第36話

文字数 2,444文字

「あんなに楽しいステージを、今まで知りませんでした。本当に音楽って、音を楽しむものなんですね」

 嬉しそうに、子供のように弾んだ声で懸命に話す彼女を横目で捉えつつ、恭一は微かに微笑む。店の奥から見ていたが、演奏中は以前に話していたトラウマを一時的に忘れているようだった。ステージでの演奏がきっかけで――まだ完全にとは言えないだろうが――トラウマを一瞬でも忘れられたなら嬉しい。小難しく考えなくてい身体身体をリズムに乗せて楽しめばいい。言葉が通じなくても音楽は世界共通のものだ、音を楽しむという人類共通の感性を共有すればいい。

 ハンドルを握りながら恭一は、こみ上げてくる笑みを隠そうとはしなかった。

 週末の夜ということもあって、並走する車はカップルが多い。自分たちももしかしたらそう見えるのかなと、信号待ちで隣に停まった車を何となく眺めていた梨乃は、ふとそんなことを思い、ひとり顔を赤らめた。恭一はそんな彼女の様子に気付かずに前を向いていて、気付かれなかったことに安堵の息をこっそりと吐いた。

 そういえば父親以外の男性と二人きりで車に乗るのは初めてだったと不意に思い出し、急にそのことにドキドキし始めた。店に行くときは緊張も手伝って忘れていたが、教師といえど恭一もひとりの男だ。無防備に乗ってしまったが大丈夫だろうかと、今更ながら警戒心が顔を出す。

 だがそれは杞憂に過ぎなかった。

 恭一は恭一で、そんな不埒な真似をすれば自分の将来が台無しになると理性を働かせている。確かに今夜の梨乃は大人っぽいワンピース姿で髪もアップにし二十歳くらいに見えるが、現役の高校生だ。好きだと自覚してしまった女と、車中という狭い密室に二人きりという格好のシチュエーションだが、すぐにどうこうしようという気にはなれなかった。これが映画やドラマの世界だったら強引に行く展開もあるのだろうが、現実でそんなことをすれば最悪の場合は、留置場行き決定だ。

 カーステレオからは、さっき美和が歌ったルイ・アームストロングの『この素晴らしき世界~What a Wonderful World~』が流れている。骨太でありながらも温かみのあるサッチモ(ルイ・アームストロングの愛称)の歌声が、恭一は好きだ。勿論トランペッターとしても尊敬しており、亡父はサッチモのファンが高じて自らもトランペッターになったほどで、神保家では特別な存在のジャズマンだ。思わず口ずさみ、梨乃に聞こえなかったかと気になってしまった。しかし彼女には聞こえなかったようで、ナビシートに座る梨乃は車窓を流れる夜の街を眺めている。彼女が今、何を考えているのか察することは出来ないが、マンションまでの道がもっと長ければいいのにと声に出さずに呟く。女々しいと思いつつ、彼女に手を出せないもどかしさが車を加速させる。

 前を走る車が妙に遅く感じられ車線変更をやや強引に行うと、さすがに怯えたような小さな悲鳴を上げられてしまった。そこで我に返った恭一はごめんと謝るとスピードを落とし、安全運転を心がける。
   
「神保さん、疲れているんですか? 随分と運転が」

 荒いような気がするんですがと続けようとして、梨乃は口を噤んだ。免許を取得していない自分が運転に対して、ああだこうだと口出しをする権利はないと思ったからだ。まだ教師としての生活にも慣れていないだろうに、週末にこうしてアルバイトに付き合わせているのだ。感謝こそすれ、文句を言える立場ではないことくらい充分に弁えている。ただ驚いただけで、咎めるつもりは毛頭無い。

「ああ、ごめんね鮎川さん。時間も時間だし、少し急ごうと焦った。怖かったよね? もうあんな運転はしないから、安心して」

 恭一は己の本音を押し殺し当たり障りのない言い訳をしつつ、何でもないよと左手を軽く振った。普段ならばスムーズに流れるはずの国道も、週末の夜のせいか車の数も多く流れが悪くなってきた。日付が変わる前にはマンションに戻れるが、練習を予定している梨乃をあまり遅くに帰すわけにはいかない。結局彼らが帰り着いたのは二十三時半で、静寂が辺りを支配していた。

マンションには住人たちが多数入居しているはずなのに、静まり返っていて彼らの他に駐車場に人影はない。靴音がやけに大きくエントランスに響く。別に悪いことをしてきたわけではないのに、真夜中に男性と二人で帰ってきたところを誰かに見られはしないかと、梨乃は変な気を回してしまう。両親は海外で誰に気兼ねすることなく堂々としていればいいのに、何だかいけないことをしているような錯覚に陥る。恭一の方はさすがに堂々としておりエレベーターへと歩を進めている。無言でエレベーターに乗り込み、何の会話もないまま最上階に着いた。今夜はアルトサックスを自室ではなくスタジオに保管するらしく、すぐに左手の観音扉へと恭一は向いてしまった。

「それじゃあ鮎川さん、お休みなさい」
「あ、はい。今日はありがとうございました、お休みなさい」

 軽く手を挙げて階段を登っていく恭一に軽く頭を下げて礼を述べた後、梨乃もまた練習すべく自室へと足を向ける。小さな鞄からカードキーを取りだし解錠し玄関に入ると、何だか急に力が抜けてしまった。背を扉に預けたままズルズルとへたり込み、今夜のステージを思い返す。今まで自分が思い描いていた理想の演奏というものに近かった為に、ジャンル違いとはいえアルバイトを始めて良かったと素直に思った。

 目を閉じればつい一時間ほど前まで味わっていた高揚感に、再び包まれる。聴衆が心から楽しんでいる気配を直に感じ取れた、あの特殊な空間が心を昂ぶらせる。ひとつ大きく息を吐くと彼女は立ち上がり、部屋着に着替えてピアノの前に座る。そして先程の聴衆たちの表情を思い返しながら、静かに協奏曲を弾き始めた。

(大丈夫、怖くない。聴衆を楽しませて、自分も楽しんでこその『音楽』だもの)

 軽快に指を滑らせながら、梨乃は夜明け近くまで練習に没頭した。
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