第8話

文字数 1,265文字

「鮎川さんはクラシックが専門だろうけれど、ジャズは弾かないの?」
「父がジャズも好むので、時々ビートルズやエルヴィス・プレスリーの曲をアレンジしたりスタンダードナンバーを弾いていました」

 そう答えると恭一が短く口笛を吹き、楽しそうに笑った。

「そうか、ジャズも好きなんだ。それは良かった」

 その笑顔は少年のように無邪気で、彼が来月から高校の教師になると言うのが信じられないほど幼く見せていた。その屈託のない笑顔に梨乃の心の一部がざわついたような気がしたが、ほんの一瞬のことだったので気のせいで片付けた。

「あの、もし良かったら今度、私の演奏を聴きにいらっしゃいませんか?」

 女子校に通っているため普段の聴衆は女子ばかりで、男性は教員しかいない。学校関係者以外の評価を聞けるチャンスと思い、軽い気持ちで二人を誘ったのだが。

「あ、鮎川さん……いくら何でも女の子の部屋に、しかも独り住まいの部屋には上がれないよ」

 常識的で紳士的な恭一とは違い、円果は。

「聴きたい聴きたい! 生演奏なんて随分と久しぶりだわぁ。梨乃ちゃん、落ち着いたら声をかけてね、デートをキャンセルするから」

 茶目っ気たっぷりにウィンクするが、恭一が強烈なひと言を放つ。

「デートの相手なんか、いたことがないだろう」
「うるさいわね! これから現れるかもしれないでしょう、素敵な王子様が。何よ、恭一くんだって彼女いない歴は二年になるでしょう!?
「俺のことは、放っておいてくれよ」

 憮然とした顔で藪蛇だった己の発言を悔いても時既に遅し。勝ち誇った顔の円果をスリッパで叩きながら、忌ま忌ましげに睨む。

「先輩の身体はまだ男のままなんだから、女の子の部屋に上がり込むなんて非常識な真似をするなよ」
「あら、アタシは身体こそ工事をしていないけれど、心は立派な乙女よ!」
「鮎川さんの前で、工事とか言うなよ」

 げんなりと呟けば、意味がよく判っていない梨乃が小首を傾げる。その仕草を見た円果がまた暴走しかけたので、スリッパを遠慮無く叩き込む。

「どさくさに紛れて鮎川さんに抱きつこうとするな、この変態」
「変態とは心外ね! アタシはあまりにも梨乃ちゃんが可愛かったから、つい」
「つい、で許されるか! このマンションから犯罪者を出すなんて、ごめんだぞ」

 二人の漫才は永遠に続くかと思われたが、一足早く我に返った恭一が咳払いをして強引に終わらせることに成功した。慌てて取り繕うように梨乃を見て、戻ろうかと促す。笑いを堪えていた彼女は素直に頷き、春休み中に遊びに来て下さいと、円果と約束を取り付けてしまった。一抹の不安を覚えないでもないが、円果の恋愛対象は男なので杞憂と判っているが心配である。

(鮎川さんは純粋そうだからなぁ。でも男に対して偏見を持たなかったみたいだから、それだけは良しとしよう)

 あんな強烈な個性を持った隣人を見ても、何の偏見も持たない子は珍しい。危惧していた近所づきあいも、これなら大丈夫だろうと安堵の息を吐いた。二人はそのまま自室に戻り、梨乃はさっそくピアノの前に座ると楽譜を広げた。
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