第10話

文字数 2,002文字

「驚かせたみたいだね。まぁ普通の入居者はここに扉があるなんて、気付かないよね」

 扉の奥には、やはり上へと続く階段があった。だが恭一がアルトサックスのケースを手にしているということは練習していたと予想がつく。それにしては一切の音が聞こえてこなかった。屋上ならば多少なりとも音漏れはあるだろうに、廊下には一切響いていなかった。

「屋上で練習されていたんですか?」

 気になったので問うてみれば、恭一は右手のケースを目の高さまで持ち上げて微笑んだ。

「この上は屋上じゃなくて、スタジオなんだ。屋上は更にその上。親父たちが生きていた頃、上のスタジオでよくセッションしていたんだよ。親父たちの仲間も集まってね」

 スタジオならば音が洩れてこないのも当然だろう。

「鮎川さんも練習に疲れたり、気分転換がしたくなったらいつでも声をかけてよ、鍵を開けるから。クラシックもジャズも、レコードからCDまで揃っているし、屋上にも行けるから」
「ありがとうございます」

 そんな家族の思い出のスタジオにまでお邪魔してもいいのかなと思いながらも、屋上から眺める景色に興味が湧いた。学校では生徒が許可無く屋上に出ることは禁止されている。気分転換のために外に出たくなっても、いちいち下へ降りなくていいのはありがたい。

「ところで、どこかに出掛けるの?」
「あ、はい。スーパーへ買い物に行こうかと。……お昼も食べずに練習していたものですから」

 それを聞いた恭一はちょっと思案顔になると、背後の扉を閉めた。

「一緒に行ってもいいかな。俺も買い物をしないといけないし、鮎川さんはまだこの辺の地理に不案内でしょう?」
「そうですね、お願いします」

 慣れない土地を1人で歩くよりは、誰かと一緒の方が心強い。

「じゃあ、ちょっと待っていて」

 恭一はケースを置きに部屋へ戻り、程なくして財布を手に戻ってきた。二人はエレベーターに乗り込み、一階につくまでの短い間に恭一が来月から国語教師として働くことを梨乃は知った。マンションから二十四時間営業スーパーまではさほど離れていない。コンビニも近所にあり、帰りが遅くなったときの買い物にも困らないのはありがたい。

 歩道を並んで歩き恭一が車道側を歩くというさり気ない心遣いに、女子校育ちの梨乃はちょっと感動した。父親以外の男性と――しかも割と歳の近い異性と――歩くのは初めてだ。意外にも緊張しないのは、恭一がまだ正式ではないが高校教師だと知っているからだろうか。それとも同じマンションの隣人で、多少なりとも打ち解けているからだろうか。

 道すがら音楽の話や好きな映画の話など、たわいもない話をしながら歩きスーパーに着いた。それぞれにカゴを手にし、梨乃はまずは青果コーナーへと行く。とりあえず今夜はほうれん草とツナのクリームパスタにしようと決め、必要なものを入れていく。魚や乳製品コーナーも回ってからレジへ行くと、恭一もちょうど並んでいた。会計を済ませると、恭一が梨乃の分まで持ってくれた。

「いいですよ、自分で持ちますから」
「これくらい平気だよ」

 女子校出身者は何でも自分でする癖がついていて、あまり他人――特に男性――にあれこれして貰うことに慣れていないし抵抗を感じる。自分でできることは自分で。それが骨の髄まで染みついているので、大して重くもない荷物を持って貰うことに抵抗を感じてしまう。だが恭一の屈託のない笑顔を見ると、意地を張り通す気力が萎んでいってしまった。どうせ同じところに帰るのだ、素直に好意に甘えることに決めると再びたわいもない会話をしながら帰路についた。

「そうだ鮎川さん。この辺りは夜の九時頃を過ぎると人通りが少なくなるから、学校に練習のためとはいえ、あまり遅くまで残らない方がいいよ。……スマホ、持っている?」
「はい」

 恭一はジーンズのポケットからスマホを取り出すと、梨乃の方に差し出してきた。

「万が一、夜の九時過ぎにマンションへ帰ることがあったら連絡して。俺か円果先輩が迎えに行くから」

 そのために連絡先を交換しようということらしい。滅多に遅くなることはないだろうが、市民オーケストラとのリハーサルもこれからは控えている。社会人が中心の市民オケなので、九時を過ぎることは今後はあるかもしれない。梨乃は頷くと、連絡先を交換した。

「いつでも連絡してくれていいよ、愚痴とか悩みとかでもいいからさ」

 恭一の笑顔には(やま)しさなど微塵もない。二人はそれぞれの名字で登録すると、部屋の前で別れた。

 四月から梨乃と似たような年頃の女子を相手にしなければいけないと思うと、彼女のことを生徒という目で見てしまう。たとえ学校は違っていたとしても高校生が人通りの少ない時間帯を一人で歩くのは危険だ、だから連絡先を聞いたんだと――多少強引かなと思わないでもなかったが、梨乃の連絡先を聞きだすことへの正当性を恭一は必死に己に言い聞かせていた。
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