18s 走馬灯の如く

文字数 17,045文字

虚構と真実が混ざり合い、果てに現実になろうとしている。
そこに俺の居場所はあるのだろうか。
仮にあるとしたら、俺は新たな"真実"へアップデートされてしまうのだろうか。
そんな俺は、果たして本当に俺と言えるのだろうか。
腐敗したこの世界の一部として、何もかもやり直せてしまうのだろうか。
俺は許せなかった。
わかっている。
死の果てにあるのは虚構だけだ。
だがそれを分かっていてもなお、色を失ったこの世界を、2人のいないこの世界を俺は認められなかった。
そして己の正義すら失った俺自身も、許せなかった。
もうすっかり、疲れ果ててしまったのだ。
こんな穢らわしい世界、これ以上彼女達に見せられない。
だから———。

舗装されていない砂利道を走りながら、俺は右手に残る感覚をどうにか思考の外へ追い出そうとする。
俺は何故、オリバーを撃つことができたのだろう。
彼の左腕が義手であると知っていたから?
それとも俺は、自分より弱い立場の人間しか狙えないような男なのか?

…情け無い。
よくもこんな人間が今日まで生きてこられたものだ。
今…もしエリーなら、俺にどんな言葉をかけるだろう。
彼女の言葉が聞きたい。
強くこみあげる悲しみと、怒りと、虚しさと。
そうやってまた生産性のない円環へ迷い込むのだ。

『あなた自身が信じることを、私も信じる。』

押し入りの現場は2階建てのリサイクル店だった。
いざ近づいてみると案外大きく感じる。
脇にはセダンが一台雑に止められていた。
これに乗ってきたのだろう。
俺は砂利で足音を立てないよう、慎重に近づいていく。

『こうやって一緒に帰るの、久しぶりだよね』

再び耳をかすめた彼女の声に、俺は狼狽する。
ふとした時、突然蘇るのだ。
それは実体のない無垢な幻。
救いではない。
呪いだ。
戒めだ。
あの瞬間から、ずっと。

*************************************************

——今から約2ヶ月前、俺はGRA直属の特殊部隊にいた。

「黒猫の寝返り」と呼ばれるクーデター直後、WPAから実権を奪ったGRAは荒れ狂う秩序をただちに整理するべく少数精鋭部隊を編成した。
彼らの”攻撃対象”は、当局の方針へ歯向かう者全て。
そんな無差別で残虐な攻撃方法から、世界からは黒蟷螂(BlackMantis)と呼ばれ恐れられていた。
そしてある日俺は英国籍軍脱隊の辞令と共に、その黒蟷螂への招集令状を受け取ることになる。
当然強硬的な独裁統治を進めるGRA軍部相手に、与えられた命令を拒否するだなんて選択肢はなかった。

…普段から、俺はあまり仕事の話をしなかった。
社会に出てからずっとロンドンの市民を守る警察官として働き、世界が不安定になってからは国そのものを守る軍人となった。
血生臭い事も少なくない。
時に褒められない事だってやる。
家庭へまでそんなことを持ち込みたくなかった。
彼女たちには、世界の美しい面だけを見せてあげたかった。

だから俺は、所属が変わったことを家族にちゃんと言わなかった。
でも妻は…エリーは、多分何か気づいていたのだと思う。
あの夜淹れたコーヒーの味の変化に、エリーは何も言わなかった。
いつもだったら聞いてくるのだ。
俺がこだわっているところは、俺が聞かれたがりなことを見越して必ず質問してくれる。
でもあの日は、何も言わなかった。
あの日味が違ったのは、動揺して分量を間違えていたからだ。
そしてきっと彼女はそのことを知っていた。
バカなのは、俺だけだったのだ。

暗がりへ沈んだ裏路地には、穏やかで涼しげな風が吹き抜けている。
店の外に見張は裏口のセダンに1人だけ。
残りは全員正面のガラス扉を割って突入したらしい。
遠くで灯る小さな街頭の光を、砕け散ったガラスが集め虹色に返していた。
だが決して美しくはない。
…野蛮な輝き。

