2 謎の男

文字数 3,077文字

僕は変な声を上げながら大慌てで踵を返し逃げ出した。

何を叫んだのか、自分でもわからない。

ただ確かなのは、駅の中にタクシーは走っていないということだ。

走り出して幾許か、重力が足元から突然背中にかかった。

…万事休すだ。

「なぜ突然逃げたりしたんだ? お前、怪しいな?」
「…何言ってんだ、あんたに、言われたくない!」
反撃を恐れて全力疾走したせいか息が全く続かない。
呼吸が落ち着くまであまり喋れなさそうだ。
一方男の方はその痛々しい見た目を除けばピンピンしている。
大きくてはっきりとした2つの青い目でまじまじと僕を見つめてから、男は目線を逸らしてこう言った。
「おい、このリュック、IDがついてないじゃないか。」
そう言うと男は無理やり僕からリュックをひったくった。もう何もかも滅茶苦茶だ。

やめろ、返せ…!

うまく言葉が出ない。
だめだ、一回落ち着け。
さっきの一件をやり返しに追いかけてきたわけではないのか?
こいつは…一体なんなんだ?
ふぅ。
深呼吸する。
この男…どうやら今はもう酔いが冷めているな。
どちらにせよ、関わらない方がいいやつだ。
でも無理やり逃げようとしたところでどうにもなりそうに無い。
そしてこの間にも男はつべこべ意味不明な口をつらつらと走らせている。
…考えよう。
頭を冷静にし、そして僕は男に食い下がった。
「あんた、さっきまで空港にいたよね?」
一瞬にして奴の顔色が変わる。
「…なんで知ってるんだ。」

この男…やはり記憶がない?

僕は試しにわざと神妙な面持ちで続けてみる。
「一体そこで俺があんたに何をされたか教えてあげようか?」
おい嘘だろ、と呟く男の声がか細く聞こえる。

「…わかった。わかった。謝る。許してくれ。すまなかった。」

ため息交じりに男は頭を下げた。
気づけば男は僕のリュックを床に置き背中を丸めている。
僕はそのリュックを取り上げて、彼に背を向けようと

「ちなみに、君は俺がこの怪我をする瞬間とか見て…」

「知らない。」
知ってても言わない。

「あーそうか…しかし、流暢なドイツ語だね。」

嫌な予感がした。
これで終わってくれそうにない。

「君はイギリス人だろう?俺もそうなんだ。だから英語でも構わないよ?」
「よくこの流れで気さくに振る舞えるな。」
「ありがとう!」
「………」
「しかしイギリス訛りって感じではないね。こっち育ちかい?」
「…うるさい。もう俺に関わらないでくれ。」
僕は足早にそこから立ち去r…
「あ、ちょっと待ってよ。」
そう言って男は右腕を僕の肩へ伸ばす。
「あぁなんなんだ!もう!」
「いや本当に悪かったって。多分、ほら、旅先で同じ国の人見つけるとテンション上がるじゃん。そ、それとおんなじだよ。」
「そのことに言ってるんじゃない!警察呼ぶぞ!」
もう本当に最悪としか言いようがない。
ここでグダグダして、もし仮にリュックの持ち主がホームから上がってきでもしたら大惨事だ。
さっさとここから移動したい。
力づくで男から離れようとするが… なんなんだこの怪力は!
本気で引っ張っているのに、リュックを握る手はびくともしない。
なんでこんな不運なだる絡みに付き合わなければならないのか。
嫌だけど本当に警察を呼んでしまおうか。そう思っていた矢先だった。

「その必要はないよ。」

そう言うと男は胸ポケットから黒い何かを取り出し、僕に開いてみせる。
その瞬間、僕はひっくり返った。

“metropolitan police”

紛れも無く『MPS』、イギリス警察のwarrant card(警察手帳)だ。
この男が… 僕より一回りいや、二回りくらい年上に見える…髭を伸ばしてみっともない、どうしようもない酔っ払いであるこの男が…警官…?
僕はずっと、他でもない警官と話をしていたのである。
ゾッとする、考えるだけで寒気がしてきた。

