14-4 造られた天才達

文字数 12,151文字

あの時の僕は純粋無垢な少年だった。

…なんて言葉、今更口に出しても陳腐すぎて重みがない。
あの年頃の子供はだいたいそうだ。
僕に限った話では無い。
だからこうやって話に前置きしようとする姿勢自体に、どこか言い訳がましさを感じて自己嫌悪した。

“あの時”——。

僕は物心ついた時からギブスに面倒を見てもらっていた。
彼は、僕に愛情を持って接してくれていた。
でもいつだったか、それでも本能的に…僕は彼が自身の生みの親ではないことを悟る。
…僕から言えるはずが無い。
そして彼は、自ら口にしようとはしなかった。

きっと忙しくてそれどころではないんだ。

そう自分に言って誤魔化した。
“隣国で始まった大戦にいつ合衆国は参戦するのか”
自分が成長するにつれ、世界はどんどん物騒になっていく。
まだ上院議員だったギブスはきっと緊張の高まる国中を奔走していたに違いない。

くどいようだけれど、ギブスは僕にできるだけの愛情を注いでくれていたと思う。
公務の僅かな時間の合間を縫って小学校の授業参観にやってきたこともあった。
でも親としてではなく、「教育現場の視察」として。
“公務の合間を縫って”って表現は、間違ってるか。
でも彼なりに色々秘書に言い訳しながら、できるだけ僕のそばにいられるよう努力してくれていたのだと思う。

それに…長い長い一人ぼっちの時間も、あまり退屈しなかった。
ギブスが僕に小さなロボットを与えてくれたからだ。
この頃からだろう。僕が機械と言葉を交わすようになったのは。
彼らの声が、心に響くのだ。
それはモーターの駆動音として現れることもあれば、関節部分の軋みとして聞こえることもある。
誰におかしいと言われても、僕はそれが自分自身の資質なんだと思った。
時が経つにつれ…歩くことにしか最適化されていなかった”相棒”は、僕の手によって空を飛んだりマイアミの海を泳いだりできるようになっていく。
気づかぬうちに、僕は技術者になっていたのだ。

ある時聞かれたことがある。

機械いじりに熱中する僕に対して、ギブスが言ったこと。

『エレン。君は、将来…どんなことがしたい?』

一体何だろう。
唯一箱の何も入っていない隙間に手を突っ込まれてしまったような気分。

僕はその時心にふと浮かんできた言葉を、直感的にそのまま放った。

『誰かのためになれること…かな。』

僕の言葉に対し彼は笑顔を見せるでもなく、ただ唇をきつく噛んで頷いただけだった。



その日、僕たちは空気の淀んだ会議室にいた。
半透明の窓にはシャッターがおり、入り口は無機質な鉄扉が閉じている。
そして目の前には、メイテック。
放課後担任の先生に呼び出されるのとは訳が違う。
もしかしたら、自分の命すら脅かされてしまうかもしれない。
“どうしてこんなことになってしまったのか?”
激しい動悸に襲われながら、僕は頭の中でずっと考えていた。

「で、その頼みってのは何なんだよ。肩でも揉んで欲しいのか?」

フィクサーが乱暴に尋ねる。

「まず、こちらをご覧になってください。」

するとメイテックは右手を前に出した。
さっきスタンガンを目にしていた僕は、一瞬驚いて後ろへ仰反る。
だが今度は電極ではないようだ。
甲が開き、そこから細くも鮮やかな光の筋が溢れ出す。
それはホログラム。
現れたのは…、

「エレン、フィクサー…久しぶりだな。」

「大統領…。」
——ギブスだ。
「ギブス!突然どうしてこんな…」
「2人とも、元気にしているだろうか。この状況下だというのに、こんな形で再会することになってしまい、申し訳なく思っている。ただ私が君たちに会うため動けば、さらに事が大きくなってしまう。だから今回はビデオメッセージという形で、そのメイテックに全てを託すこととした。許してくれ。」
僕の言葉を待たずして、ギブスが続ける。

