第13話

文字数 1,526文字

 エレベーターに乗った恭一は、先程の行ってらっしゃいというひと言が脳裏から離れない。

 六年前、十六歳の誕生日を翌日に控えた三月のある日、彼の両親は交通事故でこの世を去ってしまった。幸いマンションの不動産収入や生命保険などで金銭面では困らなかったが、今まで家に帰れば誰かが居たのにある日突然いなくなってしまったことになかなか慣れなかった。

 行ってきます。いってらっしゃい。ただいま。お帰り……そんな当たり前だと思っていた挨拶を家庭で交わされない現実に、彼は慣れることができなかった。この六年間、求めても返ってこない言葉を今朝、久しぶりに返してもらった。たぶん梨乃は普通に言ったのだろうが、彼にとってはとても懐かしくて温かい言葉だった。

(誰かに見送って貰うのって、久しぶりだな)

 小さな幸福感を味わいながら車に乗り込み、学校へ向かう。今日は教師としての、社会人としての第一歩だ。その大切な日に、梨乃に見送って貰えたことが嬉しかった。学校が違うから自分の生徒ではないが、世間から見れば新人とはいえ高校教師と女子高校生だ。誤解を招かないようただの隣人として、節度ある近所付き合いをしなければと密かに決意する。同時に胸の奥に広がる、久しぶりに感じる甘い痛みには気付かないふりをした。

「さて、行くか」

 車の運転に集中し、頭の中から出来るだけ梨乃のことを追い出す。神無城(かんなぎ)学園高等部の教職員用駐車場に愛車を停める。

 彼は挨拶のためにまずは、普通の高校でいう校長にあたる高等部部長室へと足を運んだ。重厚な扉をノックすると
「どうぞ」
 と返事があり、失礼しますと言いながら開ける。かなりダンディな男性がデスクの向こう側に座っており、すでに二人の男女がその傍に立っていた。

「おはようございます、神保恭一です」

「やあ神保先生、おはようございます。わたしが高等部部長の紺野(こんの)だ。まだ全員揃っていないんだが、こちらは中等部から異動してきた物理担当の山下先生と数学担当の加藤先生だ」

 四十代後半の男性教員が山下で、三十代前半の女性教員が加藤らしい。二人とも笑顔で、新卒の恭一に挨拶をする。そうこうする内にもう一人の新卒教員、体育担当の丸山がやって来た。丸山は柔道をやっていただけあって身体もがっしりしており、精悍な顔立ちをした男だった。恭一の同期は、この丸山だけらしい。この後に入ってきた女性教頭の雨宮(あまみや)から諸注意事項が言い渡され、紺野部長らと共に職員室へと案内された。皆に紹介され、恭一は成瀬(なるせ)という二年目の英語女性教員の隣に席が用意されていたので足を運ぶ。成瀬と挨拶を交わし、歳がひとつしか離れていないせいかすぐに打ち解けた。

「神保先生、初授業になると生徒から色々質問攻めに遭いますから、覚悟しておいた方がいいですよ」

 成瀬は昨年、自身も質問された『恋人はいますか』とか『どこに住んでいますか』などといったプライベートな質問を例に挙げ、適当にあしらうよう助言した。

「しつこいようでしたら、プライベートに関する質問には黙秘権を行使しますと言っておけば、大抵は引き下がってくれます。それとしつこく交際を迫るような|強者((つわもの)には、年下の生徒には興味がありませんのひと言で撃退できますから」

 生徒に興味が無いとだけ言えば卒業後ならいいのだなと曲解する者も出るが、年下に興味が無いと言っておけば取り敢えずは一応の安全は確保できる。もっともこれは女性教員だから使える手段で、男である恭一にとって『年下に興味が無い』と宣言したら十中八九、熟女好きのレッテルを貼られるだろうから、その辺は発言に慎重さが求められる。何にせよ昨年は成瀬も、その手の発言に悩まされたのだろう。苦笑混じりに撃退法を伝授してくれた。
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