F男に付ける薬

文字数 1,445文字

「8月20日  入水」

 文章の始めにそれが来る。
 F男はPCのその文字をたっぷり2分間見詰めた。
 最初にその文が思い浮かんだ。だが、そこから身動きが取れなくなったのだ。一体、ここからどうやって物語を展開したらいいのだろうか。

「物語、終わっているし・・・」
 F男は呟いた。
 終わってんだろう? 終わっているよな? 結果がここにばーんと出ているのだから。読者はああ、こいつは何だか知らないが、人生に失望して、川だか池だか、海だかに入り込んで自殺したんだなって思うよな。だから、これは物語の一番後ろに置かなくちゃならないんじゃないか?  

 斯々然々、こんな事があったんですよ。
 世の中にはそんなとんでもない事があるんですよ。僕はびっくりしました。あなただってびっくりするでしょう? 
「何と!! 世の中にはそんな酷い事があるのか!」って。
 その余りの理不尽さに、余りの残酷さに!

 ・・・でも、本当の事を言うと、己の馬鹿さ加減に絶望して僕は自殺をしようと考えた訳なんです。もう生きているのが嫌になったのです。お前なんか死んじまえって自分で思ったんです。本当はそうなんです。

 いや、別に日付はどうでもいいんですよ。思いたったが吉日です。
 ただ、春先とか秋口とか、真冬とかに水に入るのは寒くて嫌だなって思っただけなんです。だから夏なんですよ。夏だったら気分良く水に浸かって、そのままあの世に行けると思いませんか?

 ・・・んな訳、ねーだろ。溺死はめちゃくちゃ苦しいんだ。
 じゃあ、苦しまないためにアルコールを大量に摂取して。
 まあ、それで結果として「入水」。・・んで、終わり。

 時系列的にはそうなる。それが正しい筋道だ。
 職場でも教わったではないか。きちんと筋道を立てて説明しろと。どうも、お前の話はごちゃごちゃとしていて分かりづらいと。
 そうなんだよ。そうなんだけれどなあ・・・。

 だけど、どうしても「8月20日 入水」の文が最初に来るのだ。これがスタートで無ければならない。それは巨大な磐座みたいにどーんとそこに居て、動かない。
 それでF男はその磐座の周りをうろうろと歩いて回ったり、腕を組んで眺めてみたり、時には両手で力一杯押して動かしてみようとするが、それはびくともしないのだ。

 ・・・うむ。
 コーヒーカップを手にして、それを口に運ぶ。
 コーヒーはもう入っていなかった。もう一杯飲もうかな、と思って時計を見上げた。
 やべ。魔王行かなくちゃ。
 やべ。もう行かなくちゃが、頭の中で、魔王行かなくちゃに変換された。
 F男はちょっと笑う。


 魔王か。これは俺様もその話に出演させろという闇の魔王からの秘密のオファーを、俺が偶然感知したのかも知れない。
 ・・・・深刻な話が一気におちゃらけたファンタジー小説になってしまう。これは駄目だな。
F男はじっと考える。・・・魔王は駄目だ。魔王はこの次だな・・・。
 はっと気づいてどたばたと洗面所に向かう。

 ああ・・今日も朝飯を食い損ねた。朝から、こんな事を時間ぎりぎりまでやっているから、この後がどたばたなんだよな。そう反省をするのだが、ついついPCを開いてしまう。
 ああ、仕事に行きたくない。仕事に行きたくないよ~。
 そう思いながらも、体はサクサクとやるべきことをやってくれる。ルーティンって凄いなと思う。

 F男はドアから飛び出した。飛び出したが、頭の中は「入水」の物語で一杯だ。
 彼の目には車が見えなかった。白い車が。 
 すごいクラクションが鳴り響いた。すぐそこで。

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