そうか…全て録画なのか…。

でもわざわざギブスがここに出てきた以上、ただ事で済まないことは確かだった。
あらゆる感情たちを、強い緊張感が押し戻す。

「本題の前に…まず君たちが案じていることを一つ、解決しておこうと思う。クリスのことだ。」

フィクサーの眉間にしわが寄る。
直接見たわけではない。
でもそんな気がする。

「クリスのために君たちがやろうとしたことを、私も耳にした。心配させるようなことをしてすまない。だがあれは、彼女の身を守るための最善の方法だった。クーデターの疑いをかけられた彼女は普通のクルー、クーデターを狙うテロリストの双方に狙われかねない。断言しておこう、彼女はテロリストではない。一連の騒ぎとは無関係だ。彼女の収容は、その保護のためにある。だから安心して、私を信じて欲しい。」

ギブスは少し下を向く。
ふっと顔の力を抜いたように見えた。
それからまた面をあげて…力強く僕たちを見つめ直す。

「クーデター…という言葉を今使ったが、君たちも察しているように、このネメシスは何者かによって狙われている。」

それ故の黄色信号。
——やはりクーデターだった…。
でも何故今?
そのモヤモヤは一向に晴れない。

「結論から言おう。このクーデターに対し、我々はもはや手を打つことができない。故に…」

バカな!

僕は思わず叫んでしまった。
ありえない。
頭の中にいた全ての僕は木っ端微塵になった。
その刹那、主を失った僕は呆然と光の筋をただ追うことしかできない。
——そうだ。
僕らの努力もあって防御面は完璧になったはずだ。
今なら外部からのどんな攻撃も、隙なく防ぎ切ることができる。
御三家もバックアップしていたのだ。
理論そのものに脆弱性はなかった。
なのに、ギブスは結論付けた。

“クーデターは防げない”

そんなことありえない。
絶対にあるはずがない。
意味がわからなかった。

これまで僕がやってきたことは何だったの?

ねぇ全部冗談だよね?

いっそそう言って黙らせてしまいたい。
だが今のギブスはホログラムだ。
どれだけ問いただしたとしても、何も答えずただ自分の話をするだけだ。
僕はどうにか自分を抑えつけて、彼の言葉の続きを聞く。

「今私が述べたクーデターに関して、ここで詳細を説明するのは控えておこう。君たちの身の安全を守るためだ、わかってくれ。…本題へ戻る。当然、このネメシスはクーデターなど起こされてはならない存在だ。圧倒的な抑止力として、常に沈黙を保つことができる環境に置かれていなければならない。勿論そのことは責任者である私自身、よく理解している。故に私はこのネメシスを宙へ放つ前…つまり計画の段階で、このような政治的転覆を防ぐための3つの”鍵”を用意することにした。」

「まず1つ目の鍵は、御三家…すなわちネメシスの舵取りを担うメインAIだ。彼らはその圧倒的な計算・学習能力を用いてネメシスに及び得る危険の発生を見抜き、適切な警告と対処を行う使命を担っていた。だがしかし彼らはAIであるが故に人間独自の思考回路を理解することができず、結果生みの親とも言える"組織"に対してその脆弱性を見せつけてしまった。」

「そして2つ目の鍵は…私。それはつまりネメシスという一つの大きな組織・世界を率いる人間として、争いの原因となるような不平等・不公平をなくすということ。自らに課したその使命を深く胸に刻んで、あれからずっと生きてきた。しかし私の行った取り組みはむしろクーデターを誘発することとなり、どれだけ身の丈に合わぬ背伸びをしようと結局1人の人間として"組織"の中へ吸収される顛末を辿った。それだけではない。非常時に備え御三家に関する一部情報の閲覧権限を私自身持たなかったことによって、致命的な御三家の超人類的判断を見逃してしまった。」

