第1話

文字数 1,006文字

 舞台の中央に、存在を見せつけるかのようにグランドピアノが鎮座している。舞台袖に立ち緊張した面持ちで出番を待つ少女は、大きく息を()くと意を決したように顔を上げ堂々とした足取りでピアノへ向かった。割れんばかりの拍手に包まれる会場は、次はどんな演奏が聴けるのだろうかという期待感で一杯になっている。

 逃げ出したい衝動を抑え込み、少女は着席すると再び小さく息を吐く。次の瞬間、彼女の両指は滑らかに鍵盤の上を滑り、旋律を奏でていく。若干八歳の少女とは思えぬほどの技術と曲の解釈の正確さに、観客は目を細めて聴き入った。だが陶酔する聴衆とは対照的に、奏者である少女は会場の雰囲気に完全に呑まれてしまっていた。

 初めてのコンクールという緊張感が、少女から普段の実力を奪っていく。鼓動は早鐘のように打ち、額にはびっしりと汗が浮かんでいる。ライトは想像以上に眩しく暑く、練習では完璧に弾けていたリズムが少々狂い始めた。

(どうしよう、どうしよう!)

 焦りも手伝って、どんどん本来の弾き方から離れていく。少女の両親はハラハラとしながら、客席で見守ることしかできない。

(怖い、怖いよう!)

 こんなに大勢の前で演奏することが初めての少女は、聴衆の耳目が怖くて仕方なかった。嗤われているのではないか、前の演奏者たちの方が(うま)かったと思われているのではないか。そんな雑念が少女の内面を覆い始め、順調だった指遣いが突然ぴたっと止まってしまった。

(あ……!)

 息を呑んだがもう遅い。緊張に呑まれてしまった少女は、指が固まってしまったかのように動かなくなった。声にならないため息が観客席から洩れてくる。それが余計に少女を焦らせた。

(どうしよう、でも弾かなきゃ。弾かなきゃ終わらない!)

 ぶるぶると震える指に動けと念を送り、深呼吸をひとつすると何事もなかったかのように演奏を再開した。だが中断したことは大きなマイナスポイントとなり、少女は三次予選を通過することなく初めてのコンクールを終える事となった。

口惜(くや)しい……口惜しい! どうして止まってしまったの?)

 演奏を終えた少女は控え室に戻ると、着ていたドレスを乱暴に脱ぎ捨てた。大急ぎで私服に着替えロビーに飛び出すと、娘を案じて出てきた母親の胸で声を殺して泣いた。控え室にいる演奏を終えた、またはこれから演奏する他の出場者たちの、勝ち誇ったような顔がいつまでもいつまでも少女の脳裏を駆け巡っていた――。
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