□ 二十四歳 春①

文字数 3,557文字

 学生会館の購買の向かいに書店が入っている。教科書とか国試対策の参考書とか問題集とかを買うことが出来る。他の総合書店でも見かけないくらいの数の医学書が所狭しと並んでいる。普段見慣れない人が見たら、気が遠くなるくらい、たくさん並んでいる。……そしてどれも大概高すぎる。
 私は医学書しか売っていない書店で英語の占い雑誌を注文して、カウンターを離れた。医学書以外を注文する人は私くらいのものだろう。店員はいつものことだから、慣れた手つきで伝票を処理している。
「アイさん、奇遇ですね」
 書店を出たところで、購買から出てきた山村真子に出会した。
「あら、真子、何か買い物?」
「USB、家の鍵とくっつけていたのに、行方不明になっちゃって。新しく買わなきゃってんで」
「え? でも中身は?」
「大丈夫、パソにバックアップあったから。大体、中身、大したもの入ってなかったし」
「それは、不幸中の幸いだね」
「まあ……」
「あ、そうか、家の鍵は?」
「見つからなくて。だから鍵、取り替えました」
「それは、大変だったね……」
「家の鍵取り替えるのに、あんなに高いなんて知らなかったですよ。しかも時間がすっごくかかって」
 それは災難だったね、と口の中で呟く。よくよく見ると真子の顔は、災難だったとは思っていないのがアリアリだった。一体今の話のどこにそんなニヤける要素があったのだろう。
 しかし一旦話を向けるとどうも長くなりそうなので、気づかないフリをして黙っていた。
 真子は私のそんな思惑には思い至らないようで、何気なく話を続ける。
「アイさんは?」
「娯楽雑誌の注文」
「えー? そんなの、街まで買いに行けばいいのに」
「私、車持ってないから、そう気軽に行けないのよ」
「今度声かけて下さいよ、付き合うから」
「いやいや、そんな雑誌如きで」
「いいですよ、私、ついでに買い物したいし」
「じゃあ、また機会があったらお願いね」
「いつでも」
 真子に手を振って別れた途端に、すぐにまた背中から真子の声がした。
「ついに卒業しましたね」
「え?」
 振り返って真子の顔をまじまじと見る。彼女は神妙な顔でこちらを見ている。
「アイさん、ホントなら今年卒業だったでしょ」
「……うん」
「やっぱり気持ちは複雑ですか?」
「いや……まあ、ね」
「でもま、ポジティブに考えたらいいんですよ。あの学年だったら初期研修は義務化されてないじゃないですか? 就職先探すのも自分達次第でしょ。それって結構メンドーですよ。私らみたいにシステムに乗っかってく方が楽ですって、絶対」
「う、うん」
「それに、ポリクリ、あの学年、色々トラブったらしいですよ、ちょうど県立中央が建て替えの時期で、代わりに川野市とかまで行かされたらしいし」
「へえ、そう」
「それに、ポリクリ、ウチら四人と地味メンじゃないですか? 絶対楽しいですよ、ウチらとやる方が!」
「そ、そうかな」
「そうですって」
 ニコニコ笑っている真子の顔を見ていると、ふっとイヤな事を思いついた。
「もしかして……貴方たち、私の昔の話を知ってるの?」
「え? 昔って? ……そんなコト知っても不毛ですから、興味ないです、誰もね。……私達は今のアイさんを知ってるし、それだけ分かってればいいと思ってる。舞は部活で色々聞いてるかもしれないけど、私もリアも部活ほぼ行ってないし、舞に聞こうとも思ったコトもないです」
「……」
「ってか、今頃そんな事気にするなんて、アイさん、遅すぎ」
「そうだね……」
「私らはアイさんと行動出来て楽しいですよ。アイさん、かなり変人だし」
「え、それって褒められてない……」
「だから、あの学年のことなんか気にしないで、楽しく私達と卒業しましょうよ」
「……そんなに変な顔してた? さっき……」
「そうですね、何かどす黒い感じでした」
「そっか……自分ではそんなに気にしてないつもりだったけど」
「これからもどうぞヨロシク!無事に四人で卒業しましょうね」
 真子は今度こそ手を大きく振って帰って行った。私はその背中を見送りながら、大きく息を吐いた。息と一緒に、何か重い物が体から消えて行くような、そんな気がした。