ギブスは目頭を赤く染めながら、それでもいつも通り淡々と語った。
正直彼の置かれている立場など、僕が察するに余りある。
もっと言えば彼の言葉の節々がそもそも理解できなかった。
この期に及んでまだギブスは含みを持たせようとしているのか。
どれだけ複雑そうに喋ったところで、結局クーデターは防げないんでしょ?
僕の心はかき乱されていた。
四方八方から声が湧き出てくる。
この感情を綺麗にまとめ上げる言葉など…ない。

「残念ながら、先に述べたようにこれら2つの鍵はクーデターを阻止するため有効性を発揮できなかった。”残念ながら”…というのはあまりに虫のいい表現かもしれない。…私の責任は、計り知れないものだ。だがそれを踏まえたとしても…これが身勝手なことだとは承知の上で…私は最後残された唯一の鍵に、全てを託したいと思っている。」

——最後の”鍵”。

「実のところ、この鍵はクーデターを防ぐためのものではない。もしクーデターが発生してしまった際の、いわば予備的な防衛手段だ。だから繰り返しにはなるが、既に2つの鍵を失った時点で全てを未然に防ぐことはできない。」

「だが邪な思想からネメシスを、この地球を守ることならできる。この衛生兵器が、人類史に残る負の遺産として語り継がれないために。これは大きな傷と罪を負った人類が、再び0からやり直せるかもしれないという最後の…(hope)だ。」

隣にいるフィクサーを見た。
彼は僕の視線になど目もくれず、じっと投影された青を見つめている。
その落ち着いた姿勢が、一層僕の心を騒がせた。

どうしてそんなに静かでいられるの?

大事にずっと守ってきたネメシスが、誰かに奪われてしまうんだよ。

家族くらい大切な仲間たちが、殺されちゃうかもしれないんだよ。

理不尽なまま人が沢山死んでいく世界に、再び戻ってしまうかもしれないんだよ。

故郷のない僕たちにとって…この世界で唯一約束された居場所が、もうすぐなくなってしまうんだよ。

——フィクサーはそれで…いいの?

「三つ目の鍵—— 七賢生。」

「それは…ネメシス計画において大きな主軸を担う7人の子供達。誰よりもネメシスのことを知り尽くし、そしてネメシスが危険に晒された際の、最後の切り札となりうる存在。」

ギブスが言おうとしていることを、僕は直感的に理解した。
だがうまく言語化できない。
もし本当に僕たちの作り上げたこれ(Nemesis)が希望の星から絶望の遺産へと変わってしまうのなら、その罪は僕たちが償うべきだ。
そしてその償い方を、ギブスは知っている。
喜ぶべきだ。
情熱を持って彼の言葉を迎えるべきだ。
でもそれができない。
感情の奔流が、それらしい秩序なんて軽く吹き飛ばすほどに力強く渦巻いている。

「30年前…ネメシス打ち上げがまだ計画段階だった頃、首脳陣たち(合衆国)にとって最も重要視されたことはネメシスの特権性だった。世界にとってネメシスは唯一の存在でなければならない。同様の衛生兵器がもう一つできてしまえば、結局新たな戦いの構図が生まれるだけ。故にネメシスの心臓となる部分の開発は、ごく一部の優秀な人材に集中させることとなった。役割を集中的に与えることで情報の流出を最大限防ぐことができ、作業能率も格段に上昇すると期待されたのだ。——そうして選ばれたのが、7人の天才…七賢生。だが私は個人的な願いから彼らにもう一つ、重要な役割を与えることにした。」

「それは… (code)。だがこれまで話してきた鍵とは根本的に違う。これまでの鍵が、ネメシスを”守る”ための鍵であったならば、七賢生に託された鍵は——ネメシスを”殺す”ための鍵。彼らが常日頃から身につけている”証”の中に隠された全部で七つのコード(seven codes)が、最悪の結果となった際ネメシスを無力化できる唯一の希望となる…。」

