□ 四十一歳 冬③

文字数 12,763文字




 日出時間が遅くなったな、と実感される。昨日よりまた気温が低くなった気がする。すれ違う人達の服装は先週から一段と冬めいた。私はダウンコートのポケットにカイロを入れてこようかと考えながら、いつものようにトートバッグを机に置いた。
「おはよーございまー」
 後ろから声をかけられて、びっくりして振り返った。
「先生、これお土産ー」
「宮田さん、なんか久しぶり・・・」
 宮田保健師は私が特に頼りにしているベテラン保健師だ。基本的に保健師は医師職に冷たいが、彼女は入職した当初から、何かと保健所の流儀を教えてくれたし、陰ながら助けてもくれた。このコロナ業務でもどれだけ助けてもらっているか、一言では言えない。
「えー、昨日休んだだけですよ?」
「だから、三日ぶりじゃない。土日も来てなかったし」
「ああ、実家に帰ってたから」
 県境を跨ぐ移動は避けましょう。保健所職員は、ほとんどが一年近く、県境を跨いでいないが、彼女は隣県から通勤している。むしろ実家がこっちなのだ。
「やっぱり、お母さん良くないの?」
「まあ、今まで生き急いでたから、立ち止まったらガタっと来るよね」
 彼女の母親も保健師だった。仲杜市のレジェンド保健師。あだ名はブルドーザー。退職してからも、臨時採用職員として仲杜市の保健活動に貢献してくれていた。・・・私は、その伝説を聞いたことしかない。一度会ってみたかったが、彼女は中央区で勤務していたので、通常業務では会う機会がなかった。
 宮田さんにお願いしてコッソリ会いたいなあと思っているうちに、このコロナ騒ぎが始まり、第一波の終わり頃に無理に働きすぎが祟って脳梗塞を起こしてしまって退職した。
 かなり大きな梗塞だったらしく、入院期間も長くなったしリハビリも遅々として進まないんだ、と聞いていたが、ここ一、二週間はいよいよ状態が良くない、と言っていた。
「何が、一番問題なの?」
「ご飯が食べられない。元々、食にこだわる方だったから、きざみ食とか、イヤだろうと思うんだけどさ、本人が生きようって気力がないんだよね」
「・・・そう」
「このまま生きながらえたって、仕事に復帰できるわけじゃないし。・・・私ももういいかなって思ってる」
 宮田さんは、目の前の職員の席にぐったりと腰掛けた。
「姉さん達は、ワーワー言うけど。あの人達は、京都だったり神戸だったりで、今死なれちゃうと死に目に会えん、って、でもそんな理由で母さんに無理させるのも嫌なんだよね」
「・・・そうか」
「私しか看取る人間がいないのは申し訳ないけどさ、もう、母さんの好きにさせたいんだ」
「・・・そう」
「ごめん先生、朝っぱらから変な空気にしちゃった。でも私は先生に話してスッキリした。じゃ、今日も一日頑張りましょ」
「うん・・・」
 こんな時に、何を言えばいいのか分からないのが悲しい。本当に私は役立たずだ。ふと、慧だったら何て言うんだろう、と思い、慌ててその考えを捨てた。
 自分の机の上のノートパソコンを開く。そう言えば、まだ出勤処理していない。
「センセー、おはよー」
 左斜め前から、結木主査が声をかけてきた。
「はあ・・・おはようございます」
「先生、ちょっと聞きたいんだけど」
「何?」
「藤野区はさ、患者そんな多くないじゃん今。このまま増えずに終わる可能性ってあるかな」
「ないんじゃない」
「なんでそんなこと言うのよー、もー」
「だって今は、ゴートゥートラベルの影響も落ち着いて、小康状態だと思うけど、また気の緩んだ人達がウロウロして感染してくるに決まってる」
「そうかなぁ、案外、このまま終わってくんじゃない?」
「無理だね」
「そうかなぁ」
「なんでそんなこと聞くの」
「ああ、年末年始の体制について考えてて」
「管理職は連勤連勤」
「は?連勤は先生だけだよ」
「なぜ?」
「医師がカルテ見ないのは問題だろ。また富永さんみたいになったら困るし」
「・・・チッ」
「先生、この一年で、すんごくガラが悪くなったねぇ」
「元々だよ、化けの皮が剥がれただけ」
「・・・なるほど」
 本気にしたような主査の顔を一瞥して、私はメーラーを立ち上げた。昨日からまた数十件メールが送られてきている。
 おもちゃの兵隊のマーチが流れ始めた。始業だ。朝会のために所内の電灯を全てつけた。元々私の仕事は電灯係、それしかなかったのに。
「はい、今日も一日よろしくお願いします」
 課長の話は何も聞いていなかった。それは自分のスマホのロック画面の通知に気を取られていたからだ。
 今週末、仲杜市に行きます。金曜の最終の飛行機に乗ります。会いたい。
 ・・・慧からのショートメッセージだ。
 こちらの都合を全く考慮してくれていない。何を考えているの?・・・私がノコノコ会いに行くとでも?

