日帰り旅行

文字数 2,769文字

どこかのおばちゃんが「お早う」と言った。
私は振り向いた。
誰が言ったのか分からない。近くにそれらしき人は見当たらなかった。

勿論私に言った訳では無い。誰か別の人に。
職場に向かう道を歩きながらどこかで聞いた声だと思った。

 私はその声の場面を思い出す。どこだっけ?どこだった・・?
そしてああ・・と思い出す。
2日程前の夢の中に出て来たおばちゃんの声だと思った。

そう思った途端、するするとその夢を思い出した。
青森に旅行に出掛けたという設定だった。

夢の中で私はどこかの古びた温泉施設にいる。窓ガラスが汚くて湯気で曇っていた。金属部分は温泉成分で腐食しつつある。

「こんにちは」
地元のおばちゃんが私に挨拶する。
私も挨拶を返す。
正しくその声だった。

湯船に浸りながらおばちゃん達が話をしている。

おばちゃんAが言った。
「この温泉も地元でない人が時々来るねえ。コロナだと言うのに。困ったものだ」
私はびくっとする。
「観音様の温泉だからねえ」
おばちゃんBが言う。
「そう言えば裏の観音様の手入れは終わったのかい?」
私はその話を小耳に挟む。そして考える。

この温泉の裏手に観音様が祀られているのだ。これは帰りに寄ってみよう。

温泉施設を出て裏手に回るとお堂とは言えない程粗末な小屋の中に観音様はいらっしゃった。
その小屋には色褪せた千羽鶴や小さな風車などが沢山飾られていた。
供え物の一升瓶や菓子袋なども。
そして観音様は横になっておられた。こんな横になって寝ていらっしゃる観音様は初めて見た。
私は「ああ・・。お手入れ中」と思いながら手を合わせ、そこを後にする。

リュックを背負った私は広い道をずんずん行く。
道の横は山になっている。
丁度山向うから来る道とこちらからの道の合流地点に神社があった。その三角地点に。
神社は二つ。
一つはすぐ近くに社が見えていた。
灰色の石の鳥居。
そこにお参りをする。
小さな社だ。
もう一つは鳥居から入った石段の参道がずっと山の奥深くに続いていて先が見えなかった。
私はその道の先を見詰める。
入って行こうか行くまいか暫く迷う。

 基本的に私はそう言う道が好きだ。すごく好きだ。
山の中に細く続く古びた石段の道とか、森の中に入り込んでいる細い道を見付けると無性にそこを歩きたくなる。
その先がどこに辿り着くのか知りたくなる。
何故か道が呼んでいると感じる。是非ここを通って奥に行きなさいという様に。
そしてまた、そう言う道をよく見付けるのだ。

その時もこの道を辿って行きたいと思う私と、いやいやたった一人でこんな道、危な過ぎると思う私が居る。
 好奇心。それと危険信号。そのせめぎ合い。
神経がぞわりとする怖さ。体がぞわぞわする。
「好奇心は猫を殺す」
私は呟く。
それでもそこに行きたい。

「折角来たのだから」
自分にそう言い聞かせる。
ちょっと行ってみようか。
私は苔むした石段に足を掛けた。
石段は歩幅に合っていてとても上りやすかった。
私はリズムよく石段を歩く。滴る様な緑の中を歩く。厚塗りの油絵の緑。黒に近い程の緑。
土の匂い。木々の匂い。たっぷりと樹木のエキスが含まれた重い空気。
湿気。
それが不快か心地良いか。

「来て良かった」
私はそう思う。そして立ち止まって石段を振り返る。
そろそろ戻ろうかとも思う。
だが遠く緑の向こうにチラリと白い鳥居が見えた。
どうするか。そこまで行くか。
私は考える。
「折角来たのだから行ってみよう」
また、決心する。

そうやって私は誰もいない神社に到達する。
古い神社。
白い鳥居の前で一礼をする。
社の建築材は白茶けてささくれていた。欄間の彫刻は見事な物だった。昔は美しく彩色されていたのだろうけれど、今ではすっかり色が落ちてしまっていた。檜皮葺の屋根と太い柱。
ああ。百待月神社だ。
と思った。

百待月神社は夜しか行った事が無いからその姿は分からない。
でもきっとそうなんじゃないかなと私は勝手に思う。
手水舎からは竹の筒を伝って水が流れていた。
私はその水で手を洗い、口を漱ぐ。
序に3口ほど飲んでみる。
冷たくて美味しかった。

社務所は無かった。人はいない。

ずっと若い頃。
一緒に暮らした男はサディストだった。
私の何もかもを開示させ管理し支配しようとした。
言う事を聞かなければキレて暴力を振るう。私よりも十も年上だった。
顔は殴らない。見えない所を殴る。蹴る。抓る。
本当は優しい男なのだ。そう思う。殴るのは私が悪いから。

俺はお前を愛している。心から愛している。男はそう言った。
殴って悪かった。俺は駄目な男だ。だがお前を愛しているんだ。お前は俺のものだ。
爪の先まで俺のものだ。
お前がいなかったら俺は死んでしまうだろう。
お願いだから離れないでくれ。
男はそう言った。
私を殴った後の男はとても優しかった。

男はカッコ良くてスマートで金もあった。
孤独だった都会での暮らしで寂しさばかりを募らせていた私はいいカモだったに違いない。
確かに私は男の「物」だった。
私は何かに捕らえられてしまった。
その何かは例えて言うなら「悪意」だろうか。それとも「闇」だろうか。それとも「怠惰」だろうか。
考え実行する事に臆病になる。ループの中から出られない。
男の闇。私の闇。男だけが闇を持っていた訳ではない。

家に帰りたい私。
帰りの最終バス。
行先は「百待月」そして「百待月神社」
誰かと3人で帰る。友人か同僚か。
一緒に帰る。
それとも迎えに来てくれたのかも知れない。
真夜中バスは走る。
あの坂道はすごく急だ。そこをバスは走る。
森林の中の急角度の長い道を延々と走る。長い坂道。坂の底に辿り着く。

真っ暗闇の中。
百待月神社で降りる。
神様がひとつ灯を貸してくれた。それは小さな自転車のライト。
そこに小さい誰かを乗せて押して家に戻る。

夢の中に出て来る神社。「百待月神社」
百待月神社の夢を見てから私はその男の家を逃げて故郷の家に戻って来た。

「百待月」か。

私の故郷にはそんな名前の場所は無いし、何処の神社なのかも知らない。
現実には無いだろうと思う。夢なのだから。
私はその後、数年間家で過ごして心理学を勉強し、満を持して再度都会にチャレンジした。

「百待月」は青森にあったのか?
私は夢の中で思う。

『道を探して、見付けたらそこを通って帰っておいで』
『暗闇の中を走るなら灯りを貸そう』

私は夕焼け空が広がるまで石段に座って空と社を見上げる。
そしてそろそろ帰らなくちゃな。と思いながら立ち上がり、百待月神社に頭を下げる。
「いつぞやは有り難う御座いました。さようなら。また来ます」
そう言って石段を下りる。

家で家族と犬が待っている。
私はそう思いながら、帰りを急ぐ。

そうして私は青森日帰り旅行(夢)から帰って来た。
東京から青森まで日帰り・・・(笑)


職場への道を歩きながら、朝からこんなにボケてていいのかと思った。
でも何だか今日は周りの皆にちょっと優しくできる様な気がした。








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