第43話

文字数 1,683文字

 不思議とコンクールの時のような緊張感は湧いてこない。会場に来てくれているであろう皆の顔を――否、恭一の顔を思い浮かべるだけで自然と落ち着けた。

『演奏する側が楽しまなければ聴衆だって楽しめない。怖くなんかない、音楽は皆を楽しませるものなんだ。それを忘れなければ、きっと素敵な演奏が出来るよ』

 恭一がくれた、梨乃にとっての魔法の言葉を何度も何度も胸の内で復唱し、出番が来るのを待った。心は不思議なほど穏やかで、焦りなど微塵も感じない。今まで練習してきた通りに弾けばいい、大丈夫、大丈夫と念じていると出番を告げにスタッフが現れた。

 舞台袖では指揮者が息を整えていた。梨乃と目が合うと、にっこりと微笑んでくれた。SORRISOで相坂や三橋がしてくれたように、梨乃の高まりかけた緊張感を一気に解してくれた。無意識に入っていた肩の力がスッと抜け、彼女も穏やかな笑みを返した。それが合図だったかのように二人は、舞台の中央へと歩み出す。

 拍手に迎えられ、ピアノの前で立ち止まり聴衆の前に向き直ると一礼する。頭を上げたときに、真っ先に恭一と視線が合った。彼はいつもの、爽やかで穏やかな笑みをうかべて見つめ返してくれる。円果や神崎夫妻、相坂に三橋が恭一と同様に、穏やかな笑みを浮かべて軽く頷いてくれた。

――大丈夫、我々はここで見守っているから。

 そんな無言のメッセージを彼らの目や笑顔から受け取り、梨乃は改めて自分はひとりではないと実感し着席する。例え演奏はひとりでも、見守ってくれる仲間がいることが心強い。椅子とペダルの距離を確認し、これで良しと納得したところで指揮者と目を合わせる。双方は頷きあい、指揮者の躯が楽団員の方に向き――梨乃と市民オーケストラとの共演が始まった。ベートーベン作曲のピアノ協奏曲第五番『皇帝』を全楽章演奏するので、この曲だけでも約四十分もある。

 梨乃は落ち着いていた。不安や焦りを、七歳の時に感じた押し潰されそうな程の恐怖を全く感じていないわけではない。だがSORRISOでの経験が彼女を成長させている。心理的不安に呑まれることなく各楽器の演奏を聴きながら、自分のピアノも弾く。

 楽団員は楽しんでいるだろうか、自分は楽しめているだろうか。そして何より……聴衆はこの皇帝という協奏曲(コンチェルト)を楽しんでくれているだろうか。

 美しいハーモニー以外に、音は聞こえない。聴衆は固唾を呑んで、演奏に聴き入っている。まだ高校生のピアニストが奏でる旋律に、皆は酔い痴れていた。第一楽章、第二楽章と続いても梨乃の心が乱れることはなかった。

 音を楽しみたい。奏者も聴衆も一体となってこの素晴らしい協奏曲を堪能し、同じ時間と空間を共有したい。

 梨乃のそんな想いは指先を通じて鍵盤へと伝わり、旋律となってホール全体に広がっていく。

(SORRISOのみんながいる、円果さんがいる。そして……誰よりも神保さんが見守ってくれている。大丈夫、私はちゃんと弾けている。怖くない、怖くなんかない! 音楽は楽しいもの、心躍るものなんだから)

 第三楽章が終わり、演奏の余韻を聴衆が暫し楽しんだ後にホール全体が揺れているかのような、万雷の拍手に包まれた。同時に客席のあちこちから喝采(ブラボー)の声が上がり、それらは轟音となって耳に届く。

(私、無事に弾き終えられたんだ……楽しかった、楽しかったぁ!)

 拍手の渦に呑まれながら、悦びが全身を支配していく。一瞬たりとも幼い頃の苦い記憶はよみがえらなかった。初めて大舞台で納得のいく演奏が出来、真の実力を存分に発揮できた。心が震えるほどの感動とは、まさに今の状態をいうのだろう。達成感と安堵感に包まれて、足が震える。こんなにも拍手が温かいと感じたことは、今までなかった。感動でぼやける視界の中で、恭一と目が合う。自然と頬が緩み、梨乃は最高の笑顔を聴衆に見せた。指揮者と握手を交わし、鳴り止むどころかますます大きくなる拍手喝采を全身に浴びながら、深々と頭を下げた。例えようもないほどの高揚感と幸福が、全身を満たしている。感動で高鳴る胸を押さえつつ袖へと下がり、控え室に戻った。
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