ギブスがまた、下を向いた。
だが今度は表情を緩めない。
面を上げ、じっと僕たちを見つめた。
目が合うのが怖くて、僕は思わず目を逸らした。

「頭の良い君たちであれば、きっと既に勘付いているだろう。私はエレンもフィクサーも赤子の頃からよく知っている。なのにこれだけ重要なことを隠し続け、そして事態の逼迫した今打ち明けねばならなくなったこと、どうか許して欲しい。単刀直入に言う、君たちこそ——、七賢生だ。間違った主によって暴走し、再び世界を核の危険に晒すかもしれないネメシスから…私たちがずっと命に変えて守り続けてきたネメシスから…微かなる人類の未来を守ってほしい。これが私から君たちに伝える、”頼み”だ。」

ギブスがそう告げると、小さな部屋は再び沈黙に覆われた。

ふん、とフィクサーが鼻を鳴らす。

「突然クーデターは阻止できないと言われ、その次は何かと思えば全責任を丸投げか。

ネメシスを無力化?ありえない。そもそも本当にクーデターは防げないのか?他にまだできることは?いきなりこんな重荷を背負わされるなんて、絶対に無理だ。

こんなの普通の文脈なら絶対にそうなる。——でもあんたには俺たちならそう言わないって確信があったんだな。だからこんな録画で十分だと。いや違う、そう言わせないようにこれまで俺たちを育て上げてきた…ということか。確かにおかしいよな。まだ小学生だった俺を、こんな世界的プロジェクトにまで参加させた。宙に上がってからだって…末端の技術者とはいえ完全に特別扱いされてるってのに、何もないわけがない。自分たちは天才だと思い上がって気がつかなかった俺たちがバカだったんだ。…そうだろ?エレン。」

雑らしい笑みを浮かべながら僕の方を見る。
どう返せばいいのかわからない。
笑えばいいのだろうか。
それとも泣けばいいのだろうか。
ただそんな感情的な僕をよそに、心の中のもう1人の僕は至って冷静に思考を巡らせていた。
自己嫌悪が全身を一周する。
こんな時に論理的思考など、まるで人間らしくないじゃないか。

「”証”って…これのことかな。」

僕は”左手(HANDY)”を右手で持ち上げた。
それはもはや自分の一部とは思えないくらい、ずっしりと重たく感じる。
思い当たる節があった。
僕たちは義手の手袋を外し、バッテリーカバーの内側を確認する。
そこには小さく、7桁の数字が刻まれていた。
…光の加減を調節してやっと浮かび上がってくるほどに薄く。

Code: 4447777

「たった7つの数字で…世界を救え、と。滅茶苦茶だな。」
フィクサーが静かに呟く。
本当にこんなものでクーデターから世界を守れるのだろうか。
クーデターは防げないのだろうか。
そしてそれはフィクサーの中で、もう解決してしまっていることなのだろうか。
だとしてもまだ僕の中では解決していない。
どれだけ重要な使命があったとしても、感情的な僕はそこに収まることなく騒ぎ続けた。
ふと何かの動きに目線が泳ぐ。
ギブスが、再び口を開こうと前を向いたのだ。

「君たちに、もう一つ打ち明けなければならないことがある。」

僕は彼をよく知っている。
彼はどんな現実に対しても、怯まず直視できる男だった。
人類の生死をかけた戦時で国の舵を取ることができたのも、そんな彼だからこそだ。
だがそれ故の冷酷さを、僕はよく知っている。
時に大切な人すら置き去りにして、感情すら蔑ろにして。
そうして最後に彼は…孤独を選ぶ。

——まだ、終わらない。

「私は何年も前から…心のどこかで勘付いていた。ヒトは本能的に感じ取るのだろう。…自分を産んだのは誰なのか。”親”は誰なのか。君たちはずっと…私にそれを問おうとしていた。でも、結局君たちは聞かなかった。勇気がなかったのか、自分の中で飲み込んでしまったのか。…でも私はどこかで救われた気になった。信頼を失うのが、怖かったのだ。でもこれはいつか、君たちも知っておかなければならない事実。全てを納得した上で、自分の道を選んで欲しい。それが私の願いだからこそ今、君たちへ告げようと思う。」

