は、まいいけど、と呟いて次の作業について説明を始める。
 どの班も同じような進度で進めてほしい、と思う先生の気持ちは良く分かる。それでも私達は、各々の苛立ちや感情の揺れを周囲に悟られまいと作業に没頭することしか出来ないから、仕方ないのだ。
 柿谷先生の説明を半分も聞いていないまま、私はふと甲斐田さんの方へ視線を送った。
 え……。
 甲斐田さんは私をじっと、呪いの人形のような目付きで睨んでいた。
 すぐに目を逸らしたけれど、その恐ろしさに私は心臓が波打つのを抑えられなかった。
 ……甲斐田さん、今までもあんな顔で私を見ていたんだろうか……。
 怖くて、もう何も頭に入らなかった。
「いい? 分かった? 合原さん」
「あ、ははい」
 突然先生から名指しされて、私は我に返った。
「じゃ、ついて来て」
「?」
「聞いてなかったでしょ、プリント配るから、手伝ってねって言ったんだけど」
 どうして聞いていないとバレたんだろう。私は首を傾げながら、柿谷先生の後に従って、プリントを各班に配るのを手伝った。
 さっちゃんの班にプリントを持って行った時、たまたま進藤さんも瀬川さんもいなかった。トイレにでも行ったんだろうか、いいタイミングだな、と思いながらさっちゃんに無言でプリントを差し出した。
「ありがと」
「うちの班は、これから頭部だから、このプリント使うから……」
「早いね、さすが」
 何がさすがなのかちっとも分からないけれど、久しぶりに、本当に一年ぶりに学内でさっちゃんと会話した。
「佐倉さん達も一班を見習ってくれよ、この班だけじゃないけど、周回遅れだから」
 柿谷先生が口を挟んできて、会話は打ち切られたけれど、私はものすごく舞い上がるほど嬉しかった。柿谷先生のおかげで自然に会話が出来た。
 私の中で柿谷先生の株は急上昇した。
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