□ 二十一歳 秋⑦

文字数 3,579文字

 マイコ肺炎になったり思い悩んだりしているうちに、気付けは暦は霜月になっていた。舞山もようやく晩秋らしい気候になり、朝晩はひんやりと体を締め付けるような温度になっている。私は十一月が好きだ。何しろ運動会も文化祭も、その他嫌な行事は全て終わり、他人事のクリスマスまではまだだいぶある。
「合原さん、ちゃんと集中して!」
 ウォーキングマシンの隣で見ていた理学療法士の声が響く。ついつい考え事をしていた私は慌てて左右の足を動かして、機械から落っこちるのを防いだ。
 緩やかに動く地面が停止し、私は息をついた。やれやれ。リハビリ、本当つまんないんだよな……。
「もう歩行やちょっとしたジョギングについては、ほとんど問題ないと思うから、これからは踏み台昇降をメインにやりましょうね」
 彼女は何かを記録しながら言う。ええ! 絶対嫌だ。ウォーキングマシンの方がずっとマシだよ。
「あの、センセ、私、復学するにあたって自転車に乗れなくちゃいけないんだけど」
「え? 自転車?」
「自転車で大学に通っていたから」
「そう……そこまでいけるかなぁ……」
 担当理学療法士の阿部さんは唇を噛んで何かを考えている。それを見ながら私も考え込んでいた。
 え? 私、自転車で大学に通ってたの?
 最近、ますますこんなことが増えていた。突然自分の口から自分が知らなかった情報が出てくる。大学に自転車で通ってたなんて私も知らなかったよ、さっきまで。
「歩、自転車なんていいのよ。大学の近くに引っ越しましょう。どうせもう医学部以外の講義を受けることはないんだから、思い切って医学部キャンパスの隣に引っ越せばいいわ」
 突然、母が口を挟んでくる。いままでどこにいたのだろう。いつも私のリハビリをつまらなそうに見ているのに、今日は姿が見えなかった。
「お母さん、そうは言っても自転車に乗れるのと乗れないのとでは生活の質が変わるかもしれません。まだ時間はありますから、検討しておきますね。とりあえず、階段をスムーズに登れるようにしましょう。今のままだと蹴上の低い階段しか登れませんからね」
「え……階段……今時、エスカレータやエレベータがあるんだし」
「全ての通路にエスカレータがあるわけじゃないから、日常生活に階段の上り下りは必須ですよ。そもそも大学にはエレベーターがあるの?」
「あります。……おそらく」
 私が知るもんか。全然記憶にないよ。大学がどんなところだったのか、未だに全く思い出せないのに。
「歩、まだ時間はたくさんあるんだから、徹底的にやりましょ」
「……イヤだって」
 そもそも運動神経がなかった私が、一体何をどうやったらリハビリのゴールになるのか皆目見当がつかない。
「合原さんは若いから、すぐに何でも出来るようになりますよ」
「……そうだといいんですけどねぇ」
 口の中でブツブツ返答していたら、母が外面だけは良く取り繕って言う。
「自分の部屋に篭りっきりだから、どんどん体力も落ちるし、リハビリはこの子のいい気分転換になってますので。これからもどんどんプログラムを進めてください」
 部屋に篭っているのは私が望んだからじゃないでしょう。ママの希望でしょうが。イライラしながら私は母親の横顔を見る。
 そもそもママがいっつもついてきて、自由にならないんだから。
 リハビリのために灯家に週二回通う、その全てに母はついてきた。多分私が加代さんに会うのがイヤなんだと思う。それだけでなく私がどこか自分が知らないところへ行くのが嫌らしく、とにかくべったりくっついてきて、全く自由がきかない。リハビリくらい一人で通いたいし、そもそも家の車で送り迎えされず、バスとかに乗って通いたいよ。まるで罪人にでもなったみたいな気分だ。
 今日も母に連れられてまっすぐに家に帰る。会計を待っている間に母は運転手に電話をして玄関まで車を回させている。そこまでするなよ、本当に。
 母と車に乗り込んでもお互い無言だった。最近、こんな調子で母とは何となく上手くいかない感じがする。それは多分、いよいよ冬になり妹弟の受験が差し迫ってきているからだろう。そうとしか思えない。
「お姉ちゃん、ママはこの後、ちょっと人に会う用事があるから」
 突然母が口を開いた。
「え? ……あ、うん……」
「高校の時の、ほら、歩も知ってるでしょ、山川さん。彼女の息子さんも今年、受験だから」
「二人で悩みを打ち明け合うの? そんなコトやめといた方がいいんじゃないの。なんか不毛」
「いいのよ。彼女の息子は文系だからウチとは関係ないし。……あそこも事務所を継がせないといけないでしょ、だから……立場が同じだから」
 大手の弁護士事務所の経営者と結婚したという旧姓山川さんは、母の数少ない友人の一人だ。夫のこととか子どものこととか、お互い隠し事なく話し合える唯一の存在で、母は心底信頼している。幼稚園から今までの腐れ縁なんて私には想像もできない関係だけれど、とにかく母の気が晴れるならそれでいいのかも。
「だから、大人しく家にいなさいよ」
「え? ああうん」
「雪子さんに、遅めのお昼ご飯を頼んどいたから。明美ちゃんとおしゃべりばっかりしないでよ。彼女には彼女の仕事があるし、歩が邪魔してはダメ」
「……へえへえ」
 母は舞山駅前の車寄せに車を止めさせると、さっさと軽やかに出かけて行った。
「じゃあ、歩様をお送りしますね」
 運転手が転回しようとしたところで私は思い切って言ってみる。
「あの、あ、私、病院に忘れ物しちゃったみたい。あの、取りに戻りたいんだけど」
「ダメですよ、奥様に堅く言われてます、歩様を家に送り届けるようにって。寄り道させないように」
「えー、いや、忘れ物……」
「あとで私が取りに行きますよ、歩様はお家で待ってて下さい」
 祖父の代から運転してもらっている彼は、恐ろしいほど過保護で私を文字通り籠の中の鳥状態にする。だからこそ母は安心して私を残していったのだろう。
「……忘れ物は、次回で全然構わないから……いいよ」
「歩様の事、奥様は本当にご心配なんですよ。今度何かあったら、っていつも不安そうにされていますから」
 それが……私にとっては重荷なんだよ。わかんないと思うけど。