「先生、今、話しかけてイイ?」
 課長が部課長会から戻ってきているのは気づいていたが、私は夜間から今までに届いた発生届を確認するので忙しくて、注意を払っていなかった。あ、これは他区の患者だ。
 課長は総レースの生成りのワンピース姿だ。何だかウエディングドレスみたいで変じゃないか。そんな事をそっと思って、私は彼女に向き直った。
「何ですか」
「あのさ、年末年始の体制なんだけど」
「ああ、朝、結木さんが言ってましたね」
「先生、どれくらい出てこれる?」
「年末年始ですか?・・・まあ、ほぼ毎日じゃないですか」
「ホント?助かるー。所長と相談して、出来れば毎日、どっちかに出てきて欲しいんだよね。患者がこのまま増えなかったら医師はオンコールでもいいかなって思ってたけど、そうはいかない予感がするんだよねー」
「まあ、オンコールは難しいですから。実際カルテを見る方が早いし、電話ではよく分からないこと多いし」
「でさあ、所長最近体調悪いんだって、知ってた?」
「知ってますけど。持病が不安定なんですよ」
 藤野保健所長は定年までまだ間がある比較的若い所長だが、元々腸疾患を抱えていて、無理ができない。だからこそ、体力だけはありそうな私が下について、実働部隊として働いている。仲杜市では、全ての区保健所に医師を複数名配置するほど、医師は多くない。藤野区みたいに落ち着いた区で医師が二名体制なのは、所長をなるべく休ませるためだ。
「じゃあ、年末年始、ヨロシクねー」
 そこまで言うと、課長は、次の獲物、保健看護主査のところへと歩いて行った。
 ・・・マジか。年末年始、休みないのか。一日くらいは所長に代わってもらおう。いくらなんでも一日も休みがないのは、夫と子供に悪い。
 保健所の医者に家庭を顧みる時間は、今はない。ましてや、自分自身を労る時間なんて。

 仕事に集中しなければならないことは分かっている。また、富永さんのように、在宅でトラブルが起こったら大変だ。でも、すぐに気持ちは仕事から離れていく。
 ・・・慧、何しに来るんだろ。何の用事が仲杜市にあるの?学会かな?でも今年の学会はどれもリアルでの開催を見送っているでしょ。ホント、突然言われてもメイワクなんだけど。
 イライラする、と思いつつも、鼓動が早くなるのは否めない。そんな自分が気持ち悪くてしょうがない。
「先生、鬼頭医院から電話。院長が、ヤマダさんについて話したいって」
「は?ヤマダ?今日の陽性者か」
 本日の派遣の応援事務職員は電話を保留にすることすら出来ない。いつも保留にしないまま私に渡す。また今も保留になっていなかったことに子機を受け取ってから気付いた。
「ああ、鬼頭先生、お待たせしました。堀川です」
 声のトーンが跳ね上がる。鬼頭医院の院長は藤野区医師会の副会長先生だ。このコロナ業務でも本当に多くのお力添えを頂いている。・・・特にPCR検査において。
「さっき五枚発生届出したと思うんだけど、そのうちの、山田一也さんなんだけどね」
 まだ保健師に渡さずに発生届を私が持っていた。良かった。見ながら話ができる。
「山田一也さん、五十四歳の会社員ですね、はい」
「さっきから何度も結果伝えようと思って電話してるんだけど、全然繋がらないのよ、昨日は繋がってたみたいなんだけど、看護師が言うには」
「はあ」
「まだ本人には結果伝わってないけど、伝えてから発生届出すと遅くなるからさ、もう保健所から本人に結果伝えてもらっていいかな」
「はい、分かりました、じゃあ、まだ結果は伝わっていないということで、こちらで調査する前に結果もお伝えしますね」
「宜しく」
 またか。本当に不思議に思う。体調が悪くなってクリニックを受診して検査までしているのに、なぜ結果を聞きたいと思わないんだろう。検査を受けっぱなしで結果を聞かずに電話に出ないなんて、どうかしている。
