9 嘘
文字数 6,141文字
すっかり閑散としてしまったフロアを引きずられるように歩く。
3階と2階を結ぶエスカレーターが、止まっていた。
きっと他にもあちこちでイレギュラーが起きているだろう。
それだけの混乱だった、というわけだ。
僕らは風通しの良い、吹き抜けになっているところまで出てきた。
さっきまでジメジメしていた空気が嘘のように清々しい。
まだ乾ききっていない汗が、穏やかな風に撫でられなんだか少し肌寒かった。
「おぉっと、随分騒がしくなってるな」
彼の視線の先には、青い何かがチカチカしている。
どうも刺激の強いその光は、きっとまたパトランプのものだろう。
セバスチャンが下に繋がるエスカレーターへ僕を引っ張ろうとするが、それに対して微弱な力で踏ん張る僕に怪訝な顔をする。
でも特に何かを聞くこともなく、そっと表情を和らげてから言った。
「大丈夫、面倒事にはならないさ。」
ショッピングモールのエントランスには、何重にも規制線が張られていた。
その手前にはなんかゴツゴツした警察官がうじゃうじゃいる。
この感じだと、もう全ての出入り口は封鎖されているだろう。
セバスチャンを信じてみるしかない。
すると中から歩いてくる僕らを目にした一人の警官が、咄嗟に動いた。
「Ne bougez pas!」
そう叫んだ後、僕らに拳銃を向けたのだ。
フランス語だ。
よく理解できずに狼狽えていると、
「そこを動くな!」
男は英語で言い直した。
「お、おいちょっと待ってくれ!俺たちは…」
「黙れ!」
物凄い血相で威嚇する男に、セバスチャンも怯む。
そして男に続くように、周りにいた警官達も僕らに向かって武器を構えた。
「…俺は君たちと同じ警察官だ!逃げ遅れたこの少年を助けに行っていた。本当だって。信じてくれよ!」
セバスチャンの言葉に、男は返す。
「なら、バッジを見せろ。ただし、ゆっくりだ。少しでも怪しい動きをしたら、あんたは一瞬で蜂の巣になる。わかったな。」
セバスチャンよりも若そうに見えるが、随分と高圧的な態度だ。
彼もそれに呆れたのか、ため息混じりに答える。
「…あぁ。わかったよ。」
セバスチャンはゆっくりを手を腰に回した。
サワサワ小さい布の擦れる音が聞こえる。
しばらく、その音が聞こえた。
そして彼は、動かなくなった。
ん?
「そうだった…」
聞き間違いかと思った。
ただいつまで経っても固まったまま動かない彼を見て、それは確信に変わった。
——無くしたな…こいつ。
そういえば駅ビルから奴が脱出する直前、Argosの示していた奴の位置情報が消えた。
僕が、奴は死んだと勘違いしたあれだ。
あの時かもしれない。
「どうした。早くバッジを出せ。」
男が急かしてくる。
このままじゃ間違いなく豚箱行きだ。
面倒事なんてレベルではない。
「お前達やっぱり…」
「なあ、一回おまえの上司と話をさせてくれないか!そうすればきっと…」
「交渉には乗らない。時間切れだ、こいつらを今すぐ…」
まさに万事休す。
いっそフランクフルトでコーヒーをご馳走になっていた方がマシだったかもしれない。
彼らは見る限りそう和やかに談笑できる人柄でもなさそうだ。
僕たちの周りを、今まさにぞろぞろと警官たちが取り囲み…
「ひょっとして…、おぉい!セブじゃないか!」
突然声がしたと思ったら、警官達をかき分けて何者かがこちらに近づいてくる。
その姿を見たセバスチャンは、パッと表情が明るくなった。
「お前…リッターか!」
セバスチャンたちのやり取りを見ていた周りの警官たちは、状況がよく分からなくなったのか一度元いた場所へ引き下がっていった。
そして"リッター"と呼ばれた男は、僕たちの目の前に現れると、未だ僕らに拳銃を向けているあの偉そうな奴へ声をかけた。
