□ 十九歳 夏⑦

文字数 2,979文字

 ハッと目が覚めた。息が出来ないっ。
 全身が思うように動かない。金縛りにあったのか?
 目は開けられる。でも視界は真っ白だ。
 ここはどこだ?
「歩、目が覚めた?」
 耳元で声がする。視界にぬっと顔が広がった。母親だ。
「ああ、良かった、目が覚めたのね……。ちょっと待って、目が覚めたらナースコールしてって言われてるから」
 母親の声がする。ブーと耳元で音がして、ほどなく誰か複数の足音がした。
「すみません、目が覚めたみたいなんですけど」
「あ、そうですか? じゃあ確認してみましょうね」
 視界にまた別の人の顔が現れた。
「そうね、目が覚めているね。体はまだ動かないと思うけれど、これからだからね。良かった、じゃあ、主治医に報告しておきますね。明日、またレントゲン撮って、結果を主治医から説明しますから、お母さん、また明日、何時頃に来られますか?」
「いつも通り、面会時間が始まったらすぐに」
「分かりました、じゃあ検査は午前中に済ませるように主治医に言っておきますね。多分、三時頃には説明に来れますから」
「はい、どうぞ宜しくお願いします」
 私はこの声を聞きながら、また目を閉じた。

 また目が覚めた。
「本当に移すおつもりですか?」
「主人からもきつく言われていますから。ストレッチャーに乗せて移動出来るようになったら、転院するように」
「でも、この状態での長距離移動は」
「別にバイタルは安定しているんですよね? 感染の恐れがなければ転院は出来ますよね」
「合原先生も強引だなぁ」
「娘を遠くで心配するのが嫌なんですわ、そんな父親の気持ち、どうぞ汲んで下さい」
「まあ、桐花の救急車を使うんですよね? 合原先生が同乗されるんで?」
「いえ、うちの若い外科医を同乗させます」
「そこまで言うなら……」
「じゃあ、月曜九時に車を救急外来につけさせます。本当に我儘を申し上げてすみません。どうぞ宜しくお願いします」
「これは、特例ですからね。合原先生のお嬢さんだから、許可するんですよ」
「ええ、勿論、他言しません。本当に有難う御座います」
 母親と誰か知らない声だ。何の話だろう。
 ……そもそも、どうして私はここで横たわっているんだろう。どうして体が動かないんだろう。
「歩、もうすぐ舞山に帰れるからね」
 母親の顔が視界一杯に広がった。
 うん、と頷こうとして、やっぱり顔は動かず、声も出なかった。

 何度も目が覚めるたびに、母親が誰かと何かを話しているのを聞いていた。
「で、お母さん、この状態で舞山の病院に移るって聞いたけど」
「ええ、この子の父親が院長をしているものですから、近くでリハビリさせたいので」
「でも、まだ意見聴取も出来ていないし」
「それはもう弁護士の方からご説明させていただいていますよね? 娘は何も覚えていないんです。目撃者もいたそうですし、もう良いでしょう?」
「そうは言ってもねえ」
「これ以上は迷惑です。全て弁護士に任せていますから、そっちとやり取りして下さい」
 母親が誰かを追い払うのを聞いた。
 また別の時には、母親とやっぱり知らない人の声がした。
「どうも歩さんが飛び出したようで」
「どうして歩は飛び出したりしたんでしょう」
「それが全然分からなくて。その直前に何かの喧嘩に巻き込まれた、という情報もあるみたいなんですが」
「歩が喧嘩? 有り得ないわ。それはきっとガセね。この子は引っ込み思案で大人しい子なの。そんな喧嘩なんて」
「でも、あんな繁華街にどうしていたのでしょう」
「大方、迷子になって迷い込んでしまったんだわ。で、帰り道が分からなくてフラフラしていて慌てて道を横切ろうとして撥ねられたんだわ。相手方の不注意もあるに決まってる」
「ええ、その点は追及していきます」
「いい? 喧嘩なんて、絶対有り得ないんだから、その点はきっちりと火消しして頂戴ね」
「はい、分かっています」
 一体何の話だろう。そもそも私がひかれたって、何のことだろう。
 頭がモヤモヤする。混乱して視界がぐるぐるする。何か、大切なことを忘れている気がする。何だろう。

 痛い痛い痛い!!
 目が覚めると、大勢の人間に取り囲まれて、ベッドから吊り揚げられていた。
 痛い痛い痛い!!
 ドーン、と狭い硬いベッドに移された。あ、これはストレッチャーってやつじゃない?
「歩、頑張って。これから桐花に移動するのよ? ママは先に行って待ってるから、歩は伊原(いはら)先生と一緒に救急車で来るのよ。伊原先生がいるから、何も心配ないからね?」
「……は、い」
 声が出た。ガサガサで干からびた声だが、ちゃんと声が出た。
「良かった、大丈夫、全部上手くいくからね」
 何が良かったのかよく分からない。それでも私は訳が分からないなりに安堵のため息をついた。

 夢だ、と分かっていた。
 そこは見たことがないような街だった。ゴミゴミとした汚い街だ。テレビドラマで見たことがあるような、汚らしい繁華街の一角。
 人が立っていた。黒髪のショートカットの女性だ。背が高くスッとしている。
「だから言ったのに。あゆ、私を信じちゃダメだって」
 その人は言った。
「これで分かったでしょ。もう、私に関わらないで」
 急に全身が痛くなって息が出来なくなった。夢なのに、夢だって分かっているのに、窒息する、死んじゃう、どうしよう助けて……。

「ああ!」
 目が覚めた。思わず起き上がったら、全身から鈍い痛みが突き上げて来て、痛い、より驚いた。
 周囲を見回す。広い部屋には応接セットと冷蔵庫、そばに枕頭台。見たことがある。ここは桐花総合病院の個室だ。
 以前、弟が鎖骨骨折した時に泊まっていた部屋だ。全然変わっていない。
 でも、どうして私がこんなところに寝ているんだろう。
 ベッドから降りようと体を捻ると、全身を痛みが貫いた。な、な、なんだこれ!?
 廊下を人が走る音がして、突然前触れもなくドアが開いた。
「歩さん、目が覚めたんですね?」
「院長を呼んできて!」
「良かった、こっちきてからずっと眠ったままだったから、鎮静かかり過ぎてたんじゃないかって伊原先生が」
 三人の人間がこちらを見て一気に喋る。何、何? 何が起きた?
 私が痛みで固まったままドアを見ていると、突然、父親が現れた。
「合原先生、早っ」
「しばらく娘と話をするから、皆、席を外してくれ」
 ドアをピシャン、と閉めると、父親がベッド脇に立った。私は痛みを歯を食いしばって耐えながら、もう一度ベッドに横たわった。
「お前、何があったか、覚えているか」
 疑問形でない。紋切り型の言い方に、私はカッとなった。
「何がって何がですか」
「どうしてそんな怪我をしたんだ」
 え? 怪我? ……怪我?
「やはり覚えていないんだな。最初に見た医者が、頭を強く打っているから事故当時の記憶が戻らないかもしれないと言っていた。まあいい。覚えていても仕方ない記憶だ。事故の後始末は弁護士がしている。お前はまずさっさとリハビリして、試験に備えろ」
「試験って」
「前期の試験が九月にあるだろう。一応、本試には間に合わないと伝えてある。追試を受けられる手筈になっているから、そのつもりでやれ」
「え?」
「さっさと卒業しろ。下らない、学生など何も生まない、意味のない時間だ。学びは実経験からしか得られない」
 何の話ですか?
 父親は自分が言いたいことだけを言って、それこそさっさと部屋を出て行った。
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