「佐藤さーん」
 今日のコロナ当番のリーダー保健師は私の背面に座っている。ハッキリ言って、かなり頼りない保健師だ。保健師歴十年だが、新人と同じくらい話が伝わらない。本人は全く自分がダメ保健師だと思っていないから、尚更成長しない。
「はあ何ですか先生」
「これ、鬼頭医院から発生届が五枚も出た。で、この山田さん、結果連絡が出来てないから、疫学調査の時に、まず結果伝えてあげて」
「えー、何でクリニックが伝えてくれないんだろ、結果伝えてから発生届出して欲しいですよねー」
「それでは遅くなるかもしれないでしょ」
「遅くなったら、調査は明日でよくないですか?」
「良くないです」
「えーめんどくさーい」
 何を言うか。私は苛々しながら佐藤保健師に発生届を押し付けた。
「あ、ちょっと待って」
 佐藤さんを呼び止めて、もう一度山田さんの発生届を見る。
 山田一也、五十四歳、会社員。症状は、発熱、咳、咽頭痛。・・・呼吸苦。しかも、発生届の右下の余白には、糖尿病、高血圧、狭心症の内服あり、と書かれている。
「超ハイリスクじゃん」
「そうですかー?五十代の男性なんて、みんなこんなもんじゃないですか?」
「・・・早めに取り掛かってね」
「えー」
「入院調整がいるかもしれないでしょ」
「どうしてですか?」
「症状のところに、呼吸苦って書いてあるでしょう」
「あ、ホントだ」
 もう、しっかりしてくれよ。これで何かコトが起こってしまったら。・・・週末に慧に会うことなんか出来っこなくなるじゃない・・・。
 私は、すでに慧に会う覚悟をした。

「ねえ、佐藤さん、さっきの山田さん、どうなった?」
「あーあれ、黒川さんに頼みましたけど」
「え・・・」
 発生届を収受した段階で状態が良くなさそうな患者や、トラブルの匂いがする患者は、正規保健師が疫学調査をすることにしている。なのに派遣看護師に調査を頼んだ?何を考えているんだ。
「黒川さんが、手が空いてるんで」
 そういう問題じゃない。しかし、彼女に何を言っても無駄だ。私はそっと溜息をつく事を抑えられなかった。
「せめて入院になるかどうか、知りたいんだよね。入院になるなら、早めに入院調整グループに電話しなきゃ」
 本庁が行う入院調整は早い者勝ち、同じようなリスクの患者が複数発生したら、先に電話をかけた方の区の患者が先に入院できる。私達は患者の今夜を握っている。
「黒川さーん、山田さん、繋がった?」
 黒川さんが座っている席までは、二つの島をぐるっと遠回りして行かなければならない。通路の隙間にも簡易の机を置いて派遣職員の席にしてあるので、どこへ行くのも狭い。歩いて行くのが面倒だったので、大きな声で黒川さんを呼んだ。
 新型コロナウイルス感染症が日本上陸してから、本当に様々な物事が変わった。平日の昼間に来所者がいない、こんな時にもそれを実感する。コロナ禍前は、客が所内にいない時間など、全くなかった。
 しかし、こんな時には助かる。来所者がいるのに大声で個人情報を叫ぶわけにいかないが、今は職員しかいない。歩かずに大きな声で指示出しできる。
「センセー、まだ繋がらないでーす」
「え、まだ?」
 もう昼だ。あれからだいぶ時間が経っているし、ちょっと遅寝の人だって、そろそろ起き出してくるだろう。
「センセー、もう十回以上電話かけてますー、でも繋がらないー」
 どうしてだ?・・・もしかして家で倒れている?そんな可能性はないか?どうなんだ。
「・・・ちょっと所長の部屋行ってくる」
 誰かと電話で話している主査に言い置いて、私は所長に相談に行った。