「おい、何してる。」
「いや、こいつらは容疑者で…」
彼はため息をついた。
「はぁ、容疑者と…な。」
リッターはこちらへ向き直る。
「感動の再会かと思ったら、酷い言われようじゃないか。」
「…ほんと、人気者は困っちゃうぜ。」
「ふん、お前、相変わらずだな。」
痺れを切らした奴が声を張り上げる。
「…隊長!」
「君、名前は。」
「はい。政府軍より特別機動隊へ配属となりました、ジグムント・ウォジニャック伍長です!」
政府軍…。
GRAの傀儡となった警察など、到底信用できない。だからずっと避けてきたというのに。
「ではウォジニャック君、モールの映像から実行犯とされている人間の容姿は。」
「はい、二名とも全身服装は黒。一人の推定身長は190cmほどで、痩せ型。もう一人は180cm前半、中肉中背と考えられます。」
うーん、とリッターは唸る。
「ここにいる二人とも、170cm無いんじゃないか?」
鼻で笑うリッターの言葉に対してセバスチャンが声を荒げた。
「おい馬鹿にするな。170はあるぞ。」
しかし、とジグムントは続ける。
「この男は自らを警察官と名乗っていますが、バッジを携行していません。実行犯ではないなら、嘘をつく必要はないはずです!」
「ほぉう…。」
するとリッターは腕のパッドを叩いた。きっと彼のグラスに情報が投影されているのだろう。
「なあリッター、俺は…」
「なるほど…。色々あったんだな。」
遅かったか、とか細い声が聞こえる。
セバスチャンの声だろうか。
「ウォジニャック君、ディジット警部は一身上の都合で2週間前から休職中だ。バッジがないのはそのせいってことだな。」
「お言葉ですが隊長、事件現場から現れた人間は原則全員容疑者として処理するべきです。」
「あぁ確かにそうかもな。ただ彼は…私の戦友なんだ。だから彼の身元は私が預かろう。」
「ですが!」
「…ウォジニャック君、もう話は終わった。」
リッターが少し語気を強めた。
ジグムントは大分腑に落ちないようだ。
しかし少しの間僕らを見つめてから、構えていた拳銃を下ろした。
集まっていた他の警官達も、この一部始終を見てか散り散りになって、結局モールの中へと消えていった。
——どうやら…終わったらしい。
「休暇中だってのに、騒がせてすまなかったな。」
僕らはリッターの持つ機動隊のトレーラーへと案内された。
「いいや、助かった。ありがとうリッター。」
「クラウスでいいって、何度も言わせるなよ。…怪我はないか?」
「ああ。運が良かったよ。」
「そうか…安心だ。」
リッターは僕に目をやる。
「その子は、我々で預かろうか。家族と逸れてしまったのなら…」
セバスチャンは僕に一瞥をくれた後、
「いや、そっちはそっちで忙しいだろ。俺がどうにかするよ。」
と返した。
「しかし随分と威勢の良い部下に恵まれたな。」
リッターは笑う。
「彼、移ってきたばかりなんだ。最近のお偉いさんは飼い犬に噛まれるのを恐れてか、軍の人間をどんどんこっちに回してる。」
クーデターの直後は新たなクーデターも起こりやすい。敏感になって当然と言えば当然だ。
「でも彼は軍上がりの割に、機動隊の俺たちを下に見たりしないし、最低限の礼儀はちゃんと弁 えてる。ただ少しばかり任務に忠実すぎるだけなんだ。大目に見てやってくれ。」
セバスチャンとリッターの談笑が続く中、僕は窓からモールを凝視していた。
間違いない。
——今回狙われたのは、僕だ。
まだ約束の日まで10日以上ある。
もし既にGRAが僕の居場所を突き止めていたのだとしたら…。
すると突然トレーラーの無線機から声がした。
「こちらアルファ3から本部へ、モール内で銃撃を受けた!一名負傷!応援を要請する!場所は…」