また全てがぐちゃぐちゃになった。
…だめだ。
言わないで欲しい。
言葉にならない言葉が喉元を突き刺す。
今のギブスは…止まらない。
彼が”する”と決めたことは起こってしまう。
そんな理不尽なまでの重力が、主観と客観を強引にねじ曲げる磁場が、僕の心を悉く縛り付けた。
もうそんなことは、とっくに頭の片隅で埃の中へ埋もれていたのだ。
今更掘り起こさないで欲しい。
十数年の時を経て露見する真実は———きっとどんな想像より禍々しく…惨たらしいものなのだから。

「君たちの生みの親は…いや。」

こんなところで聞かされるくらいだったら、あの時勇気を出して聞いておくんだった。
こんな無機質で、何事の意味さえも奪ってしまうような空間で知らされるくらいなら。
まだ穏やかでささやかな愛と日常が顔を覗かせているうちに…。
まだ僕たちが、気兼ねなく”親子”のように言葉を交わせていたうちに…。

強烈な重力は、決して僕を許さなかった。

「君たちに生みの親は—— 存在しない。



——————。



…そうだ。

実感と憧憬が思考を覆い隠す。

頭の中で、言葉が意味を持つより先に消えた。

中身のないふわふわした語感だけが、ずっと耳元で反響している。

哀れな水とタンパク質の塊は、ただ揺らめく煌びやかな輝きを見つめることしかできない。

「君たちは…人造人間(Designer baby)なんだ。」

——“人造人間”。

知っている。その言葉を、僕は知っている。
それは第三次世界大戦の直接的原因。
あの恐ろしい災禍を招いた、憎むべき全ての元凶。

"ふざけるな"

肝心な言葉が口を衝くより早く、瞬く間に脳裏へ過去の残像が浮かび上がる。
それは小学校の体力テストの一コマ。
それは1人で買い物をする4歳の僕を見て驚く大人たち。
それは街で見知らぬ親子とすれ違った際のギブスの表情。
それは毎度の健康診断で弾き出される原因不明な異常値。

ずっと…何かがおかしいと思っていた。
ひょっとしたら僕は、医者も気付かぬ特別な病に冒されているんじゃないか。
誰かに知られたら、僕は全てを奪われてしまうんじゃないか。
不自然に浮き出る力瘤を隠すため、夏でも長袖を着て学校に行った。
生まれつき肌が弱いと嘘をつき、心配する大人達に罪悪感を抱いた。

ありえない!
そう言いたかった。
でも、言えなかった。
心のどこかで、そうなのかもしれないとすら思っていた。
でも”常識”的な一線が、今日までそんな疑念を視界から隠した。
その隠れていた想いが、情景が、一目散に蓑から解き放たれたのだ。

もはや…そこに否定の余地など無かった。

「君たちがそのようにして生み出されたのは、後に与えられる七賢生としての役割に身体を最適化するためだった。たった1人で多くの情報を抱えるには、それ相応の処理能力が求められる。通常の人間では不十分だった。身体的な可動域も、通常の人間の装備では不満足だと判断され… 結果的に片腕がない状態へ遺伝子を操作し、そこへ義手を宛てがった。
でも私が君たちの面倒を見ていたのは、単に哀れみの思いがあったわけでも、将来の道具にするためでもない。私は本当に、君たちを自分の子供のように思っていた。もし仮に君たちが別の道を自ら望むようなことになれば、私はそれを尊重するつもりでもいた…。
わがままなことはわかっている。だがそれだけは…信じて欲しい。

