怖い話  行き止まりの女

文字数 4,969文字

*  これは怖い話です。怖い話が苦手な方は読むのを止めておくことをお薦め致します。



 これは私が伯父であり作家でもあるR男から聞いた話です。
大学4年生の時の事でした。

 R男は妻と二人暮らし。子供はいません。なので甥っ子である私の事をとても可愛がってくれました。私が遊びに行くとR男は私の為に寿司を取ってくれました。私の家は裕福では無かったので、寿司など滅多に食べる事が出来ませんでした。
 大学に入っても、自分のバイトの稼ぎで学費など払っていました。贅沢をするゆとりなど有りませんでした。

 私は御馳走を目当てに伯父さんの家に遊びに行く事もあったし、彼の面白い話を聞いたり、本を借りたりするために行く事もありました。何しろ伯父さんの家には壁に沿って作られた本棚に本がぎっしりと詰まっていたのですから。

 
 伯父さんの趣味は釣りです。
時には取材旅行と称して伯母さんを伴って地方の川へ釣りに行く事もありました。
伯母さんの趣味は水彩画で伯父さんが釣りをしている間、伯母さんはそこで絵を描いているそうです。
一度、伯父さんは釣りの旅行記を出版したことがありました。その時の挿絵は伯母さんの絵でした。中々素敵な絵でしたよ。本当に仲の良い夫婦なんです。


「伯父さんはホラーは書かないのですか?」
ある日私は尋ねてみました。
その頃テレビでは「本当にあった怖い話」的な番組がよくやっていましたし、またそれがいろいろと評判にもなっていたからです。

伯父さんは言いました。
「僕の唯一の武器は想像力です。想像力と言うのは両刃の剣なんだよ。分かりますか?
物語を考える時に、僕の頭には具体的な映像が浮かび上がる。僕は自分で見ている映像を詳しく書き起こしている。

嫌な事や怖い事、残酷な事を想像すると、それはまるで現実にあった事の様に我が身に迫る。僕はホラーを書いていると自分で怖くなってしまってね。気分が悪くなるんだ。だから書かないんだよ」
伯父さんは笑いながらそう言いました。
「君は怖い話が好きですか?」
私は「はい」と答えました。
伯父さんは穏やかに笑ったまま私を見ていたけれど、「じゃあ」と言って体を乗り出しました。
「怖い話をしてあげようか?これは実際に僕が体験した話なんだけれど・・・」
伯父さんがそう言ったので私はワクワクしながら「それこそ『本当にあった怖い話』ですね」と答えました。

じゃあ、ちょっと酒でも飲みながら話をしようか・・・。
伯父さんは立ち上がって冷蔵庫から冷えたビールを持ってきました。
2つのグラスにビールを注ぐと自分と私の前に置きました。
そして話を始めました。


「数年前、道子と一緒にB県の方へ行ったのだ。・・・いや、実はコロナ禍の中で・・・外出も旅行も自粛と言われていた頃の話なんだが・・・。取材旅行と称して出掛けたのだ。あれはかなり怖い思いをしたなあ・・・」
伯父さんはそう仰いました。そしてサイドボードの上の写真をじっと見ていました。
写真には釣竿を持った伯父さんと帽子を被った伯母さんが湖をバックに写っています。
私もつられてその写真に目を移しました。

今思うと、それが災厄の始まりだったかと思います。

「自粛と言われて、我慢をしていたのだが・・・どうにも出掛けたくなってしまってね。それで道子と一緒に旅行に行ったのだよ。一泊の温泉旅行程度ならいいんじゃないかって・・・行ってみたら結構旅行客がいてね。僕は『何だ。結構人は出ているんだ』って思ったよ。その時は割と大きなホテルに宿泊したのだ」

「そこのホテルは前にも泊まった事があってね。近くに湖があるんだよ。そこで釣りができるんだ。釣りを目当てに来る客もいるんだよ。釣っても持ち帰りは出来ないから、僕は湖に返してしまうのだけれどね。勿論持ち帰る人もいるよ」

「夕食後に温泉から部屋に帰るのに、一人でエレベーターに乗ったのだ。温泉は1Fにあってね。僕の部屋は7Fだったから、7Fを押したのだ。そうしたらエレベーターが4Fで止ってね。ドアが開いたのだ。だから誰かが4Fでエレベーターを呼んだのだと思った。ところが開いたドアの向こうは真っ暗で誰もいないんだ。僕は『おやっ』と思ってドアから首を出してきょろきょろと辺りを見渡した。4Fは無人でしんと静まり返っていた。僕は『おかしいな』と言いながら『閉』を押して7Fに向かった」