切迫した声にリッターが立ち上がる。
「どうやら仕事のようだ。会えてよかったよ、セブ。」
リッターの差し出した手を彼は握り返す。
「おう。気をつけてな。」
「…あぁ。君たちも。」
そう言うと、リッターはトレーラーを勢いよく飛び出していった。
「…どうだ。少しは落ち着いたか?」
顔を上げると、そこには湯気のたったマグカップを持つセバスチャンがいた。
彼の差し出したコーヒーを僕は黙って受け取る。
僕らはモールを去った後、ルクセンブルクの郊外にあるホテルへと移動した。
ナミュールに核が落ち、ショッピングセンターで九死に一生を得た。
…絵日記にするには情報量の多すぎる1日だ。
いっそこのまま何日もずっと眠ってしまいたい。
それができないことは、よくわかっていた。
セバスチャンは僕の向かい側のソファーに腰かけた。
猫舌なのか、彼は口先を尖らせ慎重にそれを冷ます。
コーヒーの香ばしく暖かな香りが、部屋の中を満たしていた。
「ホントはもっと美味しいやつを作ってあげたかったんだけどな。」
柔らかな熱が喉元から肝へと流れ落ちていく。
「これで…十分だ。」
心が落ち着いてきた。不思議な力だ。
「俺、”イギリス人は紅茶を飲む”みたいな偏見がずっと嫌いでな。」
「…?」
「いやさ、まあ間違っているとは言わないぞ?でも、なんか、そういう生まれだからって、そうするべきだって考えは、どうも嫌だったんだ。こっちの人間は、権利の話じゃうるさくなるってのに、文化のことになるとすぐ人種を持ち出す。」
突然始まった彼の話に当惑していると、それを察したのか彼は笑った。
「まあ、こんなん聴かされても困るよな。俺がこれまで生きてきて、こういう愚痴にまっすぐ共感してくれた人間はただ1人だけだった。そいつ以外は皆まさに今のお前みたいな、そんな顔をしたよ。」
「…そういうのは、数じゃない。たった1人いるだけでも、それは幸せなことだ。」
「お前、なんか年寄りみたいなこと言うんだな。」
彼は一瞬ニヤけてから、また言葉を続けた。
「その1人…彼女とは、何故か物凄く気が合った。物事の考え方だけじゃない。下らないジョークが大好きなところ、朝が苦手でいつも夜更かししてしまうところ、そしてコーヒーが大好きなところ…他にもたくさんだ。それで気づいた時には、夫婦になっていた。」
彼はわざとらしく付け足す。
「言い忘れたが、これは自慢話だ。」
そしてまた笑った。
「結婚したのは大戦の最中で、俺が戦地へ出向くことになる直前だった。いろんな人たちの反対を押し切って、俺たちは結婚したんだ。そして翌年、2人で待ち望んだ俺たちの娘が生まれた。俺は戦地でその知らせを聞いた。思ったよ。絶対に生きて帰ってやるって。彼女たちは俺の心を強くしてくれた。今の俺があるのは、家族のお陰なんだ。」
「……。」
「戦後無事に本土に戻ったら、そりゃあひどい有様だった。でも家族はみんな無事だった。嬉しかったし、最高だった。俺は親になったんだ。守るべき家族を、自分の命より大切な存在を手に入れた。でもな、いざ新生活が始まってみると、俺は心底驚かされたんだ。…何だと思う?」
「………?」
「俺の娘は、”紅茶派”だったんだよ。」
「…あぁ。」
「俺たちが根っからのコーヒー好きだったから、娘もそうなるものだと勝手に俺は思い込んでいた。でも実際は、彼女には彼女なりに思うことがあって、彼女自身の好むものがある。俺たちの一部を確かに受け継いでいるはずなのに…だ。あの時はしみじみ感じたよ、”遺伝子って不思議だな”ってね。」
「