——エレン、フィクサー。

私はこの使命を、心から信頼できる君たちだからこそ任せたい。
人種でも、因縁でも、政治でもなく、ただ純粋な心で平和を望む君たちに。

…言葉にならない感情が、きっと渦巻いていることだろう。
本当にすまなかった。
だがこの状況になった今、無防備になった人類を救えるのは君たちだけなんだ。

私は君たちのことを信じている。
そしてこれからも…ずっと愛しているよ。」

——“愛している”。
そんな言葉だけ残して… 鮮やかな光は、そして粒になって消えた。

その現象は、きっと何らかの終わりを示していた。

簡単な意味ではない。

でもそれが何かまで紡ぎ出すのは、もうこの期に及んで蛇足だった。

「どういう意味なんだ?なあ。あの男が言ってる事は、どういう意味なんだ?」

わからない。

そう言いたかった。
でもわかる。
内心僕は納得した。
これまでの全ての経験が、彼の言葉を裏付けた。
いっそ叫びたい。

この嘘つき!

そう言ってやりたい。
でもだめだ。
今大声をあげたら、言葉と共に何かが溢れ出してしまう。

「俺たちは…人間ではないのか?」
言葉を漏らすフィクサーの目から、光が消えていた。
どこかで羨ましくもあった。
「…ぼ、僕たちは人間だよ!ほら!」
へたくそなフォローだ。
僕は右手で彼の手を握る。
「触るなっ!」
彼は僕の手を強く弾いた。
そしてまた虚しそうな目で、その右手を見つめる。
「これが一番の証拠だろ!俺たちは戦争の…道具として作られた。そして中国を敵に回し…ひいては第三次大戦の引き金になった。あいつが言ってるのはそういうことなんだぞ!」

何も言い返せない。

「俺は…ずっと自分が恵まれてると思ってた。片腕がなくても…俺にはそれを乗り越えるだけの特別な力があると。合衆国大統領に認められ、俺は世界のために生きられるんだと。」

彼は低い声で笑う。
まるで喉をえぐるように笑う。

「さぞ滑稽だったろうな。すべては俺自身の力でも、意志でもなかった。勝手に大人達が作った筋書きの上を、操られていると気づきもしないまま満足げに歩いていただけだ。」

「…。」

「俺たちに罪を償えっていうのか?世界がああなった責任を、全て俺たちに背負えっていうのか?俺たちを作り出した罪には全て目を瞑って、”親”としての愛情を信用しろっていうのか?」

「…やるべきだ。」

「あ?」

「ギブスの…指示に従うべきだ。」

彼は一瞬で目つきが鋭くなった。

「…ふざけんなよ。」
「ううん…本気だよ。」

「お前、さっきの話聞いてなかったのか? あいつはずっと… 俺たちを騙してた。親であるという立場を利用した!それらしい正義を隠蓑にして、いつか自分が戦争を引き起こしたという事実を帳消しにするために!」

そうだ。
わかっている。
こんなの、“頼み”なんかじゃない。
彼は僕たちが今まで何を大切にして生きてきたのか、何のためなら命を賭けられるのか…彼は全て把握した上で言っているのだ。
…卑怯すぎるよ。
そう…あまりにずるくて、悔しい。

「なあエレン。俺たちは…機械じゃない。心がある。人間なんだ。悔しくないのか?ずっと人形(marionnette)みたいに利用されていたってことが…。人としての尊厳をぐちゃぐちゃにされたってことが!」

「わかってるよ、でも!」

「…でも?」

「それでも僕は…ギブスの言葉を信じたい。」

フィクサーは力無く僕から目を逸らした。
そしてがっくりと、その場で項垂れる。

「なんでだよ…。なんでお前はあいつのこと、そんな風に言えるんだよ…。」

“信じたい”。
嘘ではなかった。
彼と過ごした日々、僕の中で生き続ける彼の姿を、否定したくない。
でも多分それだけじゃなかった。

——もう、手遅れなのだ。

今更何を言ったって、"どうしようもない"と、頭が理解してしまった。
感情的だった僕は、ごくわずかな憧憬だけを残して力尽きた。
運命に抗うという体力も、意志も、尊厳も… 残っていない。
僕らはもう、全てを背負うしかないのだ。
従順でも、反抗でも、結局僕らは地獄に落ちる。
だからもはや、どうでも良かった。
やるべきとかやらないべきとか、もうどっちでも良かった。
だから…僕はフィクサーが羨ましいとさえ思った。