 結局、所長は午後も電話をかけて様子を見よう、と結論した。昨日の段階では、自力で受診して自力で帰宅しているし、数時間で動けなくなるような、急に悪くなるような疾患じゃない、からだ。五十四歳という比較的若い年齢であることもあった。会社員と職業欄に書かれているから、社会性もある。本当に困っていれば救急車くらい呼ぶだろう、とも思われた。
「案外、仕事に行ってるかもよ」
「呼吸苦あるのにですか?」
「昨日はちょっと苦しかったけど、今日は良くなった、ってパターンじゃないの」
「だといいですけど。基礎疾患もガッツリあるし、年齢も微妙だし、男の人だし、イヤな予感がしますけど」
「先生は心配しすぎ」
「・・・そうだといいんですけどね」
 第二波の時には、患者は若者が多かった。基礎疾患のある患者は少なく、症状も軽かったり、ほぼ無症状だったり、本人達の「病んでる」感がないことも多かった。十一月になって、元気な高齢者が多く患者になってからも、やはりみんな「自分は病気だ」という認識がないままに出歩く人が多かった。山田さんもそのパターンだろうか。
 こんなに心配になるのは、やはり富永さんの件があるからだろう。在宅で患者に死なれるのは真平御免だ。彼女の死は私に刺さった棘になっている。
 何かモヤモヤ落ち着かない気持ちのまま、所長室で立ち尽くしていると、主査が私を呼びに来た。
「先生に電話。例のハイランドアパートの患者」
「・・・今度は何の用なんだろう」
 ハイランドアパートは名前からは想像ができないが、かなり綺麗な大型マンションだ。すべてが賃貸だが、セキュリティーがしっかりしていて、フロントにはコンシェルジュが常駐していて、自走式の駐車場も大きい、お金持ち御用達の建物だ。
 しかし藤野保健所でハイランドアパートといえば、むしろ「コロナマンション」として有名だ。患者が何人も何人もひっきりなしに発生し、その患者達は皆、一癖も二癖もあった。ハイランドと聞くだけで動悸がする、という職員すらいる。
 現在管理しているハイランドアパートの患者は三名。二人は同棲中のカップルで、彼らは夕方にならないと健康観察の電話に反応しない。そもそも軽症だし、何度言ってもコンビニに出かけてしまうし、本当に困った二人だが、実は今日が健康観察最終日だ。多分、無事に健康観察終了を告知できるだろう。やっとバイバイ出来る。
 もう一人は三十一歳の女性だ。基礎疾患は喘息、痩せの傾向が強い。・・・そしてかなり精神的に不安定だ。毎日複数回、電話が感染症担当係の代表番号にかかってくる。大抵内容はどうでもいい話で、保健師達は迷惑そうにする。そのため、いつの間にか私は彼女の専属カウンセラーになっていた。
「はい、お電話替わりました堀川です」
「内藤麻美です、あの、ちょっとお聞きしたいと思ってお電話したんですけど」
 今度は何だよ、と言いたいところをグッと我慢する。
「はい、どうされました?」
「あの・・・最近、五十代の男性の患者さんって多いですか?」
 はぁ?何をいきなり。そんなこと、言えないだろう。
「あ、市が毎日陽性者の簡単な情報を公表していると思うんですけど、そちらを見ていただけば分かるかと。それ以上の情報はお伝えできませんので」
 そもそも、アンタ自身が私達の調査に乗っかってくれてなかったじゃないの。何でもかんでも秘密にして。
 内藤麻美はハイランドアパートの一室に一人暮らししている、おそらく。というのも、彼女は、保健所が患者として発生届をもらって、疫学調査のための聞き取りをした時には、何もこちらに情報を伝えなかったのだ。
 同居している人間はいない、仕事はしていない、発症前二日は家にいてどこにも行ってない誰にも会ってない、それより前も出かけていない誰にも会ってない、とにかく無い無いばっかりで、調査票はまるきり白紙に近い。じゃあ貴方はどこからうつってきたんだよ、とつっこまれても、知らぬ存ぜぬだ。
