最終話

文字数 1,929文字

 三年生の進路が次々と決まっていき、親友の美由紀も無事に有名な音大の声楽科に合格が決まった。四月から地元を離れる親友とも滅多に会えなくなる。お互いに夢を叶えるために歩み出すのだ、泣きたいのを堪えて笑顔で門出を祝おうと皆は笑い合いながら卒業式を迎えた。三月五日に無事に卒業式を終えてすぐの日曜日、梨乃は恭一とデートを楽しんでいた。今までは堂々と昼間に二人で歩けなかったが、真昼の水族館や遊園地は女同士で来るときとは全く雰囲気が違う。

「荷造りは順調に進んでいる?」
「ええ。引っ越すといっても荷物の殆どは 日本こっちで処分していくから。向こうに行ったら部屋を探さなければいけないし、それに家具付きの物件もあるらしいの」

 音大進学を機会に独り暮らしを始める美由紀に家具や電化製品の殆どを譲るので、処分するといってもせいぜいベッドくらいなものだ。

「そうか……一ヶ月後には出発なんだよな、早いな。俺は部活の関係で見送りに行けないけれど、ドイツに着いたら連絡してくれよ」
「勿論よ。暫くは両親の所に厄介になるけれど、十月の入学までには独り暮らしできるようにしておくつもりよ」

 ドイツに着いたら両親が住んでいるアパートを拠点に音大の掲示板などの情報を元に、ピアノが置いてあり尚且つ大学にも近い物件を探すつもりだ。ドイツの大学は春と秋の学生登録をする家探しがあるために、四月入学を諦めて十月入学に決めた。

 両親もそれを了承し、娘のために物件をいくつか当たっているようだ。いくつかめぼしい物件があると、昨日メッセージが届いたばかりでもある。

「寂しくなったら、この曲を聴いて俺を思い出してくれよ」

 そう言って恭一は一枚のCDを差し出した。それはルイ・アームストロングの『What a Wonderful World~この素晴らしき世界~』の音源が入っているものだった。車中でしょっちゅう聴いている曲。何度も聞いる内に、梨乃もこの曲が大好きになった。

「どうしようもなく寂しくなったら、空を見上げて欲しい。ドイツと日本は陸地は海に阻まれて繋がっていないけれど、空は違う。空には遮るものがない。空の下では、平等に繋がっている。同じ空気を吸って繋がっている。それを忘れないで欲しい」
「恭一さん」

 梨乃が日本を発つまであと、一ヶ月。二人は想いを告げ合ったあの展望台に来て、あの時と同じように星空と夜景を眺めていた。本当は離れたくない。せっかく想いが通じ合ったのだ、日本でずっと恭一と一緒にいたいと思うときもあるが、夢を諦めたくはない。

 離れていても、ネット回線で彼らの心は一瞬で繋がる。だが同じ場所にいなければ出来ないこともある。二人はあの日と同じように向かい合い、手を握った。ただあの日と違うのは、そのまま吸い寄せられるように身を寄せ、そっと唇を重ね合わせた。今度はいつ、日本に帰ってくるか判らない。だが唇が離れた後、恭一は梨乃を抱きしめてその耳に囁いた。

「あの部屋は、ずっと空き部屋にしておくよ。梨乃さんが音大を卒業して帰国したときに使えるように、ずっと誰も入居させない。約束する」
「じゃあ、ずっと私は恭一さんの隣人でいられるのね」
「ああ。俺の隣人は、梨乃さんしか考えられない」

 もうすぐ離れ離れになってしまう恋人たちを、星空は優しく見守っている。別れを惜しむ二人は、互いの温もりを忘れまいといつまでもいつまでも抱き合っていた。





 ドイツ・フランクフルト国際空港へ向けて、梨乃が乗った飛行機は離陸した。午前の便での出発で、時差の関係もあって同日の午後――日本は一日進んでいるが――にドイツに到着する。 梨乃は機内のイヤホンを耳に入れると、映画ではなくクラシックやジャズなど音楽のチャンネルに合わせた。十二時間時間弱のフライトなので、ビジネスクラスを利用している。水平飛行になり、ベルトを外しても良いとサインが出たので外し、窓の外を眺めた。澄んだ青空と真っ白な雲が広がっている。恭一が言ったように、空には遮る物が何もない。タイミング良くイヤホンから、耳に馴染んだメロディが流れてきた。

『寂しくなったら、聞いて欲しい』

 恭一がそう言った、二人にとっての特別なあの曲が。サッチモ(ルイ・アームストロング)の歌声が、梨乃の全身を包み込んでいく。どんなに離れていても滅多に会えなくても、眼前に広がる空の下では繋がっている。恭一は日本で、梨乃はドイツで頑張っていく。二人が住むこの地球は、まさしく素晴らしき世界だ。

 サッチモの太く温かみのある力強い歌声に包まれながら、青く雄大な空を眼下におさめつつ梨乃は、夢を叶えるための第一歩を踏み出した。


           了
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