ヒメジョオン  

文字数 3,639文字

4月。
風の強い日。

 盛りを過ぎた桜の花びらが風に煽られ、花吹雪となる。
「この風で今年の桜は終わりだな」
カオルは惜しげもなく散らばり落ちる薄紅の花を見てそう思った。
 ピアノバックを自転車の前籠に入れるとペダルを踏んだ。母がドアを開けて「風が強いから歩いて行きなさい」と言ったが「それじゃ,遅れちゃう」と自転車をスタートさせる。
「気を付けてね」母が大きな声で言った。


門の所でインターホンを押す。
「ハイ」という声。
「こんにちは。榊原です。レッスンに来ました」
カオルはインターホンに向かってしゃべる。
「こんにちは。いらっしゃい。どうぞ」
かちゃりと音がして門が解錠された。カオルは自転車ごと門の中に入れて、そこに停めた。
庭先からちょっと回ってレッスン室の窓を覗く。
女の子がピアノを弾いてその横で先生が腕を組んで見ていた。カオルは二人の姿を確認すると玄関に向かった。

玄関のドアを開けてくれたのは先生のお母さんだ。
にこにこと笑いながらスリッパを揃えてくれる。
廊下の奥からピアノの音が聞こえた。
「さあ、どうぞ。今は真奈美さんがレッスンをしている所よ。あと5分位で終わるわね。静かに部屋に入って待っていてね」
おばさまが言った。
カオルは分かりましたと答えた。

金縁の眼鏡を掛けて、いつも綺麗にお化粧をしている年配の女性の笑顔は先生に似ている。だからカオルはこの人も好きだ。
カオルはスリッパの音を立てない様にして廊下を歩く。廊下には椅子がひとつ置かれていた。
レッスン室のドアを静かに開けると小さくお辞儀をして部屋に入った。部屋の隅に置いてある椅子に座って真奈美のピアノを聞く。先生がちらりとカオルを見て小さく頷く。カオルは頭を下げる。真奈美はカオルよりも1つ下の小6である。お教室に来て、もう一年以上経つが、まだ、バイエルを卒業できない。

先生が「ちょっとストップ」と言った。
「そこはそうじゃ無い。・・・・譜面を良く見て」
先生が譜面を指差して「タタタンタッタ・・」とリズムを取る。
真奈美の前に体を乗り出し、左手で鍵盤を叩く。
先生の体が真奈美の肩に触れた。
綺麗な白い指が正確なリズムを刻む。

「・・・こんな感じ」
先生は真奈美に言う。
真奈美は「はい」と言いながら顔を赤くしている。
カオルは「キモ・・」と心の中で呟きながらも自分の楽譜を見る。

真奈美が終わってカオルのレッスンの番になった。
先生が「お待たせしました。カオルさん。こんにちは。こちらへどうぞ」と言って微笑んだ。
カオルの胸がきゅっと痛くなる。顔が赤くなる感じがした。慌てて下を向いて「宜しくお願いします」と言ってお辞儀をした。

「ちゃんと練習してきたかな?」先生は楽譜を探す。
「練習して来ました」
カオルは先生の目を見てにっこりと笑った。


 以前、レッスン時間を間違えて前の回に行ってしまった事があった。
窓から見ると先生が独りでピアノを弾いていた。
おばさまがスリッパを出して教えてくれた。
「あら?カオルさん。時間、間違ったの?・・・でもね。今ね。誰もいないの。先生が独りで弾いているから、廊下で静かに聴いて待っていてね」
そう言った。


ドビュッシーの「月の光」が流れていた。
カオルの大好きな曲だ。
カオルはそっと廊下を歩いてレッスン室に向かう。壁際にある椅子に座って部屋から洩れる曲を聴く。

カオルは先生がそれを弾いている姿を想像する。強くて長い指が自在に鍵盤の上を走る。
先生は時々目を閉じる。曲想に浸っている感じ。

先生はなんて素敵なんだろうと思った。静かで優しくて礼儀正しくて。
それに温かくてユーモアがあってスマートで。
学校の先生達とは大違い。

だからカオルもここへ来ると一人前の女性として振舞わなくてはならないと感じる。
家や学校でのカオルとは全く別人の様になる。

カオルはうっとりと曲を聴く。メロディーは月の下で愛を囁く恋人達の語らいみたいだ。
曲の最後の音が静かに消えてカオルは「ほうっ」と息を吐いた。何て素敵な時間だったのだろうと思った。

 その余韻に浸っていると、突然ドアが開いた。
先生がカオルを見て驚き「うわっ、びっくりした」と言った。
カオルは慌てて立ち上がり、お辞儀をした。
先生は「あれ、カオルさん。この時間だった」と言って部屋に戻ってタイムスケジュールを確認する。
カオルは慌てて「済みません。私が間違えたのです。この次ですよね」と言った。
先生は「丁度、この回の子が急にお休みになって。時間が空いたから、いいよ。少し早めに始めましょう」と言った。