 家に帰り着いたら、お手伝いさんは誰もいなかった。広い家の中でしーんと音が沈んでいる気がした。正直家に一人でいることがあまりないから、私はちょっと怖くなって逃げるように自分の部屋に戻る。廊下のあちこちの暗がりから何かが飛び出てきそうな感じがして、私は子どものように部屋に飛び込んだ。
 私の部屋は三面が窓だから、異様に明るい。夏は暑くてたまらないけれど、今の時期はほんわり暖かくてホッとする。
 さて、どうしよう。おしゃべりをする相手もいない。妹の小部屋でもあさりに行く? でもあの無音の母屋に行くのはちょっと嫌だな。
 ふと机の上に置きっぱなしだった携帯電話が目に入った。ほとんど使うことがないからずっと充電器にささったまま忘れられている。
 何となく電話を持ち上げ、ベッドの下から例の封筒を持ってきて、ソファに座った。
 あまり深く考えずに、咲良さんに電話をしていた。
「……ハイ」
 低い冷たい声が聞こえてきて、私の想像の中の咲良さんとは結びつかず、反射的に電話を切ってしまいそうになった。
「あ」
「もしかして、歩ちゃん? 歩ちゃんかい?」
 電波の向こうで声が変わった。明るい声が畳み掛けるように言う。
「歩ちゃんだね? 良かった、このまま連絡取れないかと思ってた。歩ちゃんの連絡先を不法に入手しようかと思ってたくらいだよ」
「……」
「歩ちゃん、体調はいかが? もう良くなった? あの時、フラッフラだったけど、肺炎? って言ってたよね」
 よく喋る人だな。私のイメージとはかけ離れていて、本当にあの咲良さんなのか不安になってくる。
「あのさ、あの。良かったら近いうちに一度、会えないかな。歩ちゃんは忙しいの?」
「……いいえ、その」
「うん?」
「私、あの、あまり遠くまで出かけられないんです、家族が心配してて」
「……ああ、そうだろうね」
「え?」
「いいよ、私が歩ちゃんの家に行けばいい? 会える? 今日大丈夫?」
「いや……あの……うちの近所に大きな緑地公園があるのですけど」
「うん」
「ゾウさん山って呼ばれる広場があって。そこまで来ていただければ」
「広場なのに山なの?」
「そう。変ですよね。でもそう書いてあるんですよ、案内に」
「分かった。調べて行ってみるよ。多分、一時間くらいかかるから……三時くらいに」
「ええ。分かりました」
 電話を切って、私は目眩を感じた。友達でもない人と待ち合わせるなんて人生初めてだ。……友達とも待ち合わせなんかしたことないよね私? ってか、友達なんかいたことないよね……?
 私は何か食べようと、ふらふら立ち上がって部屋を出た。
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