「そのホテルはコロナで宿泊客が激減していたから、4Fから6Fはその時使用していなかったんだよ。・・・・さっきの真っ暗なフロアを思い出して僕はちょっと嫌な気分になってね。思わず1人しか乗っていないエレベーターで後ろを振り返ったよ。4Fで何かが乗り込んで来たんじゃないかと思ってさ」


「それで部屋に帰って、妻にその話をしたんだ。そうしたら妻は『ああ・・・』と言って・・・。
伯父さんはそこで言葉を止めてビールを一口飲みました。

妻はこう言った。
「さっきね。廊下の行き止まりの所・・・・このホテルに着いた時から感じていたのよね。あの行き止まりの所に何かがいそうな感じがするって・・・。行き止まりの場所でそう感じるってたまにあるのよ。・・・私はホテルに着くと、廊下の行き止まりの場所を必ず見るの。・・・いえ、別に理由なんか無いわ。何となくそういう習慣なのね」
僕はぞっとして返したんだ。
「嫌な事を言うなよ。そんな事を言われたら、僕だって行き止まりの所が気になるじゃないか」

伯父はそう言うと自分の背中に手を回しました。
「どうも、こういう話をするとね・・・背中がぞわぞわして来るんだ。肩が重くなると言うか・・」
そう言って笑いました。

道子は笑って答えた。
「大丈夫よ。私がいるのだから」
とね。

実を言うとね。武君。道子は僕の御守りと同じでね。僕は道子と一緒にいる事で道子に守られていたのだと感じるんだ。いや、昔はそんな事は考えもしなかった。けれど、年をとってみるとね。そんな風に感じる事があるんだよ。


でね。
これには続きがあるんだ。

その夜。
僕は夜遅くにもう一度風呂に行ったんだ。
もう仕舞の頃だな。
で、帰って来て布団に入った。道子はもう眠っていた。
真夜中にふと目が覚めたら道子がいないんだ。
僕はどこに行ったのだろうと思って、布団から起き上がった。
トイレでも無いし・・・・僕は部屋のドアを開けて廊下を覗いてみた。
廊下は真っ暗だった。何で真っ暗なんだろうと思って、きょろきょろと見回した。
ぼんやりとした非常口のライトの下に・・・廊下の一番端の行き止まりの所に道子がいたんだ。
僕はびっくりしたよ。
道子は行き止まりの壁に向かってじっと立っていて・・・僕は慌てて道子の所に走って行って腕を掴んだ。
「何をやっているんだ」と僕が言うと、妻は振り向いた。
道子は僕を見て「あなた、靴を返してくれって」と、そう言うんだ。
「靴?」
僕はそう返した。
「あなた、今日、湖で釣りをしたでしょう?靴を釣り上げたわよね。覚えている?・・あれ、早く返してあげて。あれが無いと歩けないっておっしゃるの。・・・返さないと取りに来るそうよ」
「・・・?誰が?」
僕がそう言うと妻は壁を指差して「この方が」と言ったんだ。
僕は何も無い壁に視線を移した。
そうしたら君、今まで何も無い白い壁だったそこに、長い髪を垂らした女が・・・ぼさぼさの髪で顔は隠れていたが、水をぽたぽたと垂らして・・・僕は思わず悲鳴を上げたよ。で、慌てて道子の腕を掴んで部屋に駆け戻ったんだ。

僕はドアを閉めて道子に言った。
「靴って、あの靴か?釣り糸に引っ掻かった靴か?」
僕は言った。
道子は頷いた。

その時、ドアを「こんこん」とノックする音が聞こえて、僕はびっくりした。
ノックの音はもう一度聞こえた。
「こんこん」・・・更にもう一度「こんこん」って。
道子と僕は抱き合ってぶるぶる震えながらドアを見詰めたよ。
「絶対に開けてはいけないわ」道子は囁くように言った。

僕は「はっ」と思った。
慌てて部屋に入ったから鍵を掛けていなかったんだ。
「道子。ヤバい。鍵を・・」と言った所で道子は唇に人差し指を置いて「しい・・」と言った。道子が「私が鍵を・・」と立ち上がった時、突然ドアがぎいっと開いて・・・