「そう。だから俺はそれ以来決意したんだ。娘に認めてもらえるくらいの美味いコーヒーをこの手で作ってやる!って。…まあ作るって言っても、俺はバリスタじゃないから大したことはできない。でもどんな豆を使うのか、どれくらいそれを挽くのか、お湯をどれくらい温めるのか… 工夫できるところは沢山あるだろ。俺は何日も何日もかけて、娘の好みに合うような淹れ方を捜したんだ。」
「…皮肉だな。」
「ふん、お前もそういうこと言うのかよ。…あぁいろんな奴に言われたさ。紅茶がコーヒーに替わっただけで、結局お前は骨の髄から”イギリス人”だってな。」
「…ごめん。」
「いや別にいいんだ。自分の血筋が嫌いなわけじゃない。イギリス人として生まれてきたことには、俺だって誇りを持ってるんだ。…お前もそうだろ?」
「…結局娘さんには認めてもらえたのか。」
「うん?あぁ、よく聞いてくれた。…そうなんだよ。娘が8歳の時さ、忘れもしない休日の昼下がり。彼女が言ったんだ。”私もそれ飲んでみたい”ってね。もちろん、それだけじゃ認めてもらえたとは言えない。…実はその時彼女は”美味しい”って言ってくれなかったんだ。でも次の日の昼間、また彼女は俺に”飲みたい”と言ってくれた。…もう嬉しくてたまらなくてさぁ!急いで出そうと思ってわたわたしてたら、お湯で右手を火傷しちまって奥さんに笑われた。」
「…そうか。」
「家族っていうのは不思議なものだ。他人であって、他人じゃない。”同じ”だけど、
「…。」
「なあ。」
彼は、視線を僕の目に合わせた。
少しだけ、眉間にしわが寄った。
「お前も、お前の家族のこと、俺に聞かせてくれよ。」
僕は…何も答えなかった。
「…オリバー。」
「フランクフルトで君がした"家族"の話は全部、嘘… だよな。」
「…正直初めは、君をただ手癖の悪くて偉そうな子供だと思ってた。環境が環境だ。きっと家出でもしたんだろう。ちょっと火遊びして、ちょっと面白がってみたいだけなのかも、ってな。今時子供のハッキングなんてよく聞く話だ。好きなようにやらせて、適当なタイミングで本当の両親のもとへ連れて帰ろうって、そう思った。…いやまぁ、ちょっとは本当かも?って考えたけどな。もし仮に君の話が本当だったとしても、それはそれでちゃんと力になるつもりだった。」
「でも、ハイデルベルク・フランクフルトにおけるテロ、隣国への核攻撃、そしてショッピングセンターでの殺人未遂。前者3つとの関連性は分からないが、少なくとも君の周りで重大な事件が立て続けに4件も起こっている。しかもさっきに限っては、完全に、君が狙われていた。あの刺客はカマキリでもないし、解放戦線でもない。…彼らを見て確信したよ。何か君には他の事情があるって。移動に空路を一切使わず、支払いも現金のみ。警官からは逃げようとするし、そのハッキングも…。フランクフルトで君の話したことが全て嘘だとすれば、もはや俺には君のことが何もわからなくなった。ただ一つわかることは、さっきの銃撃が誰の思春期にも訪れるありふれた喧嘩の一コマではないってこと。君にはあの時、俺へあれだけややこしい嘘をつかなければならなかった理由がある…。」
陶器のガラスを擦る音が小さく聞こえる。
ふう、と息を吐き出す彼。
僕は思わず目を逸らした。
こうなるまでには、正直もっと時間がかかると思っていた。
適当に怪しまれたら逃げ出せばいい。
だって相手は警察官だ。
結局最後は、GRA側につくかもしれない。
いや、そうやって、言い訳しているようにも思った。
僕が、『エレン』という名で生きたあの日を、言葉として紡がないように。
忘れたいと願う過去のために生きる今の、その矛盾を、自認しないように。
「…オリバー、教えてくれ。」
「一体、君は何者なんだ。」
3階と2階を結ぶエスカレーターが、止まっていた。