俺の移籍後初任務は、反体制派集団が占拠したとみられる施設の強襲作戦だった。
当時後発隊で進軍をかけた俺は、突入前そこかしこで砕けたガラス片を目にしていた。
…壮絶な撃ち合いがあったのかもしれない。
身構えながらいざ施設内へ踏み込んだ俺は、刹那言葉を失うことになる。
その場所は、単なる弁護士事務所だったのだ。
そこには極端な政治思想を訴える張り紙も、大量殺傷兵器も、もはや9mm弾の一発すらない。
あの床に散らばった残骸と紅点は、決して撃ち合いによって生まれたものではなかった。
一方的に、撃ったのだ。
俺はあの時、自分がこれから何に加担することになるのかを思い知った。

その晩、俺は家で何も手につかなくなって、普段分担していた家事をエリーに任せた。
もう今日は早く眠ってしまいたい。
そうふと目を落とした先は、居間のテーブル。
薄くてひらひらとした紙の上には、まるで絹のように美しい曲線が左から右へ流れている。

NAME:Layla Digit

それはレイラが学校で書いた作文だった。
俺も一応娘を愛する1人の父親だ。
理性よりも先に感情がその文字を追う。
だから不意の出来事だった。
俺は、ある一言へ釘付けにされる。

「パパは私のヒーローです。」

自責で胸が張り裂けそうだった。
まるで娘の紡ぐ美しい文字たちが、相対的に世界の醜さを浮かび上がらせているようだった。
耐えきれなくて、俺は紙を裏返しにして戻す。
今、娘が寝ていて本当に良かったと思った。
俺はこれから一体どう彼女の目を見たらいい?
寝床に潜り込んだ後も、俺はそんな問いの中で夜を貪った。

翌日、弁護士事務所の掃討作戦に参加した隊員1名が自殺した。
上官はまるで天気の話をするかようにそれを報告し、その後次の作戦に関する指示を通達した。
簡単なブリーフィング後、隊員たちは皆散り散りに持ち場へと向かう。
俺は動かなかった。
理由は単純だ。
…そこに名前がなかったから。
心の底からゾッとした。
背信的な思想を見抜かれているのかと思った。
もしそうであるなら、せめて殺すのは俺だけにしてくれ。
家族だけは、巻き込まないで欲しい。
心からそう思った。
奥から上官がこちらへ歩いてくる。
“ついてこい”
たったその一言で、俺の体はまるで磁力に引かれているかの如く動き出す。
通されたのは、地下の監獄。
血だらけの肉塊…?
焦点が合うまで、あの時の弁護士だとはわからなかった。
そうか…。
俺は自分の役割を悟る。
ついに、この俺も一線を超えるのだ。

俺はこれ以来、全く家に帰らなくなった。
家への帰り方が分からなくなった。
一体どんな顔で微笑み、一体どんな愛を口にしていたのだろう。
その全てが薄っぺらく見えた。
俺は家族を守るために、目の前の人間を拷問している。
…大層ご立派な愛の形だ。
そう心で呟きながら、俺は彼を殴った。

「キ…ミ…。」

どれくらいだっただろうか。
1週間程経って、ついに男が呻き声を上げた。
俺は手を止める。
「こんなこと… やめろ…。君だっ…て…、迷っているだろう…。」
俺は彼の目を見つめた。
全く、眼力は変わらない。
だから何を考えているのかわからなかった。
この期に及んで俺を試しているのだろうか。
「君は…これまで出会った軍人とは…違うはずだ。頼む…」

「——エスメラルダ・マイルズ。」
俺の一言に初めて目の色を変えた。
「…エスメラルダは2ヶ月前に死んだ。…妻と一緒に。」

「あんたの娘だな。」

「そうだ… お前が…、お前達が殺したんだ!娘も、妻も…遺体すら…宙に捨てられて…!」

男が初めて俺に叫んだ。
引っ叩かれても何も言わなかったのに、彼は家族を思い出し鼻をすすった。
俺は手元から一枚の写真を彼に見える場所へ置く。

「じゃあ、これは誰だ。」

男は左目を剥き出すかのように写真を見つめた。
右目は爛れて開かなくなっている。
でもそんなこと彼にはもう、きっとどうでもいいだろう。

「あんたの娘は、今も俺の仲間が見張ってる。一本電話をかければ、すぐにでもお母さんのもとへ行けるだろう。別に俺は、あんたの娘がどうやって死を偽装したかになど微塵も興味がない。だがいいか、家族の命を賭けているのはあんただけじゃない。…疑わしいなら試してみるか?」

「………。」

「もう一度だけ言う。…PatchLockerのキーを言えっ!」

「………。」

「そうか。わかった。」

俺は監獄の固定電話を手に取った。

「そんなこと…できるわけがない。仮に家族がいるなら…人間としての心があるなら…」

電話が繋がる。

「マイルズの娘は?」

——いつでも殺れる。

「そうか。我々がやったと悟られないようにしろ。距離は300m以遠からだ。」

——それは攻撃の許可か?

