第51話

文字数 992文字

 二月上旬――国際ピアノコンクールIN ASIAの地区大会と全国大会を優秀な成績で突破した梨乃は、アジア大会の会場にいる。両大会共に本戦でも全くトラウマが顔を出さなかった。予選での演奏に充分すぎるほどの手応えを感じている梨乃は、今日も同じように弾けば絶対に大丈夫だという自信があった。不思議と焦りや緊張はなく、むしろ楽しみだとさえ思えるほどに余裕があった。他の出場者たちが極度に緊張しているのに対し、梨乃は場違いなほどに自然体だ。

「いい? 普段通りの演奏をすれば、絶対に大丈夫だからね!」

 応援と引率を兼ねた熊坂の声が上擦っている。梨乃よりもよほど緊張しており、そんな熊坂には悪いと思いつつも笑みがこぼれてしまう。

(大丈夫。恭一さんと円果さんは来られなくても、オーナーご夫妻が来てくださっている)

 会場にはわざわざ神崎夫妻が、店を休みにして応援に来てくれていた。そして親友の美由紀も熊坂と共に会場に来てくれた。日曜日とあって円果は仕事、恭一も顧問を務めている映画研究会の撮影があり来られないが、隣人たちは励ましのメッセージを送ってくれている。

(自分にはSORRISOのみんなが、美由紀や円果さんが……そして誰よりも、恭一さんが応援してくれている。だから絶対に大丈夫!)

 そんな想いを胸に、梨乃はステージの袖に立っている。十年前と同じコンクール。あの時と同じく、ステージの中央には存在感たっぷりのグランドピアノがあった。

「エントリーナンバー十七、鮎川梨乃さん」

 名前が呼ばれた。

 小さく息を吐き、彼女は歩き出す。拍手に迎えられても、彼女の心に押し寄せるトラウマに対する恐怖は微塵もない。

 椅子に座りペダルの位置を確認する。

――奏者も聴衆も、共に楽しめる演奏を。

 恭一がくれた魔法の言葉と共に、梨乃は指を鍵盤へと滑らせた。

 心が躍る、至福のひとときを皆と共に感じるために。言葉の壁を乗り越える音楽は時代と国籍をも超えていく。様々な国籍と人種がクラシックを愛し演奏する。人の心に響く音色をどうか聴いて欲しい、楽しんで欲しい。

――どうか、私の演奏で皆さんが楽しいひとときを過ごせますように……。

 万感の思いを指先に託し、梨乃は演奏を開始した。

 トラウマによる恐怖の念は一切湧き上がってはこずに、代わりに世界中の人々が笑顔で音楽を楽しんでいる……そんなイメージに彼女は包まれて、全てが終わった。
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