□ 二十一歳 秋③

文字数 3,197文字

「歩さん、あの……」
 私はハッとした。声をかけられるまで頭が真っ白になっていた。雪子さんの方へ顔を向ける。
「そろそろ、桂馬さんが帰ってくる時間です。もうお部屋に戻られた方が」
「そう、ですね」
 弟から逃げるように部屋に戻る。別に弟と顔を合わせたって問題なんかない。弟は別に私と出会したからってピリピリしたりしないだろう。何しろ、彼は自分の置かれた立場も自分が果たすべき役割も、まったくもってどうでもいいのだから。
 しかし今の私は弟に会いたくなかった。何となく。
「部屋に戻ります」
「お夕食はお持ちしますね?」
「……お願いします」
 足を引きずりながら自室に戻る。途中で祖母の部屋の前で足を止めた。もうずっとこの部屋に誰かがいるのを見ていない。祖母は私が大学に入ってすぐに体調を崩して入院した。それっきりこの部屋には帰ってきていないと聞いている。
 なぜ、祖母は私が嫌いなんだろう。ぼんやり考える。祖母も妹も、さっきの二人も。誰も彼も皆、私が嫌いらしい。一体どうしてなのか、自覚出来ない。全然、了解できない。……どうして私は皆に嫌われてしまうんだろう。
 私が悪いの? 多分そうなんだろう。でも私の何が悪いんだろう。何が彼らを怒らせるんだろう。……分からない。
 自分の部屋に入って、机の前から椅子を引っ張って窓のそばに置いた。私の部屋は北と西に大きな腰高窓が切ってある。北側の眺めは単なる山の連なりだけど、西の窓からは広く空が見える。遠くに灯家リハビリテーション病院も見える。……唯一安らぐ光景だ。目線を下げると、母屋も見えるけど。
 椅子に座ったところで、みかんジュースの瓶を持ったまま戻ってきたことに気付いた。あ、これ……ずっと握りしめたままだったのか……。
 窓の外を見ながら、さっきの出来事を思い出す。いきなりやって来た招かれざる客。二人は私の大学の同期生だと言った。……全然記憶にない。
 記憶がないことがこれほど恐ろしいことだとは思わなかった。相手がどんな酷い嘘を言っていても、私は全く気付かない。騙されっぱなしだ。どれほど事実と違っていたとしても私がそれを指摘することが出来ない。……怖い。
 そろそろ現実から逃げずに、自分と向き合う時が来たのかもしれない。思い出したくないことも、思い出さなくてはいけない時なのかも。
 それがどれだけ私自身を傷付けるとしても。

