□ 二十歳 春②

文字数 1,605文字

 久しぶりにここに立った。……ようやくここまで来た。
 私は時計広場に立って周囲を三百六十度見回した。もう一押しで咲いてしまいそうなサクラの木々がわたしを取り囲むように並んでいる。
 もう、怖くない。サクラには負けない。
「歩さん、こんなところで何をやってるんですか」
「ああ加代さん、ちょっと心を新たにしようと思って」
 伊原先生のお母さんを加代さん、主治医の伊原先生を圭輔先生、といつの間にか呼ぶようになっていた。
 療養期間中、実の両親よりずっと長く共に居てくれた加代さんに、私はすっかり心を許すようになっている。彼女は実の母親以上に精神的支えになってくれていた。母に言えなかった真相も彼女には全て話し、その上で多くの安らぎと前に進む力をもらった。
「心を新たに。……そう」
 加代さんは不安そうに私を見つめて、でもそれ以上は何も言わなかった。
 四月から大学に復学すると言った時、両親は猛烈に反対した。前期の単位は全て取得済みだったし、必要もないのに一人で大学に戻って何をするんだ、としつこく訊かれた。後期が始まるまで実家でリハビリしながら過ごすように、と父からも命じられた。
 それでも戻って来たのは、表向きは全然身についていなかった解剖学を再履修するため、実際はこれ以上実家に居たくなかったからだった。
 三歳下の妹は、本格的に大学入試に向けて勉強を始めた。そのせいで家は妙にピリピリしていた。彼女の現時点での学力では国立の医学部などとてもとても……という状況で、母と妹は事あるごとに大喧嘩していた。
 私が大怪我をしたことで、私が桐花グループの後継者になることを、誰もが諦め始めていた。しかしそのせいで妹は母から更なるプレッシャーを加えられ、その苛立ちが常に私に向けられるのだった。
「お姉ちゃんがボーッとしてしょうもない事故を引き起こすもんだから私まで迷惑してるんだよ?!」
「ノロノロ歩かないで、部屋に引っ込んでてよ!!」
「何で、事故にあったのよ馬鹿!!」
 だいたい毎日同じような罵声を浴びることになってしまったが、それでも私は何も反論出来なかった。思わず口を滑らせて、妹に真実を知られることが怖かった。
 この半年、暇さえあれば事故の日のことを思い出す。どうしても思い出せない犯人達の顔と名前を何度も思い出そうとしている。
 忘れたい、と普通の神経の持ち主なら考えるのかもしれない。でも私は違う。
 これから残り五年大学に通う間に、おそらく犯人とは何度も学内ですれ違うだろう。その時にこちらが犯人を認識せずに何気なく通り過ぎること、それがどうしても嫌だった。絶対に私は犯人を犯人だと分かった上ですれ違いたかった。
 別に告訴したいわけじゃない。ただ、犯人を野離しにしているんじゃない、私は永遠に赦さない、という気持ちを持ち続けたいだけだ。
 加代さんは理解できない、と何度も私の考えを変えようとした。加代さんは早く忘れることが私の心の癒しに繋がるからと繰り返し言った。でも私は絶対に忘れたくなかった。
 おそらく身体の痛みと裏切られた心の痛みで、自分に加えられた暴力の意味など遠く霞んでしまっているんだろうと思う。……いや理由なんかどうでもいい。とにかく私は犯人を思い出し、心の中で何度も断罪したい、ただその一心だった。
「ねえ、歩さん、今更だけれど、やっぱり舞山でリハビリしましょうよ」
「……ホント、今更ですよ」
 春休みが始まったばかりの校内は、妙に人気がない。部活に勤しむ学生すらいなくて、静まり返っている。私と加代さんの声だけが響いてすぐに静寂に吸い込まれていった。
 私は傷ついていない。私を傷つけることなんか誰も出来ない。……絶対に負けない。
 もう一度、時計広場をぐるりと見回す。サクラの木々は密やかに私を見ている。私を癒そうとするわけでもなく、かといって私を拒絶するわけでもなく。
 絶対に負けない。……もう誰にも負けない。
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