きっと他にもあちこちでイレギュラーが起きているだろう。
それだけの混乱だった、というわけだ。
僕らは風通しの良い、吹き抜けになっているところまで出てきた。
さっきまでジメジメしていた空気が嘘のように清々しい。
まだ乾ききっていない汗が、穏やかな風に撫でられなんだか少し肌寒かった。
「おぉっと、随分騒がしくなってるな」
彼の視線の先には、青い何かがチカチカしている。
どうも刺激の強いその光は、きっとまたパトランプのものだろう。
セバスチャンが下に繋がるエスカレーターへ僕を引っ張ろうとするが、それに対して微弱な力で踏ん張る僕に怪訝な顔をする。
でも特に何かを聞くこともなく、そっと表情を和らげてから言った。
「大丈夫、面倒事にはならないさ。」
ショッピングモールのエントランスには、何重にも規制線が張られていた。
その手前にはなんかゴツゴツした警察官がうじゃうじゃいる。
この感じだと、もう全ての出入り口は封鎖されているだろう。
セバスチャンを信じてみるしかない。
すると中から歩いてくる僕らを目にした一人の警官が、咄嗟に動いた。
「Ne bougez pas!」
そう叫んだ後、僕らに拳銃を向けたのだ。
フランス語だ。
よく理解できずに狼狽えていると、
「そこを動くな!」
男は英語で言い直した。
「お、おいちょっと待ってくれ!俺たちは…」
「黙れ!」
物凄い血相で威嚇する男に、セバスチャンも怯む。
そして男に続くように、周りにいた警官達も僕らに向かって武器を構えた。
「…俺は君たちと同じ警察官だ!逃げ遅れたこの少年を助けに行っていた。本当だって。信じてくれよ!」
セバスチャンの言葉に、男は返す。
「なら、バッジを見せろ。ただし、ゆっくりだ。少しでも怪しい動きをしたら、あんたは一瞬で蜂の巣になる。わかったな。」
セバスチャンよりも若そうに見えるが、随分と高圧的な態度だ。
彼もそれに呆れたのか、ため息混じりに答える。
「…あぁ。わかったよ。」
セバスチャンはゆっくりを手を腰に回した。
サワサワ小さい布の擦れる音が聞こえる。
しばらく、その音が聞こえた。
そして彼は、動かなくなった。
ん?
「そうだった…」
聞き間違いかと思った。
ただいつまで経っても固まったまま動かない彼を見て、それは確信に変わった。
——無くしたな…こいつ。
そういえば駅ビルから奴が脱出する直前、Argosの示していた奴の位置情報が消えた。
僕が、奴は死んだと勘違いしたあれだ。
あの時かもしれない。
「どうした。早くバッジを出せ。」
男が急かしてくる。
このままじゃ間違いなく豚箱行きだ。
面倒事なんてレベルではない。
「お前達やっぱり…」
「なあ、一回おまえの上司と話をさせてくれないか!そうすればきっと…」
「交渉には乗らない。時間切れだ、こいつらを今すぐ…」
まさに万事休す。
いっそフランクフルトでコーヒーをご馳走になっていた方がマシだったかもしれない。
彼らは見る限りそう和やかに談笑できる人柄でもなさそうだ。
僕たちの周りを、今まさにぞろぞろと警官たちが取り囲み…
「ひょっとして…、おぉい!セブじゃないか!」
突然声がしたと思ったら、警官達をかき分けて何者かがこちらに近づいてくる。
その姿を見たセバスチャンは、パッと表情が明るくなった。
「お前…リッターか!」
セバスチャンたちのやり取りを見ていた周りの警官たちは、状況がよく分からなくなったのか一度元いた場所へ引き下がっていった。
そして"リッター"と呼ばれた男は、僕たちの目の前に現れると、未だ僕らに拳銃を向けているあの偉そうな奴へ声をかけた。
「おい、何してる。」
「いや、こいつらは容疑者で…」
彼はため息をついた。
「はぁ、容疑者と…な。」
リッターはこちらへ向き直る。