「俺はずっと自分の意思で自らの未来を決めてきたと思ってた。この手だって…。俺は全部自分の力で乗り越えてきたんだと、努力で抗えないものなどないと。それが俺にとっての…生きる意味で、——誇りだったのに。」

「俺には…もうわからないよ。俺は生きている。…生きているんだ。」

フィクサーは枯れた声でそう言うと、1人会議室から出て行った。
知らぬ間に鍵は外れていたらしい。
メイテックも、何も言わなかった。

僕は尋ねる。

「今後に関しては…どうすればいいですか。」
「以降の連絡は全て、HANDYへ直接お送りします。」

そりゃ…そうだよな。
どこか無駄な質問をする自分に呆れながら、でももうそんなことを感じることすらめんどくさくて、僕はとぼとぼ息苦しい空間から脱出する。
突然、涙が頬を伝った。
意味なんてない。
(おびただ)しい感情の山が、"考えるだけ無駄"という名のインデックスへ手際良く整理されていく。
それなのに、涙は止まらなかった。
どんどんどんどん、溢れては流れ、溢れては流れを繰り返す。
ぐちゃぐちゃになった視界の中で、僕はどこへ帰ったらいいのかわからなくなった。
これから僕は、どこへ帰ればいいのだろう。
ネメシスがなくなってしまったら、僕の居場所はどこになってしまうのだろう。
フィクサーやクリスは、これからどうするのだろう。
皆とはもう、離れ離れになってしまうのだろうか。
離れ離れになって、僕はどうやって生きていけばいい?

…生きる?

何のために?

一体誰として?

僕は… そもそも誰なんだ?

“エレン”は… ただの虚像だったじゃないか。

だったら何が本物なんだよ。

何が正しいんだよ。

——誰か僕に… 教えてよ。

おいあっちだ!!!

突然の叫び声に僕ははっとした。
右腕で乱暴に顔を拭って視界を整理する。
そういえば僕はあの部屋を出てから誰ともすれ違っていない。
気付いたらA棟の方まで来ていたが、普段ならここら辺は人がよく歩いているはずだ。
なのに誰もいなくて静かだったから、考え事が捗ってしまったらしい。
“あっち”は、どうやら僕のことではないようだ。
その声に続いて響く足音はどんどん遠ざかっている。
何の騒ぎだろう?
僕は少し早足になって、微かな人影を追う。

——!?

小さな廊下を抜けた先、A棟の動脈である環状線へ出ると喧騒が一気に度を増した。
そこには溢れんばかりの群衆。
誰もが一心不乱に、先にいる何かを見つめて叫んでいる。

「神の裁きを受けろこの裏切り者!」
「人でなし!」
「汚らわしい血を引く悪魔!」

まさか。
僕は一目散に群衆の元へと駆け寄る。
熱気を帯びた重苦しい肉体たちをかき分けて、僕はその先へと、彼らの見る何かへと、目指して突き進んだ。
僕の心が叫ぶ。

『杞憂であってくれ…!』

でも何に怯えているのかは、まだよくわからなかった。

どうやらクルーたちはバリケードのようなものにせき止められているらしい。
押しのけても押しのけても、うねりはこちらへと戻ってくる。
それでもどうにか潜り込むようにして大人たちの足元を抜けていくと———そこにあったのは数え切れないほどのメイテックたちだった。
ネメシス中からかき集めてきたのか、それは4,50体のメイテックたちが隊列をなして、血の気に溢れた群衆から何かを守っている。
何だ?
彼らが守っているのは、一体何だ?
やっとのことで人並みかき分け開けてきた視界。

そこに映ったのは、2機のメイテックと2人の人間だった。

1人はクリス。
僕の予感は、当たっていた。
やはり彼女だった。
下を向いているが、痩せこけた様子はない。
ようやく解放されたのだ。
彼女は無実。
やっと自由になった。

そう思った。

でもよくみると、彼女はまだ手錠をかけられている。
そしてまるで連行しているかのように2機のメイテックが彼女に張り付く。
とてもポジティブな光景には見えない。
そしてもう1人の人間。

——ギブスだ。

どうして?