俺は男を一瞥する。

「…射殺を許可する。」

「待て!待ってくれ!話す、全て話すからやめてくれ!」

「待て、攻撃中止。待機しろ。」

——中止了解。待機する。

俺は電話を切った。
押収した端末を男の元へ放り投げる。
「入力するんだ。」

「…条件がある。」

「何?自分の立場がわかっていないようだな。」

「いや違う!…これはお互いのためだ。」

「お互い?」
俺は男を睨みつけた。
一緒にされたくない。
その感情が矛盾したものであることに気づくまで、暫くの時間を要した。

「…どういう意味だ。」

「君は…自分の任務を果たした。でも私は…ここにいたら殺される。でもそんなの無益な人殺しだ。君だって…望まないだろ?家族がいるなら…人の子の…親なら…。」

「…俺にどうして欲しい。」

「私をここから逃してくれ。」

「…正気じゃない。」

「私を拷問中に…死んだことにしろ。その後君が…外に直接運び出してくれ。」

「どう死を偽装する?」

「それは…君が考えろ。準備ができるまで端末に…触る気はない。」

「娘を引き換えにしてもか?」

「君に…そこまでできるとは思えない。少し前と比べれば…口を割らせる条件は緩くなった…はずだ。己の正義があるのだろう?ふん、やはり君は…他の軍人とは違う。決定的に…な。」

俺は錆びついた錠前を手から離し獄を後にする。
危ない橋を、渡らなければならない。
それは今までと比べ物にならないくらいの一本道だ。
でもどこか救われた気がした。
正直元々少女を殺す気なんてなかった。
だがあのまま何も起こらなければ、何らかの手を打たなければならなくなる。
そうならずに済んだことへ、俺は安堵した。

オフィスに戻るとそこには誰もいなかった。
テロ警戒レベルが引き上げられたからだ。
技術部は通信室へ、実働部隊は現場へ出ている。
俺は人のいない机間を歩き、まっすぐ自殺した隊員のデスクに向かった。
人間観察が得意な俺は、他人の机のどこに何があるかを大抵知っている。
…二段目の引き出しだ。
俺は彼のIDカードを抜き取った。
死んだのが直近であれば、また権限は残っているだろう。
俺は体の向きを変え医療室へと走る。
長居してはいけないからだ。
この施設内部の監視カメラは、データ容量を抑えるため15秒おきに静止画を撮影するいわゆる”旧型”。
故に切り替わるタイミングを知っていれば、理論上記録から逃れられる…はずだ。
人目を避けつつ駆け抜けた先…そして俺はどうにかそれらしき場所へ辿り着く。
これまで医療室へ入ったことはない。
…15秒間、出たとこ勝負だ。
そして手首で動く古時計の秒針が、動くべき瞬間を告げた。
俺は素早くカードをリーダーに切る。
小さな電子音に続いて、ゆったりとその扉が開いた。
瞬時に灯る鋭利な照明が、白く無機質なタイルに反射して俺の眼球を刺す。
だが怯んでいる時間はない。
一般的に神経系の薬剤は、誤用を防ぐ為鍵がかかっていたり二層構造をした入れ物に収納される。
入室してすぐ右奥、2枚扉のキャビネットを見つけた俺は貪るように扉を開いた。
この辺りの薬剤は拷問における使用頻度が高く、管理が杜撰なことが多い。
多分に漏れず運良く鍵はかけられていないようだった。
“ブロモゾール”
お目当ての名前を身につけた注射器を2本右手に掴み、その2枚扉を元に戻す。
時計を確認する余裕はない。
俺は輝く光の上を滑るように外へ、そして再びカードを切る。
…全てあっという間の出来事だった。
だがまだ全て終わっていない。
緊張で上がった息を刹那整え、俺はあの獄へと走る。