「感動の再会かと思ったら、酷い言われようじゃないか。」
「…ほんと、人気者は困っちゃうぜ。」
「ふん、お前、相変わらずだな。」
痺れを切らした奴が声を張り上げる。
「…隊長!」
「君、名前は。」
「はい。政府軍より特別機動隊へ配属となりました、ジグムント・ウォジニャック伍長です!」
政府軍…。
GRAの傀儡となった警察など、到底信用できない。だからずっと避けてきたというのに。
「ではウォジニャック君、モールの映像から実行犯とされている人間の容姿は。」
「はい、二名とも全身服装は黒。一人の推定身長は190cmほどで、痩せ型。もう一人は180cm前半、中肉中背と考えられます。」
うーん、とリッターは唸る。
「ここにいる二人とも、170cm無いんじゃないか?」
鼻で笑うリッターの言葉に対してセバスチャンが声を荒げた。
「おい馬鹿にするな。170はあるぞ。」
しかし、とジグムントは続ける。
「この男は自らを警察官と名乗っていますが、バッジを携行していません。実行犯ではないなら、嘘をつく必要はないはずです!」
「ほぉう…。」
するとリッターは腕のパッドを叩いた。きっと彼のグラスに情報が投影されているのだろう。
「なあリッター、俺は…」
「なるほど…。色々あったんだな。」
遅かったか、とか細い声が聞こえる。
セバスチャンの声だろうか。
「ウォジニャック君、ディジット警部は一身上の都合で2週間前から休職中だ。バッジがないのはそのせいってことだな。」
「お言葉ですが隊長、事件現場から現れた人間は原則全員容疑者として処理するべきです。」
「あぁ確かにそうかもな。ただ彼は…私の戦友なんだ。だから彼の身元は私が預かろう。」
「ですが!」
「…ウォジニャック君、もう話は終わった。」
リッターが少し語気を強めた。
ジグムントは大分腑に落ちないようだ。
しかし少しの間僕らを見つめてから、構えていた拳銃を下ろした。
集まっていた他の警官達も、この一部始終を見てか散り散りになって、結局モールの中へと消えていった。
——どうやら…終わったらしい。
「休暇中だってのに、騒がせてすまなかったな。」
僕らはリッターの持つ機動隊のトレーラーへと案内された。
「いいや、助かった。ありがとうリッター。」
「クラウスでいいって、何度も言わせるなよ。…怪我はないか?」
「ああ。運が良かったよ。」
「そうか…安心だ。」
リッターは僕に目をやる。
「その子は、我々で預かろうか。家族と逸れてしまったのなら…」
セバスチャンは僕に一瞥をくれた後、
「いや、そっちはそっちで忙しいだろ。俺がどうにかするよ。」
と返した。
「しかし随分と威勢の良い部下に恵まれたな。」
リッターは笑う。
「彼、移ってきたばかりなんだ。最近のお偉いさんは飼い犬に噛まれるのを恐れてか、軍の人間をどんどんこっちに回してる。」
クーデターの直後は新たなクーデターも起こりやすい。敏感になって当然と言えば当然だ。
「でも彼は軍上がりの割に、機動隊の俺たちを下に見たりしないし、最低限の礼儀はちゃんと
セバスチャンとリッターの談笑が続く中、僕は窓からモールを凝視していた。
間違いない。
——今回狙われたのは、僕だ。
まだ約束の日まで10日以上ある。
もし既にGRAが僕の居場所を突き止めていたのだとしたら…。
すると突然トレーラーの無線機から声がした。
「こちらアルファ3から本部へ、モール内で銃撃を受けた!一名負傷!応援を要請する!場所は…」
切迫した声にリッターが立ち上がる。
「どうやら仕事のようだ。会えてよかったよ、セブ。」
リッターの差し出した手を彼は握り返す。
「おう。気をつけてな。」
「…あぁ。君たちも。」
