第25話

文字数 1,665文字

 静かになったレッスン室に、緊張が漂う。梨乃がピアノコースの首席で留美が次席とはいえ彼女たちの実力には割と差がある。もちろん梨乃の方が実力が上だ。しかし互いにライバルとして意識し合っている。留美は特に梨乃を意識していて、こうやって同じレッスン室にいること自体気にくわないとさえ思っている。どう頑張ってみても一年生の時から梨乃の後塵を拝さねばならなくて、口惜(くや)しくて仕方がない。

 熊坂が中座したが梨乃は気にせず第二楽章を弾き始める。一瞬にして目が真剣な物になり、留美のことなど眼中にないというのが気配で判る。その集中力に留美も負けん気を刺激されるが、どうしてもライバルが気になってミスタッチをしてしまった。不協和音がレッスン室に響き、熊坂ほどではないが音感に優れている梨乃は無意識の内に小さく息を吐いた。その挑発的とも取れる態度を敏感に察した留美の神経は逆撫でされ、口惜しさでかあっと頬が燃える。

(何よ、私はミスなんてしないのよって顔をして!)

 留美にとっては忌々しいことだが、技巧的には梨乃の方が上だ。留美は精神状態が演奏に表れやすいが、それは練習の時だけだ。いざ本番となると、驚くほどの集中力を見せつける。俗に言う本番に強いタイプなのだろう。梨乃はトラウマのために本番では普段の実力が存分に発揮できない。このことを知っている留美は、何故いつも自分がと憤りを覚えており、不満を募らせていた。いくら練習で上手く出来ても、本番で弾けなければ意味がないではないか……それが留美の言い分だ。だから練習で得意気に弾いている梨乃を見ると、非常に腹が立って仕方がない。

(何よ本番に弱いくせに。内弁慶がオーケストラと共演したって、恥をかくだけなのに!)

 自分でもひどい嫉妬と判っているが、梨乃のことが気にくわないので心の中で存分に罵ることで溜飲を下げる。

(絶対に負けない。最終選考までに鼻を明かしてみせる!)

 オーケストラとの本格的な練習は四月下旬から始まるが、その前にこのまま候補が二人ならば最終選考がピアノコース全教員が審査員となって行われる。留美はそこで一発逆転を狙っているのだ。梨乃が本番に弱いのはコンクールの時だけで、学院内での試験等では安定した実力を見せている。最終選考までに何とかして梨乃を精神的に弱らせ自分が権利を獲得したい留美は、いきなり鍵盤に両手を叩きつけた。

 二人の視線が空中でぶつかり合い、烈しく火花を散らす。レッスン室内には異様な緊張が漂い、無言で睨み合う少女たちはピアノを弾くことを忘れている。そんな空気の中、熊坂が戻ってきた。

「あらどうしたの二人とも、手が止まっているわね」

 たったひと言。熊坂のたったひと言で、彼女たちの間に漂っていた空気が揺れ動いた。張り詰めていたものがなくなり、いつものレッスン室に戻った。熊坂とて教師だ、つい一瞬前まで場を支配していた空気の悪さを見逃すはずがなかった。だが何があったのかを聞かずに、二人に第二楽章から弾くよう促す。ほぼ同時に弾き始めた生徒たちはそれぞれの解釈で己の理想とする旋律を奏でていく。二台のピアノの後ろにあるパイプ椅子に座り、熊坂は二人が諍いを起こしたのだなと苦笑する。

 二人の仲の悪さは、音楽学科内で知らぬ者がいないほどだ。当然ピアノコースの教師たちもこれを承知しており、彼女たちを同じレッスン室に入れないように配慮している。しかし熊坂は敢えて二人を一緒にし、互いのライバル心に火をつけて切磋琢磨させる方針を選んだ。潰し合いを存分にすればいい。競争相手がいて、その演奏を直に聴くことで己の未熟な点が判ることもある。馴れ合いの仲良しごっこをしていては、コンクールには勝てない。

 ライバルを蹴落とし己自身に勝たねば、夢を掴み世界に羽ばたくことなど到底不可能だ。冷たいようだが、熊坂は己の留学の経験から甘い指導を捨てている。留学先ではもっと熾烈な争い蛾のな争いが繰り広げられる。言葉のハンディキャップもあるし、精神的にも相当タフでなければ夢は夢のままにしておいた方が得策だ。
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