□ 四十一歳 冬⑩

文字数 2,934文字

「先生、どうした? 顔色悪いよ? 真っ青を通り越してどす黒いけど」
 課長が突然肩を叩いてきた。何気なくパソコンの時計を見ると十八時一分。今日も一日が終わりかかっていた。
「ねえ、大丈夫? どうしたの? もしかしてコロナ罹ったんじゃないわよね?」
「いや、それはない。……と思います」
「とにかく、今日はもう帰りな? 幸い、調査が残っている患者もあと二人だし。若者だから、大丈夫だよ。先生の身体は一つしかないんだから、早く元気になってもらわないと」
 チラッと結木主査の顔色を見ると、珍しく心配そうな顔をしている。そんなに私、おかしいの?
「……すみません。じゃあ、もう帰らせてもらいます」
「うんうんそうしな。今夜はゆっくりして、明日、元気に来てちょうだい」
 課長は本当に心配してくれているのだろう。私の肩をもう一度ポンポンっと叩いて、自席に戻って行った。そのまま何となく見守っていると、彼女は流れるように自分の荷物をまとめて、じゃあ私もさよーならー、と言って帰って行った。えー……私の代わりに働こうって気はないのかい……。
「先生、いいよ。課長はいない方が、むしろ。そしてそんな緑色の顔した先生もいない方がありがたい。先生の面倒まで見てられないから」
 主査が言う。言ってる内容はともかく、私を早く帰らせてくれるなんて滅多にないことだから、私は彼の気が変わらないうちに、さっと席を立った。
「トイレ行って、帰るね」
 ハンドタオルをトートバッグから引っ張り出して、トイレに向かう。トイレの途中にある、既に電源を落とされた自動ドアに薄く映る自分の顔は、そんなに変には見えなかった。
 トイレの電気をつけて、洗面台の鏡を思わず二度見した。確かに、凄い顔つきだ。目の下の隈が真っ黒だし、肌が何となくくすんで灰色になっている。
「あ、そっか……今日はすっぴんじゃん……」
 化粧をしていないだけで、こんなに人の顔は変わるんだなぁ、なんて他人事のように思う。肌がくすんでいるのは、ファンデーションを塗ってないからで、よく考えたら、これが本当の私の顔だ。
 ……こんな顔を、私は慧に晒してたんだ……あの人、実はすごく目が悪いんじゃないの? 自分でも寒気がするほど老け込んだ暗い顔を見て、私は深く溜息をついて、用を済ませに歩き出した。


 もうずっと乗っていなかった帰宅ラッシュの地下鉄に、うんざりを通り越して吐き気すら覚えながら揺られ、自分のマンションへよろよろしながら辿り着いた。エレベータを待つのも辛く、壁にぐったりともたれながら、私は自分の普段の姿を取り繕おうとしている。
 始めが肝心。元気に声を出す。仕事の疲れを家庭に持ち込むのは絶対に嫌だった。こんなにコロナのお陰で在宅勤務が増えている世の中なのに、夫は二時間近くかけて出社し、あまつさえ息子の世話も家事も全てやってくれている。せめて私が早く帰宅した時くらい、夫の負担を軽くしてやりたかった。
 玄関ドアを解錠し、バッとドアを開けて、大声で、ただいまーと叫ぶ。部屋の奥から息子が走ってくる足音が聞こえた。
「ママー! お帰り! 疲れてるんでしょう? 早く座りな?」
「ただいま、たっくん、週末は変わりなかった?」
「おう。テストもめちゃくちゃ出来た……ってほどではないけど、まあまあだったし」
「そうか、それは良かった。あ、もうテスト結果出てるよね?」
「まだ、日曜の全国模試は出てないけど、土曜の振り返りテストは、もう出てるかな」
「そう、後でパパと確認するわね」
「えー別に見ないでいいしー」
「たとえコロナで自粛って言ったって、受験は待ってくれないのよ? たっくんはしっかり頑張ってくれなくちゃ」
「あーあ、帰ってきて早々、それかよ」
 息子はふてくされたような、でも少しにやけているような顔つきで先にリビングに戻って行った。あの様子だと、かなり自信があるんだろう。
 リビングを通り抜ける時に夫に声をかけられた。
「おかえり。ごめんね、今日、ちょっと帰りが遅くなっちゃって。もうすぐカレーが出来るから、着替えておいで」
「カレーなの?」
「タカがカレーにしろ、カレーにしろってうるさくてさ。まあこれで明日もカレーに出来るから、助かるっちゃ助かるかなって」
「たっくんに聞くとカレーばっかりなんだもんねぇ」
「今度はビーフシチューにしてやるよ」
「そうして。冬になったから作り置きしても腐りにくいし、助かるよね」
 夫は帰ってきてそのまま夕食の準備を始めたらしい。社服を羽織ったままだ。
「私が見てるから、先にパパ、着替えたら?」
「いや、もうすぐ出来るし、大丈夫。先にママ、荷物置いておいでよ」
「じゃあ、すぐ交代するから」
 私は息子と共用の勉強部屋へ入ると、自分の机の上に荷物をドサっと置いた。
 着替える気力が湧かず、つい椅子に座り込んでしまう。そのまま重力に逆らえず、机に突っ伏して眠ってしまった。


 ああこれは夢だな、と分かるほど明らかな夢だった。私は小学校の教室にあるような机に座って、スマホの電卓機能を使って、何かを一生懸命計算している。目の前にあるのは暗算でも出来そうな簡単な問題ばかりなのに、なぜが全然答えが出てこない。だんだん、足し算も引き算も、それが何なのかさえ分からなくなってくる。時間制限があるのに、そればかりを思いながら、冷や汗をかいて、とにかく計算する。
 どうしよう、どうしよう、全然わかんないよ……もうすぐ時間が終わるのに、どうして出来ないんだよ……。
「あゆ、もういいよ、そんなこと、あゆはしなくていいんだよ。全部、私のせいにしてくれていいんだよ」
 後ろを振り返るといつの間にか慧が立っている。ニコッと破顔すると、私からスマホをとりあげ、頭を撫でる。
「あゆは心配しなくて、大丈夫だよ」


「ママ! ママ! 何寝てんの!」
 ハッと目覚めると、息子が私の背中に軽くジャブを打ち込んでいる。
「ちょっと、痛いんですけど!」
「だって全然起きねーんだもん。もう、カレー出来てるし、テーブルに並べたし、全部俺がやったんだぜ、早く来てよ」
 小五の男の子とはこんなもんなんだろうか。すぐに暴力を振るってきて、それが全然悪いことだと思っていない。こんなの戯れているうちだと夫は言うけれど、どう考えても暴力だと思う。ああ、痛い。
 のろのろと服を着替える。椅子にかけっぱなしだった先週も着ていた部屋着をそのままかぶって、リビングのダイニングテーブルへ向かう。
 夫と息子は既に座っていて、でも私が座るのを待ってくれている。二人は家族三人で食事することにとても拘っている。コロナ業務で私の帰りが遅くなる日は、二人で食事するのが本当に淋しくて億劫なのだと、いつも文句を言っていた。
「ごめんね……」
 二人の顔を見て、思わず言葉が零れた。
「どうした? ママ?」
 夫が心配そうに目を細める。それを私は無表情に見返して、ううん遅くなったから、と嘯いた。
 人は、本当に後ろめたい時、優しくなるらしい。じゃあ私は人ではないのかもしれない。こんなに冷静に嘘をさらっと口にして、全然優しい言葉が出てきもしない。
 さっき夢で慧に頭を撫でられた、その幻の余韻を感じながら、私はいつも通りにカレーを笑って食べている。
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