第48話
文字数 1,469文字
今回のコンクールは、日本はおろかアジア中にライバルがいる。まずはこの国内の地方大会を勝ち進まねば、全国大会にもアジア大会にも進めない。雑念を追い払い、目の前の曲に集中する。丁寧に音符を拾い上げ、ショパンの世界を作りだしていく。例え作曲したショパン本人が焼き捨てて欲しいと遺言していたにせよ、梨乃をはじめ、この曲を愛し演奏するピアニストは大勢いる。ピアノが好きだ、ショパンの幻想即興曲が好きだという気持ちは誰にも負けない。並み居るライバルを押しのけて全国大会に、そしてアジア大会に進むのは自分だと心に強く訴えかけつつ旋律を奏でる。
日付が変わるまで練習し、疲れた身体をベッドに投げ出して眠りについた。今ではあの悪夢を見ていない。ぐっすりと夢も見ずに朝まで眠り、いつものように早朝に起き出し公園でジョギングをする。爽やかな朝の空気を肺一杯に吸い込むと、昨日の自分がリセットされたような気がした。そしてまた、新たな気持ちでピアノに向き合う。シャワーと朝食を終えた梨乃は学校に向かい、熊坂とマンツーマンで放課後になるまで練習に明け暮れる。
幻想即興曲は最も得意とする曲であり練習も積んでいる為に問題はなかったが、課題曲のひとつであるJ.S.バッハの平均律第Ⅱ巻十九番イ長調 BWV888フーガで、何度かミスが目立ってしまう。その他にも課題曲であるショパンの『雨だれの|前奏曲 』を練習し、気が早いが全国大会用の課題曲として練習曲 OP.10-5ト長調『黒鍵』を徹底的に弾いた。
ショパンの前奏曲も練習曲もミスはないのに、どうしてもバッハの平均律でミスが目立つ。全国大会に行くには、絶対にバッハでミスを出してはならない。コンクールの審査はとても厳しい。わずかなミスタッチも許されず、逃げ出したくなるほどの緊張感をはねのけなければならない。そうでなければ全国大会、ましてやアジア大会など夢のまた夢だ。
熊坂の指導は俄然熱が入り、それは市民オーケストラの時とは比べものにならないほど厳しかった。梨乃は必死でバッハを弾く。十一月下旬開催といえど、直すべき箇所は細かいところも含めてかなり多い。一年前から本人が知らぬ間に練習していたとはいえ、コンクールの課題曲と知らなかったのでどこか甘さが残っていたのだろう。何度も指摘されていた箇所が未だに修正されていないことに、少なからず熊坂は焦りを覚えた。だが彼女は梨乃の才能を信じている。努力家である梨乃は、腕がつりそうになっても躯が疲労を訴えようと自分と熊坂が納得のいく演奏が出来るまで、課題曲を弾いた。
課題曲自体は昨年からさり気なく練習していたとはいえ、本格的に練習を始めたのはつい最近のことだ。残り三ヶ月しか時間がないということに焦りを覚えないわけがない。毎日学校へ行って練習をし、お盆の時期だけ三日間の休みを貰えた。その休暇の昼間はとにかく課題曲を弾き、週末の夜は久しぶりにSORRISOでジャズを演奏して疲れた身体を癒やした。
「大丈夫かい鮎川さん。随分と目が据わっているみたいだけれど……?」
恭一がその身を案じて声をかけるが、車内でも彼女はイメージトレーニングに余念がない。ワンテンポ遅れて返事をすることは当たり前になり、円果を含めた食事会でも無理して笑っていることが多くなっていた。トラウマは多分もう大丈夫だと思いますと言うが、緊張で心が押し潰されそうになったら再び彼女を苦しめないとも限らない。
「とにかくコンディションを整えることに越したことはないよ」
恭一に言えることは、それぐらいしかなかった。
日付が変わるまで練習し、疲れた身体をベッドに投げ出して眠りについた。今ではあの悪夢を見ていない。ぐっすりと夢も見ずに朝まで眠り、いつものように早朝に起き出し公園でジョギングをする。爽やかな朝の空気を肺一杯に吸い込むと、昨日の自分がリセットされたような気がした。そしてまた、新たな気持ちでピアノに向き合う。シャワーと朝食を終えた梨乃は学校に向かい、熊坂とマンツーマンで放課後になるまで練習に明け暮れる。
幻想即興曲は最も得意とする曲であり練習も積んでいる為に問題はなかったが、課題曲のひとつであるJ.S.バッハの平均律第Ⅱ巻十九番イ長調 BWV888フーガで、何度かミスが目立ってしまう。その他にも課題曲であるショパンの『雨だれの|
ショパンの前奏曲も練習曲もミスはないのに、どうしてもバッハの平均律でミスが目立つ。全国大会に行くには、絶対にバッハでミスを出してはならない。コンクールの審査はとても厳しい。わずかなミスタッチも許されず、逃げ出したくなるほどの緊張感をはねのけなければならない。そうでなければ全国大会、ましてやアジア大会など夢のまた夢だ。
熊坂の指導は俄然熱が入り、それは市民オーケストラの時とは比べものにならないほど厳しかった。梨乃は必死でバッハを弾く。十一月下旬開催といえど、直すべき箇所は細かいところも含めてかなり多い。一年前から本人が知らぬ間に練習していたとはいえ、コンクールの課題曲と知らなかったのでどこか甘さが残っていたのだろう。何度も指摘されていた箇所が未だに修正されていないことに、少なからず熊坂は焦りを覚えた。だが彼女は梨乃の才能を信じている。努力家である梨乃は、腕がつりそうになっても躯が疲労を訴えようと自分と熊坂が納得のいく演奏が出来るまで、課題曲を弾いた。
課題曲自体は昨年からさり気なく練習していたとはいえ、本格的に練習を始めたのはつい最近のことだ。残り三ヶ月しか時間がないということに焦りを覚えないわけがない。毎日学校へ行って練習をし、お盆の時期だけ三日間の休みを貰えた。その休暇の昼間はとにかく課題曲を弾き、週末の夜は久しぶりにSORRISOでジャズを演奏して疲れた身体を癒やした。
「大丈夫かい鮎川さん。随分と目が据わっているみたいだけれど……?」
恭一がその身を案じて声をかけるが、車内でも彼女はイメージトレーニングに余念がない。ワンテンポ遅れて返事をすることは当たり前になり、円果を含めた食事会でも無理して笑っていることが多くなっていた。トラウマは多分もう大丈夫だと思いますと言うが、緊張で心が押し潰されそうになったら再び彼女を苦しめないとも限らない。
「とにかくコンディションを整えることに越したことはないよ」
恭一に言えることは、それぐらいしかなかった。