“わざわざ足を運ぶと事が大きくなる”ってさっき言ってたのに…なんで今ここにいるの?

僕らと直接話すって選択肢は…なかったの?

あなたにとって僕らは…やっぱりその程度の存在なの?

次々と沸き起こる声を、僕は一旦全て飲み込んだ。
今この状況は、僕だけの問題じゃない。
僕の中に起こる声は、あとで僕だけの時間にゆっくり処理すればいい。
…冷静になろう。
そうだ。
もしクリスを解放するとして、何故ここまで大袈裟にやったのかを考えるべきだろう。
その答えが見つかれば、ギブスの意図も読めてくるはずだ。
何故?
…わからない。
でもそれが本当にわからないのか、わかりたくなくてわからないのか、それすらも判然としなかった。

そしてギブスを先頭にした隊列は、A棟とD棟を繋ぐ大広間へと辿り着く。
横だけでなく縦にも視野が開け、天井は吹き抜けになっている場所だ。
彼らは一体どこへ向かっているのか。
そんな事が頭によぎった時、突然事態は動いた。

「おい…なんだあれ?」

群衆の誰かがそう呟いた時、突如頭上から何かが降ってきたのだ。
あれは…?

——メイテッ…ク?

何が何だか分からぬうちに、ずしんと鈍くて重たい衝撃が足元を介して伝わる。

正体不明のそれはクリスの真左に着地した。
全ての人間が状況を飲み込めずに言葉を失っている。
乱入者の風貌は、まるでメイテックのそれだった。
だが唯一、右手のみ形状が違う。
激しく音を出しながら回転する何か…丸ノコだ。
そしてグッと右手を後ろに引くと、そのままそばにいたメイテックの頭部を叩き斬った。
クリスもそれに乗じて素早く反応し、縛られていない左足でもう1機のメイテックの胸部を思いっきり回し蹴りする。

早すぎる。何もかも。
そしてこうなってしまったら、きっともう誰にも止められない。

間も無く乱入者は丸ノコをクリスへ向ける。
そこへ彼女は両手を差し出し、あっという間に手錠を引き裂く。
そして今度は丸ノコを群衆へと向けた。
もうクリスを囲んでいたメイテックたちは皆床でのびている。
どよめき、焦り出す人々。
そうだ。あのロボットは、今まさにクリスが逃げ出す突破口を切り開こうというのだ。

でも現実は、そううまくいかない。
僕は、この事の顛末を、もう理解してしまった。

危機の迫る事態にはやる群衆とは対照的に、僕はずっとクリスではなく…ギブスを見つめていた。
一切目の色を変えず、ただ変化する状況を眺めるだけの彼を…じっと見つめていた。

彼はゆっくりと、腰に手をかける。
その瞬間、この空間は、僕とギブスとクリスの…3人だけになった。

彼らの目に僕は映っていない。
刹那、2人はお互いの目で何かを交わし合う。
そしてクリスは静かに…目を瞑った。

だめだあああああああっ!!!!!

彼はゆっくり腕を伸ばす。
音もなく、しなやかに。
——その銃口が彼女を捉える。

心臓が高鳴った。
必死に飛び出そうとした。
でも…もう間に合わない。
あらゆる時間が静止する。
彼女との思い出が、頭の中でこだまする。
きっと一生、この光景は忘れないだろう。
僕の心へ…負の記憶として重たい影を残し続ける。

——それは僕にとっていつかの”父親”が、優しく気丈でかけがえのない友と信じた女性を撃ち殺す瞬間なのだ。
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