第33話

文字数 1,595文字

 時間になり事務所を出ると、ステージを囲むようにしてテーブル席が配置されている。こんなに客と近いとは想像していなかった梨乃は一気に緊張するが、三橋や相坂が大丈夫だよという風にアイコンタクトを送ってきたので、彼女も微笑み返すと緊張が幾分か和らいだ。ジャズの生演奏を聴かせるレストランバーなので、ジャズファンの間では有名な店らしい。ジャズに興味のない無粋な客の存在に煩わされることなく、安心して音楽と飲食を楽しめる。

 今までコンクールなど緊張感に包まれた場しか知らない梨乃にとって、こんなにも温もりを感じるステージは初めてだった。オーダーを終えた客たちは料理に舌鼓を打ちながら、演奏を心待ちにしている。相坂と三橋が席に着き、梨乃もピアノの前に座ると、三人の視線が一瞬だけ交錯した。梨乃の前奏からドラムとウッドベースが加わる。今回ヴォーカルのパートをピアノが担当しつつも、三人は今回が初セッションとは思えぬほど呼吸を合わせて演奏する。

 梨乃の躯は緊張で強張っていた。コンクールの時と同じで聴衆の視線が怖くて、逃げ出したい衝動に駆られる。指に力が入らなくなるような錯覚を覚え、そのたびに助けを求めるかのように三橋や相坂を見ると、彼女を安心させるように微笑んだり頷いてくれる。その表情はとても穏やかで、心底演奏を楽しんでいるかのようだ。こんな小娘の演奏と馬鹿にせず、緊張で多少リズムを狂わせてしまってもきちんとフォローされた。それが独自のアレンジともアドリブとも受け取られ、聴衆から不満の空気は一切感じられない。

(ああそうだ。ジャズって、臨機応変が利くからいいんだよね)

 クラシックだとリズムやテンポが乱れる事は許されない。メトロノームが奏でるテンポに合わせてきちんと演奏しなければいけない。幼い頃からそれを叩き込まれてきた梨乃にとって、ジャズは自由を感じられて心地よかった。だからたまに父親のリクエストに応えて、オールディーズナンバーをジャズにアレンジして演奏することが楽しくて仕方なかった。勿論ジャズとて決まったリズムや約束事は守らねばならないが、比較的奏者の自由が認められる。少し場の雰囲気に慣れてきた彼女はようやくそこで、客席を見渡す余裕ができた。

(――あ)

 思わず目を瞠った。食事をゆったりと摂りながらも、躯は自然とリズムを取っていたり小さく口ずさんでいたり、目を閉じてどっぷりと音楽の世界に入り込んでいたりと……実に様々な表情の聴衆がそこにいた。共通して言えることは皆、楽しそうに口元が緩んでいることだ。纏う空気がとてもやわらかく自分たちもステージで共に演奏しているかのように楽しそうだ。そんな聴衆の顔を間近で見た梨乃は、いつしか自分も口元が緩んでいくのを覚えた。クラシックのコンクールでは味わえない聴衆との一体感を、自分たちの演奏を楽しんでくれる彼らの息遣いや体温を、そして彼らから発せられる嵐のような楽しい! という声なき言葉を直に感じ、梨乃の躯が熱くなっていく。いままでこんなに聴衆を意識したことがなかったし、こんなにも心躍る演奏を経験したことがなかった。

(どうしよう楽しい! どうしようもなく心が躍るし、弾む。これが神保さんが言っていたことなの? 自分も聴衆も楽しむ……それが音楽だって。この状態がそうなの?)

 最初はまだまだ優等生っぽい、固い雰囲気の演奏だった梨乃だが今ではリズムのままに躯を動かし、相坂や三橋とアイコンタクトを取りながら演奏している。イパネマの娘が終わり打ち合わせ通りのナンバーが続くが、高揚した気分は一向に衰えることを知らず店内は心地よい空気に包まれている。

 人前で演奏することがこんなにも楽しいものだということを、梨乃は今夜初めて知った。コンクールの時のように心臓がぎゅうっと締め付けられるような恐怖は最初だけで、気がつけば、聴衆と共に演奏を楽しんでいた。
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