 トントン。控えめにドアがノックされた。
 一体どれだけの時間ぼんやりしていたのか、部屋の中は薄闇に沈んでいた。怪我をしてから、こんな風に気付けば時間が随分経っている、ということが多い。
 もう一度、トントン、と音がした。そういえば、雪子さんが夕ご飯を持ってくるはずだった。
「はーい」
 私は可能な限り明るい声を出して、扉を開けた。
「あ……」
「お姉ちゃん、突然ごめんよ」
 そこにいたのは雪子さんではなく、妹だった。
「夕飯、持ってきた。部屋入っていい?」
 おそらく家に存在する中で一番大きいトレーに大きなフライパンが乗っかっている。
「……あ、ああ」
 私はのろのろと通路を空けた。妹はその重そうなトレーを部屋の真ん中にあるカフェテーブルに置いた。
「重かった!」
「それ」
「お姉ちゃん、一人で食べるつもり? 二人分に決まってんじゃん」
「……」
「私もここで食べるからって言って、持って来たの。ちょっと話したいことがあるから」
 私は立ち尽くしたまま、妹の顔を見ていた。
「早く座ってよ。せっかくお姉ちゃんが好きなパエリアにしてもらったのに、冷めるじゃん」
「あ、うん」
 妹はラグにどっかりとあぐらをかいて、スプーンを振り回している。
「見て、ムール貝、たくさんのっけてもらったんだ。ママが通販で買ったやつが冷凍庫にあってさ、スペースを圧迫しているからさ」
「うん」
「ほら、エビもさ、たくさんのせたのよ?」
「これも冷凍庫の余り物だよね」
「そう。最近、ママ、通販熱が高まり過ぎてる」
 私は大人しくスプーンを持って、フライパンから直接掬った。私はパエリアが大好きなんだ。……母親が作ったやつが。
「あのさ、お姉ちゃん、ずっと言いたかったんだけど」
「何」
「私を露骨に避けるの、やめてくんない?」
「……へ?」
「ママが香を刺激しないように、とか言ったのかもしれないけど。はっきり言って、余計なお世話なの」
「……」
「私、お姉ちゃんのこと、恨んだりとか、腹立てたりとか、してないんだよね。そりゃ、お姉ちゃんを羨ましいとは思っているし、頭がいいのにこんな事故に遭ってバカじゃん、ってイライラしたけど。でもさ、だからって同じ家にいるのに顔を合わせないとか不自然じゃない? 私、お姉ちゃんが好きなんだけど?」
「……はあ」
「わっかんないだろうなぁ、お姉ちゃんは。何かいっつも壁があるっつか、他人事みたいな顔してるもん。私、お姉ちゃんと話してると、カカシと話してるみたいな気がすることがある」
「カカシ……ひどくない? もっと可愛いものに例えてよ」
「何かさ、お姉ちゃん、リアクションが薄すぎるんだよ。自覚してる?」
「してる」
「え? あそう……。……だからさ、ほら、大学入ってすぐのゴールデンウィークにさ、帰って来た時、お姉ちゃん、誰かと夜、長電話してたじゃん? あの時、すごい嬉しそうで楽しそうで、あ、お姉ちゃんもちゃんとリアクションとることあるんじゃん、って思ったんだよね」
「?」
「めちゃくちゃニヤニヤしながら電話しててさ、ホント私、お姉ちゃんにもそんな風に嬉しそうに電話する相手が出来て良かったなぁって思ったんだ」
「……全然、覚えてない」
「そっか、それも覚えてないのか。……でも、思い出せないのは、それなりに理由があるかもしれないから、無理に思い出さなくても」
「え? 理由?」
「お姉ちゃん、その人に……フラれたんじゃないのかな、って」
「ええ?! 何それ、どういうこと? そんな記憶ないけど」
「だから、覚えてないんでしょ。あの相手、彼氏だったと思うんだよねえ私」
「まさか。自分で言うのも何だけど、ないと思うわぁ」
「そうかな? まあ、違っててもいいや、とにかく、お姉ちゃんにも、そういう親しい人がいたんだよ。間違いなく、ちゃんとお姉ちゃんのいいところが分かっていて、楽しくさせてくれる人がいたんだよ。それは分かって欲しい」
「何よいきなり」
「何か、昼間に変な人が来たんでしょ? 雪子さんを脅して聞いたの」
「脅したって」
「客間にカップが置きっぱなしで、雪子さんらしくないなって思ったから」
「鋭いね香」
「ねえ、確かにお姉ちゃんは大学で嫌な思いをしたのかもしれないけど、みんながみんな悪い人じゃないと思うんだよね、甘いかな? 少なくとも一人くらいはいい人いたんじゃないかな?」
「……どうかな」
「私ね、お姉ちゃんは絶対医師になるべきだと思うの。それは後継がどうのこうのじゃなくて、お姉ちゃんみたいな変人が生きていくには、手に職つけるしかないと思ってるんだ」
「変人……」
「お姉ちゃんは医師に向いてると思う。絶対向いてる。別に桐花を継いで欲しいから言ってんじゃないの。お姉ちゃんには諦めて欲しくないんだよ」
「何かよく分かんないけど、わかった」
「いい? 頑張んなさいよ」
「ハイ……」
「じゃ、さっさと食べよう! 私、ムール貝、これで四つ目だよ」
「私、まだ一個しか食べてないよ」
「へへへ、勝った」
「何がよ」
 本当は妹にもっと聞きたいことがあった。彼女自身のこととか。特に成績とか。でも、聞けなかった。妹が聞いて欲しくなさそうな気がしたから。この楽しい雰囲気を壊すことがとても怖かった。ずっと話せなかった妹と、関係を修復できそうな今、彼女の嫌がるようなことは少しも言いたくなかった。

 妹が台風のように立ち去って、私は改めて自分の頭の中と向き合うことにした。妹が言ってくれた、いい人もいたと思う、という言葉を支えにして。
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