第44話

文字数 2,377文字

 一人になってもまだ鼓動は早いままだ。興奮で顔を赤くしたままドレスを脱ぎ、私服に着替える。髪をどうしようかと迷っていると、控え室をノックする音に気付いた。入室の許可を出すと、まずは立派な花束が顔を出し、次いで満面の笑みを浮かべた円果をはじめとする、チケットを渡したメンバーたちが雪崩れ込んできた。

「梨乃ちゃんお疲れ様。あ、着替えたのね? じゃあ、髪を下ろしましょうか」

 花束を手渡した円果は、慣れた手つきで梨乃の髪を解いていく。すっかりいつもの梨乃に戻ると、皆が声をかけてきた。

「良かったですよ鮎川さん、すごく良かった……素晴らしかったです」

 相坂(あいさか)がそう賞賛したのを皮切りに、次々と褒め称える声が上がった。はにかみながら、それらの声に応え梨乃は花束を大事そうに胸の前で抱えた。

「本当に素晴らしい演奏だったよ、鮎川さん」

 恭一はそう言ったきり言葉が続かない。梨乃も何か言葉を返そうとするが、神崎夫妻や円果が誉めそやすものだからタイミングを完全に見失ってしまった。やがて神崎がSORRISOで打ち上げの席を用意してあるから移動しようと言いだしたので、きちんと皆に礼を述べる間もなく控え室から連れ出されてしまう。車中で礼を述べると、皆は素敵な演奏を聴けて幸せだったと破顔された。

 店の最奥席で、打ち上げという名の食事会が始まった。

 車で来ているということもあって大人はアルコールを止め、店自慢のイタリア料理を堪能しながら演奏の感想を述べていく。皆は口々にジャズの時とは雰囲気が違っていて別人のようだったとか、大舞台なのにとても堂々としていて圧倒されてしまったと感想を述べ、梨乃は大いに照れてしまい、なかなか食事が進まなかった。

「大きなイベントも終わったことだし、またアルバイトに来てくれるよね?」
「はい、またお願いします」

 神崎の言葉に大きく頷きながら答えると、ホッとした空気が流れた。梨乃は知らなかったが常連客の間で彼女の評判は上々で、暫く姿が見えないことを残念がっている声が多かったのだ。そのことを鑑み、神崎は出来るだけ早くまたアルバイトに来て貰いたかったのだ。事実、彼女がステージに立つ週末と祝日は客の入りが良い。バーの時間になっても、ピアニストはいないのかと尋ねられることもしょっちゅうだ。

 七人は食事と会話を存分に楽しみ、満足の内に帰路に就く。恭一の車に梨乃と円果が乗り、マンションへ帰る。車中では女二人が後部席に座ったために、ほぼ女同士(?)の会話が繰り広げられ、恭一はただの運転手と化してしまった。だが本当に今日の演奏は素晴らしく、恭一の目にもトラウマがよみがえったようには見えなかった。

「鮎川さん、とてもいい表情でピアノを弾いていたよ。楽しかったんじゃない?」

 ルームミラーで表情を確認しながら問うと、彼女は僅かに頬を染めて頷いた。

「神保さんがおっしゃったように、音を聴衆と共に楽しむよう心がけたんです。そうしたら何もかもが吹っ飛んで、純粋に音楽にのめり込むことが出来たんです」

 やや興奮気味に語る彼女の表情は明るく、自信に満ちていた。本人からもう大丈夫という思いがふつふつと溢れており、この気持ちを絶対に忘れてはいけないと心に刻み込む。やがて車は静かにマンションの駐車場に着き、三人は足早にエレベーターに乗り込むとそれぞれの部屋へと急ぐ。円果が自室に入り二人きりになった廊下で、梨乃は勇気を出して言った。

「神保さんのお陰で私、トラウマを克服できそうです。本当にありがとうございました」

 恭一の横顔を真っ直ぐに見つめ心を込めて礼を述べる彼女に、恭一は微笑みながら頷いた。二人の視線が絡み合ったのは、ほんの数秒。その僅かな間に言葉に表せない様々な感情が交差したが、彼らは互いにそれに気付かぬままどちらからともなく視線を外しカードキーを取り出した。

「お休みなさい」
「今日はお疲れ様。ゆっくり休んでね」

 そんな些細な会話を最後に交わし、互いの心に浮かんだ、もう少し一緒にいたいという思いを意識の底に沈める。

 梨乃はドレスをクリーニングに出す準備をするとバスルームに向かい、湯船に湯を溜め始める。恭一と別れた途端にズシリと疲労が押し寄せ瞼が自然と下りてくるが、頭を振って眠気を追い払った。全身を襲う心地よい疲労感に洗い流さないと、明日に響く可能性がある。若いからといっても睡眠だけでは、精神的な疲労までは完全に払拭できない。湯船に身を浸し、心身共にリラックスしなければ良質の睡眠も確保できない。

 パジャマやバスタオル類をを用意し、服を脱ぐ。裸身を湯気が立ちこめる浴室に滑り込ませ、まずは熱めのシャワーを頭から浴びた。俯き、左手を心臓の辺りに添え、今日の演奏を一から思い返す。イメージ通りの、そして練習通りの演奏が出来た。トラウマが一瞬でもよみがえらず、恭一のことを思いながら演奏をしていた。自分は今、SORRISOにいるんだと何度も何度も言い聞かせて平常心を保った。そのお陰で、完璧な演奏が出来た。

「あぁ……疲れたぁ」

 目を閉じると今度は顔を上げてシャワーを受け止める。勢いよく降り注がれるそれと共に、疲労が排水溝へと流されていくようだ。髪と全身を丁寧に洗いお気に入りのバラの香りがする入浴剤を入れ、ゆっくりとその裸身を湯船に沈める。

「ふう……」

 思わず声が漏れ、腕を中心に念入りにマッサージをしていく。筋肉の強張りを解していくと、湯の温かさも相まって睡魔が押し寄せてくる。だがここで眠るわけにはいかず、充分に身体を温めるとバスルームを出た。パジャマを着て髪を乾かしてしまえば、後はいつでも寝ることが出来る。サラサラの髪をなびかせ、梨乃は心地よいシーツの海へ飛び込み深い眠りにつく。もう二度と幼い頃の自分の夢を見ることはないだろうと、脳裏で呟きながら。
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