第20話

文字数 1,137文字

「ソファに座っていて。今、コーヒーを煎れるから」

 スタジオの外には簡易キッチンが設けられており、簡単な飲食の支度もできる。コーヒーメーカーはやがて芳醇な香りを漂わせてきた。

「砂糖とミルクはいる?」
「あ、はい。お願いします」

 ポーションミルクとシュガーポット、そしてカップをトレーに載せた恭一が近付いてきた。

 ローテーブルの上に置かれたそれらは白で統一されており、梨乃はミルクと角砂糖を入れると静かにかき混ぜた。彼女の
「美味しい……」
 と言う声を合図に、恭一はリードをセットしたアルトサックスを手にスタジオ内の特設ステージに起つ。

 スタジオではあるが、ここは仲間が集まるステージでもある。時には数人ではあるが観客もいて、ジャムセッションを楽しんでいた。梨乃のほぼ正面に立った恭一は、何かリクエストはあるかと問うた。

「あの、ムーンライトセレナーデをお願いします」

 大好きなスタンダードナンバーのひとつをリクエストすると、笑顔で了承された。伴奏はなく、主旋律をアルトサックスが奏でる。ムーディーなメロディは妖艶で、目を閉じて聴き入っていた梨乃は、脳裏に段々と満月になっていく月を思い描いていた。夜空を照らす月光は暗い海原をも照らしているかのようだ。演奏が終わるとすぐに目を開け、心からの拍手を送った。恭一は人様に聴かせる腕じゃないと謙遜していたが、巧みな演奏はスッと梨乃の心に入り込み未だに余韻を残している。

「素晴らしいです神保さん。とっても素敵でした……じゃあ今度は私が演奏しますから、何かリクエストはありますか?」
「いいの? じゃあ『Fly Me to The Moon』がいいな」

 ステージに設置してあるアップライトピアノもきちんと調律がされており、梨乃と入れ替わってソファに座った恭一は、自分のカップを手に取り演奏が始まるのを待つ。梨乃は目を閉じ、呼吸を整える。

 たまにジャズを演奏すると、気分が高揚する。父親のリクエストに応える形でポップスをアレンジした曲を弾くことはあるが、スタンダードナンバーを演奏することは殆どなかったので新鮮な気分だ。クラシック曲を弾くよりも指が滑らかに動き、表情も自然とやわらかくなる。演奏が終わると梨乃を立ちあがり、コンクールの時のように一礼した。恭一も拍手で彼女を讃え、二人は笑顔で向き合った。違うジャンルを弾けて気分転換が出来たらしく、梨乃はこれでまた頑張れますと笑った。

 しばらく音楽談義に花を咲かせた後、スタジオを後にしながら梨乃は、アルトサックスを吹く恭一の姿に見惚れていたことに気付き、何となく頬が熱くなるのを自覚した。隣を歩く恭一に、何故か妙に胸が高鳴る。この感覚を何と呼ぶのか……恋をしたことのない彼女には、まだ判らなかった。
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