日曜日の午前中。
山形の田舎から大量にサクランボが届いた。
母が「ピアノの先生のお宅にもお裾分けをしましょう」と言った。
「カオル。先生の所に届けてあげて」
母はそう言ってサクランボを箱に入れた。


カオルは自転車に乗ってサクランボを届けに行った。
インターホンを押すと、おばさまが「あら、カオルちゃん?どうしたの?今日はお稽古はお休みでしょう?」
と言った。
「母の田舎からサクランボが届いたのです。それで届けに来ました」
とカオルは言った。
「あらまあ、わざわざ持って来てくれたの?それは有難うございます」
声は言った。

門が開く音がして、カオルはいつもの様に自転車を乗り入れた。
庭にバイオリンの音が漏れて聞こえる。カオルは立ち止まった。
庭先からレッスン室の窓をちょっと覗いてみた。
先生の姿が見えた。それともう一人。バイオリンを弾いている女の人の後ろ姿。
髪の長いすらりとした人だった。白いフレアスカートが揺れる。
玄関のドアが開いてカオルは慌てて玄関に向かった。
玄関先には赤いハイヒールがきちんと揃えて置いてあった。

おばさまは「美味しそうなサクランボ。嬉しいわ」と言ってくれた。
バイオリンの音が廊下の奥から流れて来る。
曲は「G線上のアリア」。
カオルの表情を見て、おばさまはレッスン室を振り返った。
「本当に綺麗な曲ね。・・・バイオリンっていいわね。今、大学時代のお友達が見えているの。今度のコンサートでバイオリンの伴奏を頼まれたの。ちょっとしたコンサートなのだけれどね。お友達が先生の伴奏でこれを弾くのよ。で、その練習をしているの」
カオルはにこりと笑って言った。
「それは素敵ですね」
暫く曲を聴く。
曲が終わった。

「サクランボ、後で先生とお友達と一緒に頂くわ。お母様に宜しくお伝えください」
おばさまはそう言って、カオルは「はい。じゃあ、失礼します。さようなら」と言ってドアを出た。

カオルはこっそりとまた窓から覗いてみた。
先生の背中が見えた。立ち上がって女の人を抱き締めて、キスをしていた。
女の人が先生の首に両腕を回している。
カオルは息を飲んだ。
女の人の閉じていた目が開いて一瞬カオルを見た。
カオルは慌てて隠れた。そして門まで走って行った。


公園に自転車を止めてベンチに座った。
さっき、目にした場面が頭に焼き付いて離れない。胸がどきどきした。何度も何度もその場面を思い出す。胸がぎゅっと押される感じがして鳩尾辺りがぐうんと痛くなる。
涙が滲んで来た。

ふとスズメが飛んで来た。
スズメはカオルの目の前のヒメジョオンの細い茎に止まった。
ヒメジョオンがスズメの重さで撓んだ。
カオルはじっとそれを見た。
スズメってこの程度の重さなんだ。と思った。
スズメが飛び立ってヒメジョオンが反動で揺れた。
カオルはヒメジョオンの揺れが止ってもそれを見つめ続けた。

カオルはヒメジョオンを折るとその茎の中を見た。
茎の中は詰まっていた。
ヒメジョオンは茎の中が詰まっていて、ハルジョオンは茎の中が空洞と言う話をどこかで聞いた記憶があった。
カオルは折ったヒメジョオンを自転車の籠に入れた。

自転車で帰る途中、ピアノの先生と女の人に出会った。
向こうから来る二人がそうだと分かった途端、カオルはどこかに逃げたかった。だが、もう遅かった。
女の人は赤いハイヒールを履いて先生の隣を歩いていた。色の白い綺麗な人だった。
先生は微笑んで片手を上げた。
カオルは自転車を止めた。
「カオルさん。さっきはサクランボを有難う御座いました。みんなで早速頂いたよ。美味しかったよ。ご馳走様」
先生が言った。そして女の人に「ねえ?」と声を掛けた。
女の人はにっこりと笑って「瑞々しくて甘くてとても美味しかったわ」と言った。
カオルは赤い顔をしながら下を向いて「あの、お母さんの実家で送ってきてくれて・・・山形の佐藤錦で、粒も大きくて・・だからすごく美味しくて」としどろもどろに返す。
そんなカオルを二人は微笑んで眺める。

「じゃあ、また来週。しっかり練習をして来てくれよ」
と先生は言った。
カオルは頷いた。

「さようなら」
カオルはそう言うと女の人を見た。
「さようなら」
女の人が言った。
カオルは下を向いた。そして自転車をスタートさせた。
暫く行って、停まって後ろを振り返った。先生の腕が彼女の背中に回った。それをじっと見て、籠の中のヒメジョオンを手に取る。
ありふれたつまらない雑草。誰にも振り向かれない地味な花。

 カオルはそれを捨てた。

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