そう言うと、リッターはトレーラーを勢いよく飛び出していった。
「…どうだ。少しは落ち着いたか?」
顔を上げると、そこには湯気のたったマグカップを持つセバスチャンがいた。
彼の差し出したコーヒーを僕は黙って受け取る。
僕らはモールを去った後、ルクセンブルクの郊外にあるホテルへと移動した。
ナミュールに核が落ち、ショッピングセンターで九死に一生を得た。
…絵日記にするには情報量の多すぎる1日だ。
いっそこのまま何日もずっと眠ってしまいたい。
それができないことは、よくわかっていた。
セバスチャンは僕の向かい側のソファーに腰かけた。
猫舌なのか、彼は口先を尖らせ慎重にそれを冷ます。
コーヒーの香ばしく暖かな香りが、部屋の中を満たしていた。
「ホントはもっと美味しいやつを作ってあげたかったんだけどな。」
柔らかな熱が喉元から肝へと流れ落ちていく。
「これで…十分だ。」
心が落ち着いてきた。不思議な力だ。
「俺、”イギリス人は紅茶を飲む”みたいな偏見がずっと嫌いでな。」
「…?」
「いやさ、まあ間違っているとは言わないぞ?でも、なんか、そういう生まれだからって、そうするべきだって考えは、どうも嫌だったんだ。こっちの人間は、権利の話じゃうるさくなるってのに、文化のことになるとすぐ人種を持ち出す。」
突然始まった彼の話に当惑していると、それを察したのか彼は笑った。
「まあ、こんなん聴かされても困るよな。俺がこれまで生きてきて、こういう愚痴にまっすぐ共感してくれた人間はただ1人だけだった。そいつ以外は皆まさに今のお前みたいな、そんな顔をしたよ。」
「…そういうのは、数じゃない。たった1人いるだけでも、それは幸せなことだ。」
「お前、なんか年寄りみたいなこと言うんだな。」
彼は一瞬ニヤけてから、また言葉を続けた。
「その1人…彼女とは、何故か物凄く気が合った。物事の考え方だけじゃない。下らないジョークが大好きなところ、朝が苦手でいつも夜更かししてしまうところ、そしてコーヒーが大好きなところ…他にもたくさんだ。それで気づいた時には、夫婦になっていた。」
彼はわざとらしく付け足す。
「言い忘れたが、これは自慢話だ。」
そしてまた笑った。
「結婚したのは大戦の最中で、俺が戦地へ出向くことになる直前だった。いろんな人たちの反対を押し切って、俺たちは結婚したんだ。そして翌年、2人で待ち望んだ俺たちの娘が生まれた。俺は戦地でその知らせを聞いた。思ったよ。絶対に生きて帰ってやるって。彼女たちは俺の心を強くしてくれた。今の俺があるのは、家族のお陰なんだ。」
「……。」
「戦後無事に本土に戻ったら、そりゃあひどい有様だった。でも家族はみんな無事だった。嬉しかったし、最高だった。俺は親になったんだ。守るべき家族を、自分の命より大切な存在を手に入れた。でもな、いざ新生活が始まってみると、俺は心底驚かされたんだ。…何だと思う?」
「………?」
「俺の娘は、”紅茶派”だったんだよ。」
「…あぁ。」
「俺たちが根っからのコーヒー好きだったから、娘もそうなるものだと勝手に俺は思い込んでいた。でも実際は、彼女には彼女なりに思うことがあって、彼女自身の好むものがある。俺たちの一部を確かに受け継いでいるはずなのに…だ。あの時はしみじみ感じたよ、”遺伝子って不思議だな”ってね。」
「
遺伝子
…か。」「そう。だから俺はそれ以来決意したんだ。娘に認めてもらえるくらいの美味いコーヒーをこの手で作ってやる!って。…まあ作るって言っても、俺はバリスタじゃないから大したことはできない。でもどんな豆を使うのか、どれくらいそれを挽くのか、お湯をどれくらい温めるのか… 工夫できるところは沢山あるだろ。俺は何日も何日もかけて、娘の好みに合うような淹れ方を捜したんだ。」