 何となく浮き足だったまま、北門へ向かう。そうだ、帰りに何か食料を手に入れないと、今夜からいきなり食べるものがないや。
 しばらく立ち止まって逡巡する。一旦マンションに帰って、自転車を取ってきて、高速のそばのヤマダスーパーに行ってみようか。
 半年前に新しくショッピングモール併設のヤマダスーパーが高速脇に建った。家から遠くて私はまだ一度も行ったことがない。せっかく暇なのだから、一度行ってみようかな。思い立ったが吉日と言うし。
 私はマンションへ帰るために北門に向けて足早に進んだ。今の時間はまだ北門は施錠されていない。本当は長期休暇の間は北門を使ってはいけないのだが、一体どんな事情があるのか、ほぼ毎日、北門は開かれている。
「橋本、お前、卒業できたんだ」
 突然声が聞こえた。全く予想していなかったので私の方がビックリして立ち止まる。え? どこから声がした?
 くるくると三百六十度見回して、ずっと前方、北側駐車場の中から声がしたことが分かった。というのも、遠目に小柄なスーツ姿の男の人の背中と、車椅子の白衣を着た男性の全身が見えたからだ。
「そうだよ、悪い?」
「俺はてっきり退学したもんだと思ってたけど」
「あ、そ。それはご期待に添えず申し訳ないね。てか、こんなところで待ち伏せしてくれてさ、一体俺に何の用?」
「それはこちらのセリフだ。そんな似合わない格好して何しに来た」
「え? ……それ、アンタに何か関係ある?」
「その手荷物、何だ?」
「だから、アンタにどうしていちいち説明しなきゃならないの」
「俺は絶対に認めない」
「……何を」
「お前が、慧さんと親しく付き合うなんて認めない」
「……何の話か全然見えないんだけど」
「この間だ、俺、見たからな。お前が図々しく慧さんに告白しているところを」
 ……私、これを聞いていていいのだろうか。
 立ち止まったまま、前をじっと見つめる。北門へ行こうとするならば、絶対に二人のそばを通らないといけない。こんな話をしている人達の近くをそ知らぬふりで通り過ぎるなんて芸当、私には出来そうにない。
 それにしても二人とも、声が大きすぎないかな。私以外にも聞いている人、いるんじゃないかしら。もっと小さな声で話せばいいのに。それに立ち話でするような話だろうか。
 私は立ち聞きは良くないと思いながらも、どうしても動くことが出来なかった。それは、車椅子の人物がどう見ても、大原さんだったし、会話の内容が……さっちゃんに関係しているからだった。
 そういえば、すっかり忘れていたけれど、大原さんにはさっちゃんのストーカー疑惑があった。それどころか、さっちゃんのせいで自殺未遂したという疑惑もあった。……そして、この会話からすると、彼はまだ全然諦めてもいないし、懲りてもいないようだ……。
「……随分、シュミがヨロシイことで。ってか、それがどうした。アンタには関係なくない?」
「慧さんがお前など選ぶはずもない」
「はぁ……話にならんね。ただのストーカー野郎のクセに何言っちゃってんの。……だから大原には関係ないでしょ、気持ち悪い奴だな。……そもそも……俺、アンタがしたこと、全部知ってんだからな」
「……何の話か分からんな」
「これ以上、慧に付き纏うなら、アイツに全部喋る。……今まで喋らなかったのを有り難いと思えよ」
「……」
「真実を知ったら……アイツ、お前を殺すかもしれないからなぁ……それが恐ろしくて言えなかったんだけど」
「……」
「慧がどうして今の今まで我慢してたか、考えなかった? ……お前を憐んでんだよ」
「……」
 無表情のまま橋本さんを見上げていた大原さんの顔色が明らかに変わったのが、こんな遠くからでも確認できた。
「とにかく、こんなところで俺相手にゴチャゴチャ言ってる暇があったら、もっと建設的なこと考えろよ、アホらしい」
 橋本さんはくるっと大原さんに背を向けた。こちらに向かって歩いてくる。困った、ここにいたら、立ち聞きしていたのがバレてしまう。私はどうすることも出来ずに、橋本さんを待ち構える格好になってしまっていた。
「あ、合原」
 橋本さんが私に気付いて声を掛けて来た瞬間に、そのまま風に煽られたように前にバッタリ倒れ込んだ。
 え?
 橋本さんの後ろに、血飛沫を浴びた、大原さんが立っていた。手に、何か光るものを持って。
 私は反射的に鞄からぬいぐるみを引きちぎった。いや、防犯ブザーを鳴らした。可能な限りのスピードで橋本さんに近づいて、また振り下ろされた刃物を鞄で受け止め、大原さんを突き飛ばしていた。
「アユミちゃん……今度は俺が助けられちゃった……」
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