…待て、一回落ち着こう。

いっそここまで来たら、聞けることは聞いておくべきだ。

僕は心を落ち着けて、言った。

「…何故イギリスの警官がドイツに?」

そう聞くと男は少し目線を僕から逸らした。そしてあー、という声の後にこう続けた。

「一昨日、ここから少し南のハイデルベルクでイギリス国籍の輸送機が墜落したんだ。これを政府は電磁砲塔によるテロが原因だと踏んでてな。ご存知の通りうちの国はそういうテロの格好の的だから、再発防止も兼ねてNTSB(国家運輸安全委員会)FBI(連邦捜査局)から捜査協力の依頼が飛んできたのさ。」

「何故私服で?」

「まあオフィスカジュアルってやつだよ。」
WPAによる統合が行われて以降、世界中の警察組織はほぼ全て実質的にWPAへ吸収されてしまった。
地域における所属の差など地球規模で見ればもう誤差に過ぎない。
もしこの男の発言が真実ならば、確かにありそうな話である。
主権の位置がWPAからGRAに替わろうとも、そのシステムは据置きなのだろう。

「そういやあ自己紹介がまだだったね、俺はセバスチャン。よろしくな。」

男は僕に手を伸ばしてきた。
一体この男はどういう神経をしているんだ…?
そしてなんでニコニコしてるんだ!
あぁもう、こうなってしまうとむしろ跳ね除けようとしている僕が悪者みたいじゃないか。
いや僕は、こんなもの適当にあしらうことに慣れていたんじゃなかったのか…?
まあいずれにせよ警官だし、何であれ自然に応対しておくのが吉であることに変わりはない。
僕は仕方なく彼が差し出した左手を握り返した。
案の定、彼は驚いたような反応を見せる。

「その手は…」

「…義手だ。生まれつき左手が無い。」

彼は一瞬バツの悪そうな顔になったが、素早く首を横に振ってから僕へ向き直る。
「そうだよ、肝心の名前、教えてくれよ。」
ふう、と僕はため息をつき、答える。
「…オリバー。」
彼の表情が明るくなった。
「オリバー!よしオリバー。お近づきの印に一つアドバイスしておくと、年長者にはもっと丁寧な言葉遣いをした方がいいと思うぞ。」
「良い1日を。」
「おいおい…!ちょっと待ってくれ!!わかった今の無し!無しでいいから!」


セバスチャン…と名乗った男は、僕の後を執拗についてきた。
出身、年齢、好きなビールに応援していたクラブチーム…頭がガンガンする。
「やっぱマンUだよなあ? 当然だよなあ!」
なんなんだこの男。
「あの、なんでずっとついてきてるんです?」
「あ、初めてちゃんと俺のほう向いてくれた。」
「いい加減に…」
「そりゃあ、旅先での出会いは大事にしろってのがうちの家訓だからな。実際、なかなか同郷の人間には会えないだろ。戦争のせいで。」
「……。」
第三次世界大戦で、イギリス本土は甚大な被害を受けた。
「戦場」なんて格好の良いものではない。
ただ6個爆弾を落とされただけだ。
たったそれだけで、一つの島は人の住めない焼け野原になった。
唯一無事だったのはロンドンを中心とした南部。がそこも連合軍の居留地だった都合で、「イギリス人」は殆ど残らなかった。
あれから数年、住環境などはだいぶマシになったけれど、依然イギリス人の人口は少ないままだ。
だからある意味イギリス人同士で遭遇するなんて、奇跡に近い。
本土ですら様々な人種が助け合って生きている。
こんな形で多様性が育まれるなんて、皮肉過ぎて100年前の社会学者が聞いたら鼻で笑うだろうに。
僕はフランクフルト中央駅の改札を抜けた。男も当然のようについてくる。

「これからどうするんだ?どっか見て回るのか?」

いい加減にしてくれ。
そうピシャリと言ってやるつもりで後ろを振り返ろうとしたその時。
数十メートル先にある、アイスクリームのワゴンが光った。
チカチカ、と素早く光ると世界はすぐに無音になって、そのまま僕は吸い込まれていくように微睡みの底へ落ちた。
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