第18話
文字数 1,537文字
何だか無性に他人の生演奏が聴きたい衝動に駆られた梨乃は、スマホのメッセージアプリ作成画面を開いた。僅かに鼓動が早くなっていることを自覚しつつ
『今からスタジオに、お邪魔してもいいですか』
たったこれだけの文章を入力するのに五分かけて入力した。
送信ボタンを押すかどうか迷うこと更に十五分を費やしていた。あれこれ考えすぎて、いつの間にかアルトサックスの音色が聞こえてこないことに全く気付いていなかった。
「あれ? 鮎川さんどうしたの?」
同じく気分転換をしようと出てきた恭一は、スマホ片手に通路の真ん中に立っている梨乃の背中に声をかけてくる。
「え? あ、神保さん?」
驚愕のあまり声がひっくり返ってしまった事が恥ずかしく、梨乃の頬が薄紅色に染まり一瞬どうしようと思ったが、こうなったら直接本人にお願いしようと腹を括って振り返る。本戦に残ることはないが舞台の場数を踏んでいる彼女は、いざとなると相当に肝が据わるらしい。スマホをポケットに突っ込み、緊張から少々引きつった笑みを浮かべた。恭一の方もまさか梨乃が立っているとは思わず驚いたが、先程の神崎との電話の件をさっそく聞いてみようと警戒させないように、やわらかい笑みを浮かべた。
「あの」
期せずして二人の声が同時に上がり、一瞬の気まずさが場を支配する。互いに譲り合うこと三回、埒があかないと判断した恭一が小さく息を吐いて、アルバイトの件を手短に伝える。
「あの……せっかくですけれど、夏休みに市民オーケストラとの共演が控えているんです。それが終わるまでは、しょっちゅう顔を出せないかと思うんですが」
申し訳なさそうに眉を八の字に下げて言う梨乃の姿に、恭一は何だか自分が彼女を虐めてしまったような気分になり、目を逸らした。それを機嫌を損ねてしまったと解釈した梨乃は、ますます申し訳なさそうな顔になった。
「いや無理に、という話じゃないんだ。都合がついたら、というのが大前提だし。第一、吉柳 はアルバイトは禁止だろう?」
「建前上はそうですけれど大丈夫です。許可を得れば、堂々とアルバイトは出来ますよ」
「……え、できるの?」
吉柳女子学院といえば、割と生活レベルが高い家庭の子女が通う私立校だというのが恭一の認識だった。そんな学校とアルバイトという単語がどうにもミスマッチで、思わず間抜けな声を上げてしまった。
「結構アルバイトを認められている生徒は、多いんですよ。この不景気ですし家庭の事情もあって、学業と両立させている子は多いんです」
確かに一流企業に親が勤めていたとしても、この御時世では順調に見えていても業績不振に陥り気付けば倒産寸前ということはままある。また病気で休職でもしたら、そのまま退職ということも有り得る。近所の目や変なプライドもあって、経済的に厳しくとも娘を退学させない親は、案外多いのかもしれない。音楽学科は裕福な家庭の生徒が大多数だが、普通科コースに在籍する生徒だとアルバイトをしている者も多かった。
「もしも許可を得られるなら、きちんと得た方がいいな。もしもバレて停学処分になったら、申し訳ないし」
「申請から問題がなければ、最短で三日後には許可が正式に下りると思います。だからそのオーナーさんには、もう少し待ってくださいと、お伝え頂けませんか」
「それは構わないよ」
自分たちの勝手な誘いで、梨乃の将来を潰したら取り返しがつかない。恭一は息を吐くと、今度は梨乃の話を促す。話を振られた彼女は、急に恥ずかしくなってしまい言葉が出ない。あれほどスタジオに行ってみたいと思っていたのに、よく考えたら円果がいなければ密室に恭一と二人きりだという事実に遅まきながら気付き、随分と大胆なお願いをしようとしていることに恥じらいを覚えた。
『今からスタジオに、お邪魔してもいいですか』
たったこれだけの文章を入力するのに五分かけて入力した。
送信ボタンを押すかどうか迷うこと更に十五分を費やしていた。あれこれ考えすぎて、いつの間にかアルトサックスの音色が聞こえてこないことに全く気付いていなかった。
「あれ? 鮎川さんどうしたの?」
同じく気分転換をしようと出てきた恭一は、スマホ片手に通路の真ん中に立っている梨乃の背中に声をかけてくる。
「え? あ、神保さん?」
驚愕のあまり声がひっくり返ってしまった事が恥ずかしく、梨乃の頬が薄紅色に染まり一瞬どうしようと思ったが、こうなったら直接本人にお願いしようと腹を括って振り返る。本戦に残ることはないが舞台の場数を踏んでいる彼女は、いざとなると相当に肝が据わるらしい。スマホをポケットに突っ込み、緊張から少々引きつった笑みを浮かべた。恭一の方もまさか梨乃が立っているとは思わず驚いたが、先程の神崎との電話の件をさっそく聞いてみようと警戒させないように、やわらかい笑みを浮かべた。
「あの」
期せずして二人の声が同時に上がり、一瞬の気まずさが場を支配する。互いに譲り合うこと三回、埒があかないと判断した恭一が小さく息を吐いて、アルバイトの件を手短に伝える。
「あの……せっかくですけれど、夏休みに市民オーケストラとの共演が控えているんです。それが終わるまでは、しょっちゅう顔を出せないかと思うんですが」
申し訳なさそうに眉を八の字に下げて言う梨乃の姿に、恭一は何だか自分が彼女を虐めてしまったような気分になり、目を逸らした。それを機嫌を損ねてしまったと解釈した梨乃は、ますます申し訳なさそうな顔になった。
「いや無理に、という話じゃないんだ。都合がついたら、というのが大前提だし。第一、
「建前上はそうですけれど大丈夫です。許可を得れば、堂々とアルバイトは出来ますよ」
「……え、できるの?」
吉柳女子学院といえば、割と生活レベルが高い家庭の子女が通う私立校だというのが恭一の認識だった。そんな学校とアルバイトという単語がどうにもミスマッチで、思わず間抜けな声を上げてしまった。
「結構アルバイトを認められている生徒は、多いんですよ。この不景気ですし家庭の事情もあって、学業と両立させている子は多いんです」
確かに一流企業に親が勤めていたとしても、この御時世では順調に見えていても業績不振に陥り気付けば倒産寸前ということはままある。また病気で休職でもしたら、そのまま退職ということも有り得る。近所の目や変なプライドもあって、経済的に厳しくとも娘を退学させない親は、案外多いのかもしれない。音楽学科は裕福な家庭の生徒が大多数だが、普通科コースに在籍する生徒だとアルバイトをしている者も多かった。
「もしも許可を得られるなら、きちんと得た方がいいな。もしもバレて停学処分になったら、申し訳ないし」
「申請から問題がなければ、最短で三日後には許可が正式に下りると思います。だからそのオーナーさんには、もう少し待ってくださいと、お伝え頂けませんか」
「それは構わないよ」
自分たちの勝手な誘いで、梨乃の将来を潰したら取り返しがつかない。恭一は息を吐くと、今度は梨乃の話を促す。話を振られた彼女は、急に恥ずかしくなってしまい言葉が出ない。あれほどスタジオに行ってみたいと思っていたのに、よく考えたら円果がいなければ密室に恭一と二人きりだという事実に遅まきながら気付き、随分と大胆なお願いをしようとしていることに恥じらいを覚えた。