第49話

文字数 1,969文字

 うだるような暑さの夏はいつしか過ぎていき、吹く風に涼しさを感じられるようになってきた九月下旬になって、梨乃はようやくバッハの平均律に対して苦手意識を持たなくなった。部屋で平均律のⅠ巻とⅡ巻の全曲を弾き、バッハという作曲家の癖を研究した。だが流石に音楽の父、フーガの巨匠と謳われるだけあって解釈は困難を極めた。それでも丹念に譜読みをしていく内に、あるとき目の前にずっとかかっていた霧が晴れた気がした。夏休みの間ずっと躓いていた箇所の解釈が見え、そこからは曲全体の世界に入り込むことに成功した。途端にミスタッチはなくなり、熊坂の眉間からも皺が消えていった。

(プロの演奏家になるならば、どんな作曲家の曲も弾きこなさなければならない。そのためには基本に返り、丁寧に譜読みをし楽曲分析(アナリーゼ)をしっかりしないといけない。今回は楽曲分析が上手く出来なかったから、躓いた……でも間に合って良かった)

 またひとつ己の弱点を克服した梨乃は、地区大会に向けて少しずつ自信を深めていった。

 この頃になると音楽学科内でも、進学や留学の話題で持ちきりになる。梨乃もドイツにいる両親を通じて、向こうの音大の資料を送って貰っていた。海外の音大を受験するにはビザの他に語学能力証明書が必要なので、梨乃の場合はドイツ語検定の為の勉強もある。非常にハードな毎日だが、彼女はちっとも苦に思わなかった。夢に向かって邁進できる悦びを覚える事はあっても、苦痛に感じることなど一度もない。

 新学期が始まったのでまた週末はアルバイトをしているが、地区大会が始まる十一月までには辞めようと思い、その旨を神崎に伝えた。アルバイトといってもSORRISOの雇用形態は特殊で、シフトなどは一切存在しない。演奏者の都合が良いときに来て自由に演奏し、オーナーである神崎は日給を渡すだけだ。梨乃の前任者も就職活動を理由に一旦辞めたが、内定を貰えたので梨乃と入れ替わるようにまた卒業までアルバイトをすると言って戻ってきた。
 
 無事に引き継ぎも終わり、いよいよ国際ピアノコンクール地区大会が迫ってきた。幾分ナーバスになってきた梨乃はメッセージで、その旨を恭一にその不安な心をぶつける。

 ――怖い。ステージに立つのが怖い。

 トラウマをかなり克服し充分に練習を積んだが、今ひとつ自信が持てない。どうしようという内容を送ったら、今から会えないかという返信が来た。

 二十二時を回った十月下旬の空気は随分と冷え込んでいて、何か上着を羽織らないとあっという間に身体が冷えてしまう。オフホワイトのロングカーディガンを着込んで玄関を出ると、ちょうど恭一も出てきたところだった。ジーンズに長袖Tシャツ、ジップアップパーカー姿の彼は、教師というよりも大学生といった雰囲気だ。

「ごめんね、呼び出して」

 梨乃の顔を見るなりそう言った恭一は、ジーンズのポケットから車のキーを取り出した。

「気分転換にドライブに行かないか? 見せたいものもあるし」

 練習は昼間にみっちりとやった。少し気分転換をしなければ精神的に追い詰められてしまうと判断した彼女は、素直に申し出に頷いた。並んで歩き出すと、二人の足音が静かなフロアに響いた。円果は今夜は飲み会で、帰りが遅くなると言っていた。この最上階には二人しかいない……そう思うと急に恭一のことを意識してしまって、梨乃の鼓動が早くなった。赤く染まっていく頬を見られないようやや俯き加減に歩くと、髪が上手い具合に隠してくれた。

 恭一は真っ直ぐ前だけを向き、エレベーターの中でも終始無言であった。車に乗っても何処へ行くとも告げず、ただ北を目指して走る。車内にはルイ・アームストロングの『What a Wonderful World~この素晴らしき世界~』が流れている。恭一はこの曲がお気に入りらしく、事あるごとにこの曲をかけている。

 マンションから北に向かうと高台があり、そこには公園と展望台がある。その公園横の駐車場に車を停め、外に出た。公園を抜け展望台に出ると、彼らの住む街の灯りが一望できた。空を見上げれば、満天の星が二人をそっと見下ろしている。星空と地上の美しくも心を和ませる優しい光はただそこにあり、梨乃は星空を、恭一は地上を眺めている。

「綺麗……」

 ぽつりと呟いた言葉はとても小さく、隣に立っているとはいえ恭一に聞こえるはずはないと思っていたのだが、彼も夜空を見上げて
「本当だ。綺麗な星空だ」
 と言ったので驚いてしまった。

 じっと見つめていると吸い込まれそうな錯角を覚える、広い空。今宵は新月のために、月光に邪魔をされず慎ましやかに星は輝いている。人間が体感できない悠久の時を経て、星の光は地上に届いている。ただそこにある星光を見つめているだけで、尖っていた心の角が取れ丸くなっていくのを感じた。
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