話を聞いている私のどきどきは最高点に達しました。

髪を振り乱した女が入って来たんだ。そして言った。
「あなた!何をしているの!!」って。
道子だった。
「私はここよ!」って道子が言った。

僕は驚いて道子だと思っていた女を見たんだ。
女は髪からぼたぼたと雫を落として・・縺れた黒い髪の間から充血した目が僕を見ていた。
恨めし気な目で。
体中に水草やらゴミやらをくっ付けて、白く浮腫んだ顔のあちらこちらが魚に喰われて・・・。骨が出ているんだよ。
君、僕はあんな恐ろしいものを見たのは初めてだったよ。
部屋中に腐臭が漂った。生臭い匂いだ。腐った肉の匂いと水と泥と・・腐敗した植物の匂いだろうか?・・兎に角そんなものが部屋中に広がったんだ。

僕は悲鳴を上げて女から離れた。
腕にはごっそりと女の黒髪が纏わり付いていた。僕は夢中になってそれを振り落とした。
さっきまで、女と一緒に蹲っていた体に、水草や腐った落ち葉が付いていて、ひいひい言いながらそれを夢中で払ったよ。

突然女は水と化した。頭からざあっと大量の水が噴き出したと思ったら、女は全て水になって流れてしまった。僕はもうパニックに襲われてね。
悲鳴を上げて廊下に飛び出たよ。
廊下には電気が煌々と付いて、ホテルの従業員が数名、懐中電灯を持って立っていた。
驚いた顔で僕を見ていた。

僕はね。君、温泉の帰りに7Fで降りたと思っていたら6Fにいたそうだ。使用していない真っ暗なフロアで何故か施錠のされていない部屋にいたんだ。
道子は夜遅くに温泉に行ったまま帰って来ない僕を心配してホテルの従業員に告げたらしい。それでみんなで僕を探していたんだよ。

従業員が部屋の床を見ると、たっぷりとした水の染みが付いていて、水草が数枚落ちていた。彼らはそれを確認すると僕と道子をホテルの支配人の所に連れて行った。
支配人は困った顔で言った。
「あの部屋は使用していないのですよ。・・・あの部屋にご宿泊なさった方が湖で溺れて亡くなったのです。事故か自殺かは不明なのですが・・・。鍵を掛けている筈なのに、時々解錠されてしまいましてね。

靴をね。間違って釣り上げて、それを湖に返してあげれば、何でも無いのですが、そのままにして置くと返してくれってやって来るんですよ・・・全く困ったものだ。前にも有ったのですが・・・。ここの所、コロナで客足が遠のいて・・・・彼女も退屈していたのでしょうかねえ・・・?」

「明日、朝、湖に行って靴を水に投げれば大丈夫ですよ。・・・それで、お客様にお願いなのですが・・この事は内密にお願いいたします。ウチの売り上げに響きますので。・・・お詫びに今回のホテルの宿泊代はサービスさせて頂きますから。・・ウチも迷惑なんですよ。部屋は水浸しになるし、その下の部屋にも水漏れが出来るし。それらの部屋は稼働できないんです」
支配人は困惑した顔でそう言った。

僕と道子は夜が明けるとすぐに湖に行って、岸に放置して置いた靴を湖に投げ入れた。そしてもう二度と僕の所に出て来ないでくださいと願ったんだ。
それ以来、女が出て来る事は無かった。だが、僕達は二度とそのホテルには行かなかった。

伯父は話を終えると「どうだい。武君。怖い話だろう」と言いました
私は鳥肌の立った腕を擦りながら頷きました。
丁度話が終わった所で伯母さんが帰って来ました。
「あら、武さん。いらっしゃい。夕ご飯作るから一緒に食べましょうね」と言ってくれたので、私は「有難う御座います」と返しました。



私は湖のほとりで釣り糸を垂らす。
隣を見ると先月会った男が同じように釣り糸を垂らしていた。その向こうにもその向こうにも似た様な男達が釣り糸を垂らしている。
女性もちらほら見える。
みんな、靴が掛かるのを待っているのだ。

私は隣の男に軽く会釈をした。男も笑って頭を下げた。
男は言った。
「やあ、・・なかなか釣れませんね」
「はあ・・・」
「もう給料が底を尽きそうですよ」
男は笑った。
「いやあ、私もですよ」私も笑った。
お陰で私の少ない給料はホテル代と釣り道具代に消えて行く。
これを災厄と言わずして、何と言うのかと思った。
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