第47話

文字数 1,925文字

 無事にマンションに帰り着いた二人は、着替えるために一旦自室に入る。あまり円果を待たせるのも悪いと思い、何とか身支度を終えてから向かった。円果が笑顔で出迎えてくれたが恭一はまだらしい。食欲をそそる美味しそうな香りが、廊下にも洩れている。二人がリビングに入ったところで恭一も来て、さっそ三三人は食事を始めた。
 
 円果にもコンクールに参加することを伝えると、円香は目を輝かせて頑張って! と応援してくれた。昨日のオーケストラとの共演が成功したことで、梨乃はコンクールでも普段の実力を存分に発揮できると確信した。留学して更に色んなコンクールに出場し、プロの演奏家として有名な管弦楽団と共演できたらいいなと夢を大きく描く。ベルリン、ウィーン、ロンドン、フィラデルフィアなど世界的にも有名でファンが多い管弦楽団の名前が次々と浮かび、彼らと、そして聴衆と共に楽しめる演奏が出来たらどんなに素晴らしいだろうと、食事もそっちのけで夢想にふける。

「有名なピアノコンクールよね、梨乃ちゃんがエントリーしたコンクールって。アタシでも名前を知っているくらいだもの」

 サラダをつつきながら円果が言えば、その言葉に我に返った梨乃が大きく頷いた。

「プロのピアニストを目指す者にとって、登竜門的なコンクールなんです。何処まで通用するか判りませんが、やれるところまでやってみようと思います」

 目を輝かせて語る梨乃に、それまで黙っていた恭一が不意に言葉を投げつけた。それは聞きようによってはとても冷酷ではあるが、事実でもある言葉だった。

「最初からそうやって逃げ道を用意しているような言葉は、慎んだ方がいいな。そのコンクールに出場する人たちは何回も挑戦してきただろうし、他のコンクールでも優秀な成績を修めているかもしれない。それに鮎川さんは、コンクール自体が十年ぶりだろう? 心してかからないと、地区予選すら突破できないよ」
「ちょっと恭一くん……何よその言い方は」

 慌てて円果が口を差し挟んだが、恭一は冷静な態度を崩そうとしない。

「コンクールに参加する者は全員、死に物狂いで練習して優勝を目指しているんだ。何処まで通用するか試すなんて甘い考えは、他の出場者に対しても審査員にも失礼だ。全身全霊をかけてぶつからないと、有名な国際コンクールで好成績なんて修められないよ」

 恭一の淡々とした言葉は、梨乃の頭に冷水を浴びせた。たかがアマチュアオーケストラとの共演が成功したくらいで舞い上がっていては、生き馬の目を抜くコンクールでなど勝てるわけがない。浮かれていた梨乃の心が一瞬にして冷静になり、確かにそうだと視線を自分の膝に落とした。

「り、梨乃ちゃん? 恭一くんの言葉なんか聞き流せばいいのよ? 大丈夫よ、梨乃ちゃんなら」
「いいえ円果さん。神保さんのおっしゃる通りです……私、浮かれていました。でも、神保さんのお陰で目が覚めました。ありがとうございます、私に活を入れてくださって」

 妙にスッキリした顔の梨乃に、先程までの浮ついた空気は微塵もなかった。円果は二人に挟まれてどうしたらよいのか判らず、居心地が悪そうに沈黙を守っている。

「そうですね……それこそライバルは星の数ほどもいますね。私、頑張ります」

 目の色が変わった彼女を見て、恭一はにっこりと微笑んだ。嫌われるかもしれなかったが誰かが厳しいことを言わないと、せっかくトラウマを克服しかけているのにまた足元を掬われかねない。幸いにも彼女はそのことを素早く理解してくれたから、素直に感謝の意を述べた。下らない夢想から脱却した梨乃は、取り敢えず空腹を満たすために食べ始める。長丁場になるであろう練習や本番のためにしっかりと食べて、体力を付けなければならない。場の空気が戻ったことを察した円果ももう口を差し挟まず、静かに若く才能溢れるピアニストを見守ろうと決めた。

 三人は先程までの剣呑な空気など忘れたかのようによく食べ、笑い、語った。特に円果は健啖家ぶりを発揮し、大量にあった料理はあっという間になくなっていた。皆で手分けして後片付けを済ませ、コーヒーまでしっかりとご馳走になってから二人は部屋に戻る。シャワーを浴び終えてスッキリした梨乃はさっそくピアノに向かい、課題曲の一つであるショパンの幻想即興曲の楽譜を広げた。

 速いテンポ、ゆったりとしたテンポ、再び早くなるテンポと目まぐるしく変わる幻想即興曲だが梨乃はこの曲を得意としている。ショパンは好きな作曲家のため、一番多く弾いているかもしれない。慣れ親しんでいると言えばそうかもしれないが、それ故に変な癖が付いているかもしれないとメトロノームを作動させ、テンポを確認しつつ楽譜通りに丁寧に弾く。
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