第5話

文字数 1,297文字

 来客を告げるチャイムが室内で響き、ややあって若い男性の応答があった。梨乃はインターホンに向けて
「あの、隣に越してきた鮎川ですが」
 と告げると、程なく解錠された。

「鮎川さんですね? 初めまして、オーナーの神保(じんぼ)恭一(きょういち)です」

 カットソーにジーンズというラフな格好の、背の高い爽やかな青年がドアを開けると自己紹介をする。

「初めまして、鮎川梨乃と申します。本日からよろしくお願い致します」
「そんなに畏まらなくても大丈夫ですよ。これからは隣同士ですから、判らないことや困ったことがあったら遠慮せずに言ってくださいね」

 にこっと笑う顔は少年のような印象を与える。決して童顔ではないのに、彼の持つ雰囲気がそう錯覚させるようだ。

「鮎川さんは高校生だと聞いたけれど、どこの学校なの?」

 そう質問したときの恭一の表情は、どこか緊張を孕んでいた。少し困ったような……思案するような表情が気になったが、梨乃は素直に答えた。

「吉柳女子学院です」
「あ……吉柳か。なら良かった」

 答えを聞いてほっとした表情(かお)になった恭一に疑問を抱いた。その疑問が顔に表れたらしく、彼は苦笑混じりに答えをくれた。

「俺、四月から神無城(かんなぎ)学園高等部の教員になるんだ。万が一、同じ学校だったらどうしようかと思ってね」

 違う学校と判ってホッとしたのか、恭一の口調が少し砕けたものなった。そういう口調になると大学を卒業したての青年という印象になり、梨乃も少しだけ緊張が解ける。 神無城学園は、中等部から大学大学院まで一貫教育の私立学園。このマンションの最寄り駅から四駅離れたところにあり、文武両道でも有名な共学校。梨乃は幼稚舎からずっと吉柳女子学院なので、共学校の神無城学園に興味を覚えた。違う学校とはいえ隣人が高校教師。職業に貴賎はないが、それでも堅気の職業に就いている隣人で良かったと、こっそりと息を吐く。

「ところで部屋のピアノ、気に入ってくれたかな。調律は三ヶ月に一度、調律師が部屋に訪ねてくるから覚えておいてね。料金は俺の方に請求されるから安心して」

 どうやらあのピアノの管理一切はオーナーがしていて、梨乃は好きなだけ弾かせて貰えるということらしい。そう思うと嬉しさがこみ上げる。事前に聞いた話では、最上階は特に防音設備に力を入れてあるので、真夜中でも下と左右の部屋に音は洩れないとのことだ。どこまでも今までとは違う環境に、小躍りしたくなる。今までの社宅では電子ピアノだったし、夜間の練習などはヘッドホンが必須だった。これからは音を気にせずに練習ができると思うと、自然と気分が高揚していく。

「判りました。あの、これからお願いします」

 ぺこりと頭を下げると、頭上の空気が柔らかくなった。顔を上げると、笑みを浮かべている恭一と目が合った。人懐こいその笑みに、つられて笑みを返した。

「次回の調律は六月の第一日曜日で、だいたい午後二時頃に来るからね」

 どうやら三ヶ月おきの第一日曜日が、調律師が来るサイクルらしい。そういった話をしていると、何やらエレベーターの方が騒がしい。ちらとそちらの方に視線をやった恭一は次の瞬間、苦虫を噛み潰したかのような顔になった。
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