 そもそも、ハイランドアパートに住んでいるくらいだから、お金はあるはずで、無職なんてありえないと思う。それとも実家がお金持ちなの?・・・全く調査にならない。緊急連絡先も姉にしてくれと言うが、電話番号は知らないLINEでしか連絡とれない、などと言う。緊急連絡先がなかったら、いざという時どうすればいいのか。保健所泣かせのトンデモ陽性者だ。
「堀川さんって保健師さんでしたっけ」
「いえ・・・管理医です」
「ふーん。私、保健師キライなんだよね」
 あ、そう。
「私、堀川さんになら、話してもいいんだけど」
「え、何をですか?」
「感染、どこでしたのか、知りたかったんじゃないの?」
 そりゃあ、まあ。
 藤野保健所は患者調査を丁寧に行う事をモットーにしている。特に感染源追求は、コロナ業務の中でも重きをおいている。どこで感染してきたのか、何をやっていて感染したのか、それが分かる事で感染経路を断つことも出来るんじゃないか、と思っているからだ。どれだけ忙しくても、保健師に嫌がられても、所長が『そんなのどうでもいいじゃない』と言っても私は頑なに譲らなかった。
「感染源に心当たりがあるんですか?」
「私・・・愛人やってんだよね」
 は?・・・やっぱりか。そうだろうと思っていたよ。
 ハイランドアパートには、夜の世界の患者がとても多かった。第二波の時、どれだけ繰り返し訪問したか。書類を持って行ったり、緊急支援の食料品を持って行ったり。むしろ昼間の仕事の住人の方が少ないんじゃないか、とすら思っていた。
「その、お相手からうつったの?」
「たぶんね。だから、患者になってるかどうか知りたいんだけど」
「そんなこと、お教えできませんけど」
「うん、分かってるけど、役所は真面目だからねぇ」
 別に真面目なんじゃない、個人情報保護法に縛られているんだよ。
 でも、あれ?と気がついた。彼女は、その愛人の濃厚接触者になっていないじゃないか。愛人が誰だか知らないが、彼女に感染させた可能性を保健所に伝えていないんじゃないか。だから彼女は濃厚接触者として挙がる前に、陽性者として発生届が提出された。
「愛人ってさ、ビミョウだよね」
 そだね、などと言うわけにいかない。
「はあ」
「絶対あの人からうつされたと思うのに、私に会ったことは秘密にされてんだよね?」
 この人は、決して馬鹿じゃない。むしろ察しが良すぎて不幸だ。
「なんか・・・もったいないですね」
 思わず言ってしまった。
「そう思う?ありがとう。私、この自宅待機が明けたら、別れようかなって思ってる。ずっと家にいると、色々考えちゃって」
 陽性者もそうだが、濃厚接触者は特に、長い期間自宅に閉じ込められて日常生活を制限されると、することがない時間で色々思い悩むらしい。それは想像するに難くない。しかし、愛人をやめようか、などと考える人がいるとは。これって良い事なんだろうか。
「いつもいつもありがとう。堀川さんが藤野保健所の人で良かったわー」
 言うだけ言って、彼女は電話を切った。しばらく私は唖然としてしまって立ち直れなかった。何なのこの電話。
 ・・・でも、とても嬉しかったのも事実だ。この仕事をしていて、有難うなんてそうそう言われない。
「先生、ニヤニヤしてないで、HER−SYS見てくんないかな」
 主査に言われてやっと動き出すことが出来た。

 昼休憩になったところで黒川さんが私の席までやってきた。
「山田さん、まだ繋がらないんです」
「どうしよう、午後も繋がらなかったら」
「とりあえず鬼電しますけど。外に出てるかもしれないですよ?」
 やはり同じ事を言う。もちろん私だってそう思いたい。でも、ついつい心配になってしまう。大丈夫だよね?
