第45話

文字数 2,242文字

 朝を迎え、爽快な気分と共に目覚めた。今日は学校へ行き、熊坂に昨日の報告をしなければならない。熊坂をはじめとするピアノコースはもちろん、音楽学科の教員は全員、昨日の演奏を会場で聴いていただろう。もしかしたら、生徒も何人かいたかもしれない。その中に留美もいた筈だ。梨乃がミスをしたり、練習通りに弾けないことを嘲笑うためにチケットを買い、何食わぬ顔で見に来たことは容易に想像できる。だが昨日の梨乃は、僅かなミスもなかった。留美が見ていたとしたら、相当に口惜しい思いをして地団駄を踏んだかと想うと多少なりとも溜飲が下がる。

 普段よりも嬉々として制服に着替え、颯爽と学校に向かう。通い慣れたはずの通学路なのに、今日は違った景色のように感じられるから不思議だ。音楽学科がある校舎に入ると、夏休みにもかかわらずピアノコースに在籍する後輩たちが寄ってきて昨日の演奏を賞賛していく。クラスメートたちも、他コースの生徒たちも一様に賛美してくれて梨乃は嬉しいようなくすぐったいような思いを味わう。

 職員室に向かい熊坂の姿を探すと向こうも梨乃の姿を探していたらしく、目が合うと席を立って入り口にやって来た。廊下で熊坂が昨日の件で褒めていると、小さな声で「おはようございます」と言いながら留美が後ろを通り過ぎたが、梨乃のことは完全に無視である。つまり昨日の非の打ち所のない演奏を聴いて、自分の実力不足を痛感し恥じ入っているのだろう。だがどんなに悔しがっても、今までのように付け入る隙がなくなってしまった。潔く敗北を認めざるを得なくて、留美自身が嘲笑や冷笑の対象になっていることに耐えられなくなる日も近いことを彼女は悟っている。だがプライドだけは高い彼女に、自分から謝罪するという選択肢はないようだ。

 梨乃は留美のことなど完全に黙殺し、吉柳(きりゅう)の名を貶めるような演奏にならなかったことに誇りを持ち、堂々と熊坂に礼を述べた。

「鮎川さん。十一月下旬に行われるこの国際ピアノコンクールの地区大会にエントリーしておいたから、今日からまた練習を頑張りましょうね」
「コンクールって先生、三ヶ月もないですよ! 私、今までそんな練習をしていなかったのに」

 熊坂から手渡された国際ピアノコンクールの募集要項のコピーを見て、声を上げる。だがそんな彼女の杞憂など一切気にせず、熊坂はにっこりと微笑んだ。

「去年の春から課題曲の練習をしていたのよ? 是非とも鮎川さんに出場してほしくて、ずっと練習して貰っていたんだから」

 何とも策士な教員だ。二年生の四月から、課題曲をさり気なく練習させているとは。梨乃は手許の国際ピアノコンクールIN ASIAの募集要項を見ながら、十年前にトラウマを植え付けられた因縁のあるコンクールに再び出場することに、少しだけ気が重くなった。だがオーケストラとの共演を無事に終えた今は、多分だがトラウマに悩まされることもないのではないかという淡い期待がある。

 ぐっと拳を握りしめ、これはチャンスだと言い聞かせた。熊坂の顔を真っ直ぐに見つめ、よろしくご指導のほどお願いしますと頭を下げる。顔を上げたときには既にやる気に満ちており、何が何でもこの有名な国際ピアノコンクールの全国大会、そしてアジア大会まで残り優勝をしたいという気迫に満ちている。それを感じ取った熊坂もこれなら大丈夫と確信し、さっそく今日から夏休み返上で練習よと告げた。

 夏休みとはいえ、もう八月の半ばだ。時間は殆どないと言って良い状況だが、熊坂が巧妙に昨年から課題曲を練習させていたお陰で準備は万端と言って良い。後は梨乃自身のメンタル面が心配だったが、これも何とかなりそうな気配に熊坂は胸を撫で下ろしている。高校生部門にエントリーされている梨乃の課題曲は、バッハの平均律(Ⅰ・Ⅱ巻)から任意の一曲やショパンの独奏曲などがある。バッハもショパンも梨乃は好きだし得意としているが、そういえばやたらと弾かされていたなぁと呑気に思い返しながつつ楽譜を手にした。

 アルバイトを再開させるといったはいいが、月に一から二回出られたらいい方だろう。後で神崎に連絡を入れなきゃと、内心でため息を吐いた。聴衆の声が直に聞けるアルバイトは楽しいし刺激になる。何より恭一と一緒に過ごせる時間があることが彼女にとっては、とても重要だった。毎回、世間話の延長のような会話しかしないが、少しずつ二人の距離は縮まっている。違う学校に在籍する高校教師と女子高生、そして同じマンションの隣人という関係で今すぐに二人の中が急速に発展するということはないが、互いに好意を抱いているということは何となく伝わるものだ。学校での様子を話したり、どんな子供時代を送ったなど車中での会話はたわいもないが弾み、もっと店までの、マンションまでの距離があればいいのにと思うほどだ。

(神保さんにも後で連絡しなきゃ。そういえば今日は、夕方まで学校にいるって言っていたっけ)

 うまくすれば帰りに会えるかもしれない。メッセージを送るのは夜まで待ってみようと、スカートのポケットに入っているスマホをそっと上から押さえた。思わず緩みそうになる頬を内側から噛み、複数の楽譜をお供にさっそくレッスン室へと向かう。

 梨乃にとっては、約十年ぶりのコンクールだ。小学生部門で出場した時は挫折を経験したが、今度こそ全国大会からアジア大会へと進み優勝したい。その実績と共に留学を果たす――そんな理想を胸に、新たな目標へ向けて練習を始める。
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