第46話

文字数 2,088文字

 梨乃が国際ピアノコンクールIN ASIAにエントリーしたという噂は夏休み中であるにもかかわらず、瞬く間に音楽学科内に広がった。三年生は国内の音大受験を控える者が大多数を占めるが、梨乃は高校卒業と同時にドイツ語圏内での留学としか考えていない。教師陣はそれを承知しているので、今度のコンクールは何としても良い成績を修めたい。優秀な成績を修め留学先で更に勉強をしたら、今度はアジア以外の地域を含む国際ピアノコンクールに出場できるかもしれない。そのためにまず、この地方大会を突破せねば。

 熊坂の指導にも自然と熱が入り、梨乃もそれに応えるように音符を丁寧に拾い、正確に演奏するよう心がける。空調は効いているはずなのに、額から汗が流れ落ちるがそんなことは気にならないほど集中した。レッスン室を覗きに来るクラスメイトや後輩、他コースの生徒もいたが雑音や視線に気付かなかった。それほどに集中し、鍵盤に指を叩きつけていく。熊坂の指導する声しか人間の声は耳に入らず、一日中レッスン室にこもって課題曲を弾き続けていた。

 熊坂が梨乃の手を止めさせたのは、陽が長い夏でも薄暗くなる時間になってからだった。途中に何回か休憩を挟みはしたが、それでも梨乃の集中力は途切れることなく今まで弾いた。見学していた生徒たちもいつの間にか全員いなくなり、レッスン室には熊坂と二人だけになっている。

「お疲れ様。また明日の午前九時から、このレッスン室でね」
「はい、ありがとうございました」

 帰り支度を始めようとして、肩凝りがひどいことに気付いた。集中しているときには気付かなかったが相当に筋肉は強張っており、腕を動かすとごりっと大きな音がした。ずっと電源を切っておいたスマホを起動させ、時間を確認すると既に十九時を過ぎている。完全に陽が暮れる前に帰ろうと、楽譜の入った鞄を手に校舎を出る。正門を出たところで、マナーモードにしていたスマホが震えた。

「神保さんからメッセージだ……」

 どうやら恭一も今から帰るところで、もし良かったら円果の所で一緒に夕食をご馳走にならないかと書かれてあった。と、恭一のメッセージを読み終えると同時にまたメッセージが届き、今度は円果からで食事を一緒にどうかという内容だった。円果と恭一に了承の返事を一斉送信しようとして、恭一には電話をかけることにした。

 コール三回で恭一は電話に出てくれた。職員室を出て廊下を歩いているらしく、彼の声が反響して聞こえる。

「鮎川さん、どうしたの?」
「神保さん、今から帰るんですよね? 実は今しがたレッスンが終わって、帰る所なんです」
「鮎川さんも今から帰るの? 危ないから迎えに行くよ。まだ学校? どの辺にいるの?」

 正門を出たところだと告げると十五分で行くから絶対にそこを動くなと言われ、通話が一方的に終わった。迎えに来て頂けませんかとお願いする前に向こうから言われたはいいが、万が一、教師やクラスメイトなどに会ったら……と悪い方向に思考が流れていく。なるべく正門に近く且つ、見つけやすい場所に立つ。レッスン帰りの生徒たちが、足早に正門から出て行く。知った顔が出てこない内に早くと、と念じてしまう。特に留美が出てきたら最悪だ。恭一の車に乗るところを見られたら、どんな悪意のある尾ひれを付けて噂を学校にばらまくか知れたものではない。

 祈るように待っていると、ヘッドライトが梨乃を照らした。幸いにして何とか車種や色が見えるので、恭一の車と識別すると素早く辺りを見回し、周囲に誰もいないことを確認する。タイミング良く車が横付けとなり、梨乃は急いで乗り込んだ。

「お、お疲れ様でした。そして、ありがとうございます」

 誰かに見られないかと不安で仕方ないが、恭一もその辺はちゃんと心得ていて彼女がシートベルトを装着したことを確認すると、いつもよりやや乱暴気味にスタートさせた。サイドミラーに映る正門は後ろに遠ざかり、車に誰が乗っているのか視認できない距離になったところで生徒が数人出てきた。

(あ、あぶなかったぁ……)

 留美ではないにしろ、見られることは非常にマズイ。ライバルを蹴落とそうと相手が不利になる材料を見つけるべく目を凝らし、画策する者は多い。ほっと安堵の息を吐いた梨乃は、恭一に言わねばならないことを思い出した。

「神保さん。私また、アルバイトが不定期出勤になるんです」
「え? オーケストラの公演は終わったのに?」

 訝しげな恭一にコンクールに出ることを告げ、その練習のために出られる日数が限られることを告げた。

「そうか。そういう事情があるなら仕方がないね。大事なコンクールだ、しっかりと練習して地区大会を突破しないとな」
「はい」

 恭一の了承を得て、その場で神崎にも連絡を入れる。案の定、電話の向こうで大いに残念がられたが恭一と同様に悔いが残らないよう頑張ってと応援された。丁重に礼を述べ、いい人たちに出会えて本当に良かったとつい、笑みがこぼれる。レッスンに行き詰まりを感じたりストレスを感じたらSORRISOに行こうと決め、明日からのレッスンに向けて気合いを入れ直した。
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