「今日は新規患者が多いから、モレたらイヤなんだ」
「大丈夫ですよ、責任持って電話掛けますから」
「うん、黒川さんを信じてる」
 新規患者発生数は日によってかなりの幅で変動する。月曜は新規発生患者数が少ない。前日が日曜で休診のクリニックが多いから、検査した人数も限られているからだ。月曜に出てくる発生届は、即日で結果が分かるクリニックから出てくることがほとんどだ。
 それに比べて、火曜の発生数は、週平均の二倍以上であることが多い。土日に受診するのを我慢した患者や、職場で検査を指示された患者が、月曜にクリニックへ押し寄せ、結果が火曜に大量に出る。現在の市内の陽性率を考えると、午後もまだ新規患者は発生しそうでうんざりする。
「とりあえず、午後に備えて休憩してね」
「先生こそ、たまには外で召し上がったらどうですか?」
「そうだね、もっと患者が少なかったら、それもいいかもね」
 昼休憩中も、管理職はほとんど電話番兼メール当番だ。一応、昼休み中の電話番は一人持ち回りでいるのだが、一人では対応できないくらいかかってくる。固定電話の全ての回線が一日中埋まりっぱなしなのだ。私は、もう何ヶ月も昼休みに所外に出ていない。
「センセー、ヤマダさん、大丈夫なの?」
 やはり自席でパンをかじっている主査が聞く。
「あ、今日の新規の山田さん?」
「そう。まだ繋がってないんでしょう」
「まあ、昼から起きてくる人もいるし、また掛けてもらうよ。・・・出なかったら、見に行かないといけないね」
「今日は午後、車空いてないよ」
「そうしたらタクシーかなぁ」
 私はタクシーの方がいいんだけど。こっそりそう思う。
 公用車は保健所全体で四台だが、特別、感染症担当が優先的に使えるという取り決めにはなっていない。午後は食品衛生係などが公用車を一斉に使うことが多い。公用車が使えない時だけ、在宅療養者の訪問にタクシーが使える。しかし、タクシーの費用だけで随分大きな金額になっていて、利用を控えるように強く要請されている。
 在宅療養の患者が健康観察の電話に出ない時、電話で話したところ様子がおかしい時など、どうしても居宅を訪問しなければならないことが、時々ある。藤野区では、大抵、発生届が出た最初のコンタクトでつまづくことが多い。医療機関から陽性告知がされた後、なぜか電話に出ない患者がいる。クリニックからは『このあと保健所から電話がかかってくるから対応しなさい』と言ってもらっているのに、陽性だったとわかったらそれで満足なのか、保健所の調査を受けたくないからか、様々な思惑があるのだろう。とにかく電話が簡単には繋がらない。
 今日の山田一也さんも、おそらく調査を忌避して意図的に電話をとらないのだろう。色々な番号からかけているが、全く電話を取ってもらえず、留守電にもならない。

 午後になって、やはり思った通り、複数の医療機関から複数の発生届が出て、私はそれを確認するので忙しくなった。中には他区居住の患者の届も混ざっていて、それをそれぞれの区に転送するのも一苦労だ。
 さらに高齢者施設に居住する自立度の低い患者も発生して、所内は非常に混乱し始めた。

 発生届を収受して、中身を確認して、簡単にリーダー保健師と打ち合わせて、新規患者の調査票の中身を確認して、濃厚接触者の洗い出しをして、追加の疫学調査が必要になって、と私は無我夢中で仕事をして、余計な事を考える暇がなくなったのは幸いだった。やはり忙いのはいいな、と思ったりもした。

「先生、ちょっとちょっと、たいへーん」
 蛍の光と同時に課長の大声で我に返った。それまでは患者が発生した高齢者住宅の調査票を眺めて、いかにスタッフの濃厚接触者を減らしてスムーズに業務を継続させるか悩んでいたのだ。
「ちょっと、先生、どうなってるの」
「何がです?」
「山田さん、まだ繋がってないみたいだよ」