「…皮肉だな。」
「ふん、お前もそういうこと言うのかよ。…あぁいろんな奴に言われたさ。紅茶がコーヒーに替わっただけで、結局お前は骨の髄から”イギリス人”だってな。」
「…ごめん。」
「いや別にいいんだ。自分の血筋が嫌いなわけじゃない。イギリス人として生まれてきたことには、俺だって誇りを持ってるんだ。…お前もそうだろ?」
「…結局娘さんには認めてもらえたのか。」
「うん?あぁ、よく聞いてくれた。…そうなんだよ。娘が8歳の時さ、忘れもしない休日の昼下がり。彼女が言ったんだ。”私もそれ飲んでみたい”ってね。もちろん、それだけじゃ認めてもらえたとは言えない。…実はその時彼女は”美味しい”って言ってくれなかったんだ。でも次の日の昼間、また彼女は俺に”飲みたい”と言ってくれた。…もう嬉しくてたまらなくてさぁ!急いで出そうと思ってわたわたしてたら、お湯で右手を火傷しちまって奥さんに笑われた。」
「…そうか。」
「家族っていうのは不思議なものだ。他人であって、他人じゃない。”同じ”だけど、
同じ
じゃないんだ。結局は人間同士、わかり合うためには努力しなきゃいけない。きっと俺と奥さんも、知らない間にお互いが努力していたんだろう。”運命”も、”愛”も、そんなものは何も解決してくれない。言い訳にもならない。でも逆を言えば、努力すればいつか気づいてもらえる時が来る。それを、娘は教えてくれたんだ。」「…。」
「なあ。」
彼は、視線を僕の目に合わせた。
少しだけ、眉間にしわが寄った。
「お前も、お前の家族のこと、俺に聞かせてくれよ。」
僕は…何も答えなかった。
「…オリバー。」
「フランクフルトで君がした"家族"の話は全部、嘘… だよな。」
「…正直初めは、君をただ手癖の悪くて偉そうな子供だと思ってた。環境が環境だ。きっと家出でもしたんだろう。ちょっと火遊びして、ちょっと面白がってみたいだけなのかも、ってな。今時子供のハッキングなんてよく聞く話だ。好きなようにやらせて、適当なタイミングで本当の両親のもとへ連れて帰ろうって、そう思った。…いやまぁ、ちょっとは本当かも?って考えたけどな。もし仮に君の話が本当だったとしても、それはそれでちゃんと力になるつもりだった。」
「でも、ハイデルベルク・フランクフルトにおけるテロ、隣国への核攻撃、そしてショッピングセンターでの殺人未遂。前者3つとの関連性は分からないが、少なくとも君の周りで重大な事件が立て続けに4件も起こっている。しかもさっきに限っては、完全に、君が狙われていた。あの刺客はカマキリでもないし、解放戦線でもない。…彼らを見て確信したよ。何か君には他の事情があるって。移動に空路を一切使わず、支払いも現金のみ。警官からは逃げようとするし、そのハッキングも…。フランクフルトで君の話したことが全て嘘だとすれば、もはや俺には君のことが何もわからなくなった。ただ一つわかることは、さっきの銃撃が誰の思春期にも訪れるありふれた喧嘩の一コマではないってこと。君にはあの時、俺へあれだけややこしい嘘をつかなければならなかった理由がある…。」
陶器のガラスを擦る音が小さく聞こえる。
ふう、と息を吐き出す彼。
僕は思わず目を逸らした。
こうなるまでには、正直もっと時間がかかると思っていた。
適当に怪しまれたら逃げ出せばいい。
だって相手は警察官だ。
結局最後は、GRA側につくかもしれない。
いや、そうやって、言い訳しているようにも思った。
僕が、『エレン』という名で生きたあの日を、言葉として紡がないように。
忘れたいと願う過去のために生きる今の、その矛盾を、自認しないように。
「…オリバー、教えてくれ。」
「一体、君は何者なんだ。」