「は?・・・ああ、そういえば」
「そういえば、じゃないよ。もう八時だよ、訪問行くなら早く」
「・・・ああ、そうですね・・・」
 やっぱり私が行くの?行かなきゃいけないんだろうな。イヤだな、マジか。
 終業後なので、公用車は全て空いている。居宅訪問に行くなら公用車に乗って行かなきゃいけない。
「なんで八時まで粘っちゃったの」
 え、私は知りませんよ。・・・忘れてたし。窓の外を見て、改めてゾッとする。もう夜じゃないか。時間感覚が失われている弊害が、こんなところにも表れている。・・・そんな事をのんびり考えている場合じゃない。
「あ、早く行かなきゃ」
「そうだよ、もう夜遅いんだから、相手に失礼じゃない」
 電話に出なくて保健所に失礼じゃないのか、と、また余計な事を考える。
「先生、もう消防と警察に連絡しようか」
 所長が所長室から歩いて来ながら言った。
「ハイリスク者なんでしょ。室内で倒れているかもしれないし、行ってみてから連絡したら遅くなるでしょ。電話には出ていないんだよね一度も」
「そうですね」
「じゃあ、私が消防と警察と本庁に電話するから、先生は結木さんと、もう行って」
「え、俺も行くんですか?」
「先生は管理職じゃないんだから、先生だけじゃダメでしょう」
「じゃあ、課長が行けばいいのに」
 ゴチャゴチャ言っているが、主査はさっさとバッグを持って来て準備を始めた。手袋とN 95マスクと消毒液のボトルが入った「結木専用訪問セット」だ。主査専用のバッグだが、使用頻度は私の方が多い。状態が分からない患者への訪問は医師の仕事の一つだ。
 遠くで救急車のサイレンが聞こえた気がした。急に不安が押し寄せてくる。
「主査、大丈夫だと思う?」
「大丈夫なんじゃない、多分。藤野区でそうそう事件は起こらない」
 そうかな。ついこの間、在宅死が出たばかりだけど。
「先生、行くよ、カルテだけ個人情報持ち出し鞄に入れて持って来て」
 主査はナビが付いている公用車の鍵を選びながら私に言い、駐車場のゲートを開けてもらうために、警備員室へ走って行った。
 山田さんが生きている事を確認できればそれでいい。私は目的地の住所を確認して、鞄に鍵をかけた。

 車内の私達は完全に無言だった。口を開けばネガティブ言葉が出て来そうで、言霊が怖くて何も言わない。
 山田さんの住むアパートは幹線道路を一本奥に入った角にあった。一階にクリーニング店が入っているが、暗闇の中、建物共々とても古ぼけているように見えた。
 すでに、パトカーが一台、道路を塞ぐように停まっていて、その向こうにレスキューの消防車が見えた。
「もう着いてるじゃん」
 私は、その物々しさに怯んでしまって、乗って来た公用車からなかなか離れられない。主査はさっさと車に鍵をかけ、レスキュー隊に近寄って行った。
「先生、早く来いよ」
 小走りで近づくと、レスキュー隊員が三人、警察官が二人、アパートの階段の前に屯っていた。皆、表情が読めない。フル装備で暖かそうだ、と私はつまらない事を思った。
「堀川先生ってあなたですか?」
 レスキュー隊員の一番偉そうに見える人が声をかけて来た。何となく上から言うその言い方にカチンと来たが、今は助けてもらっている立場だ、私は大人しくうなづいた。
「はい」
「えっと、対象者、山田一也、五十四歳男性、住所、藤野区横田町三の五の十三、ユーパレス505、に間違いないね」
 私は慌ててカルテを取り出す。緊張してうまく鍵が外れない。動悸がどんどん早くなる。
「・・・はい、そうです」
「今、現着して訪問したところ、インターフォンにも反応なし、電気のメーターは回っているから警察の住民台帳を確認して架電したところ、本人から応答あり」
「え、電話に出たの」
「電話口では元気そうだったため、玄関を解錠してもらって、姿を現認。死んではなかったよ」
「・・・有難う御座いました」
「で、確認したら、保健所さんから聞いた電話番号と違ってたよ。下四桁の末尾がロク、じゃなくてゼロ、だったね」
「・・・はあ」
「ま、いいけど、今度からは、電話番号がちょっと違っている可能性も検討してください」
 ・・・最悪だ。大山鳴動して鼠一匹、などと思わず言いたくなるほどショックだった。こんなに大騒ぎして、電話番号が少し違っていた?何事だ。本当に皆様に申し訳ない。

 帰りの車内でもお互い無言だった。車を所定の位置に停車してもらって、私は主査にも頭を下げた。
「結木さん・・・ありがとう」
「・・・はーあ、電話番号かー。今度から気をつけよう。・・・疲れたー、先生、もう帰りなよ、後の始末は課長に任せて俺も帰るわ」
 頭がジクジク痛い。まだ二十一時過ぎの腕時計を見ながら、これ、壊れてるんじゃないかと疑いたくなった。既に日付が変わってしまったかのような疲労感だ。
 駐車場の扉を施錠しに来た警備員にも頭を下げて、私は保健所まで階段をとぼとぼ上がって行った。

「先生、お疲れー。元気だったんだってね。さっき主査が愚痴ってたよ。今、近藤さんに電話してもらってる。調査は明日するからねーって」
 所内に入ると、まだ複数の保健師が残っていた。みな所在無さげに立ち尽くしている。結木主査はすっかり荷物をまとめて帰宅スタイルだ。
「じゃ、オツカレーっす」
「お疲れ様・・・」
 私はとりあえず山田さんに電話をしてくれている近藤保健師の隣に立って、耳をそばだてた。
「うん、うん、そうだったんですね、驚きましたねー、すみませんねー大勢で押し掛けちゃって」
 近藤さんの明るい声だけが所内に響く。
「私、所長に帰るように言ってくるわ」
 課長が所長室に歩いて行くのを見送りながら、私の隣で角野保健師がボソッと呟いた。
「電話番号が違っているなんて、予想できるわけない。鬼頭医院にも確認してこの番号だって言われたんだし」
 角野保健師は、藤野保健所の保健師の筆頭で、山田さんの暮らす横田町の担当だ。保健師歴は課長よりも長いからか、課長を未だに後輩として軽く扱う。私も嫌われると怖いので、つい顔色を伺ってしまう相手だ。
「まあ、何事もなくて良かったですよ・・・」
「ホント、人騒がせなんだよね、だからコロナの仕事嫌いなんだ」
 コロナ業務は本当に、相手からは必要とされていない仕事だ。こちらは調査の協力のお願いをし、自宅待機のお願いをし、ひたすら何かをお願いしてばっかり、頭を下げてばっかりだ。いつだって電話の向こうには嫌がられ、嫌われ、迷惑がられて一日が過ぎる。やることはいつも同じ、セリフも同じ、職員の裁量がきく部分は全くなく、数だけが多い。時間はかかり、疲れはとれず、心を癒す暇もない。
「ま、いいわ、先生、私達ももう帰りますから、先生も帰ってください。私達は交代できるけど先生はずっと毎日継続しなきゃいけないんですから」
「ありがとう、じゃあ、帰らせてもらうね」
 せめて近藤保健師の電話が終わるまでは、と思っていたが、角野さんの迷惑そうな空気を感じ、私は帰宅の途についた。おそらく私がいつまでもいては、おおっぴらに患者の悪口が言えないと思っているんだろう。

 階段室の扉を開けたところで、スマホを取り出した。特に目的もない、何となくの行動だった。
 ・・・慧に電話したいな・・・。
 こんな喜劇が起こったんだよ、と、誰かに話せたら、ずっと気分が明るくなる気がした。その相手が慧である必要など全くない。でも、声を聞きたくてしょうがなくなっていた。
 いや、ダメだろ。向こうはとても忙しい本庁さんなんだし。
 つい数日前まで、ほぼ知らない人だったんだし。
 未練がましく画面を見るのは止めて、私は地下鉄駅まで向かって歩き出した。
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