「…早かったじゃないか。」

男の爛れた口元にしわが寄った。

「時間がない。やるなら今だ、腕を出せ。」
「…これが正しく作用する根拠は?」
「今更身体の心配か。どうせ死ぬ身だろ、俺を信じるしかない。」
「…そうだな。」

差し出された左腕の静脈へ、細長い針が沈み込む。
痛みからか、刹那顔を歪めた。

「…君、看護師にはなれないな。」
「3分も経てば効き目が出る。さあ早くコードを打て。」
「…打たないと言ったら?」
「その勇気があるなら好きにしろ。」
俺の言葉に軽く微笑み、男は右手をキーボードに滑らせる。
「フラグメントの中身はなんだ。」
「ふん、自分で解析するんだな。それが君たちの仕事だ。」
そう言い捨てて端末を俺へ放り投げた。
「…まあ、いい。これからの段取りを説明する。この施設で出た遺体は、搬送用ロボットによって外部の火葬場へと移される。だから確実に死を偽らなければならないのは施設内を移動する今から30分間だ。そこから先はコンテナに格納されるから、仮に動いたとしても問題はない。今投与したのはその丁度30分ぶんだ。効き目が出ている間は心拍数が落ち呼吸が弱くなる。監察官も死体だと思って確認するから気づかれる心配はないだろう。だがもし早く目が覚めてしまったら、その時は用心するんだ。ブロモゾールは少量でも体から抜けるのに少し時間がかかる。起き上がって逃げようとしても足がもつれるだけで意味がない。わかったな。」
「それで…どうやって脱出する?」
「今から1時間後にお前を乗せた車両を止めて時間を稼ぐ。その間にこれを自分に打て。」
俺はビニールに入った注射器を一本渡した。
「…これは?」
「ブロモゾール用に調整されたアドレナリンだ。その囚人服には内ポケットがある。そこにしまっておけ。」
「もし…見つかったら?」
「その時は運の尽きだな。…俺もお前もおしまいだ。」
「ふっ…面白い。」
「時間がない。今からお前を何発か強めに殴る。わかりやすい外傷が必要だ、頬骨の数本くらいは諦めろ。」
「…好きに…すればいい。」

「また後で会おう。…いくぞ。」


馬鹿げた話だ。
どう考えてもさっきまで遠慮なく殴り続けていた相手へかける言葉ではない。
…俺は、脆弱だった。
自分自身の信じる”正しさ”を見失い、他人の謳う”正しさ”に身を委ねていた。
そして自責の念に駆られているように思い込みながら、どこかで全て人のせいにしていた。
だから1時間後…目の前で男を乗せた車両が吹き飛ばされた時、俺はただその光景を呆然と見つめることしかできなかった。
——果てしない無力感。
俺は何のために警察官になった?
何のために政府の要請を引き受けた?
俺は家族を守りたかったんじゃないのか?
罪のない人の命を、救いたかったんじゃないのか?
今の俺は、ただ周りの言葉に流されているだけだった。
どうしたらいいのかもわからず中途半端に、そうして無責任なまま…俺は結局人殺しだ。
妻と娘も…無事では済まないかもしれない。
めらめらとした陽炎に飲まれた強化スチールの断片が、そんな俺の視界を一層歪めていた。

——残念だよ、大尉。

不意に俺の耳小骨が振動する。
まるで死神の声のように聞こえた。

——君の行動は衛星で監視している。

——逃げようと思わず、自分の足で戻ってこい。

——もし逃げたりしたら、そのツケを払うのは…

——君の愛する家族だということを忘れるな。


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もう日が落ちてすっかり暗くなった。
そもそもこの辺りにはあまり人が住んでいないのだろう。
銃声がしても、怒鳴り声や叫び声がしても、他の誰かがざわつくような気配がない。
…だからこそ、今この店の人々を救えるのはきっと俺だけなのだ。
ホルスターからゆっくり拳銃を引き抜き、姿勢を低くしたまま店内へと忍び込む。
正直ガラスの飛び散った入り口から入るのは得策ではない。
あまりに射線が通りやすいし、ガラスを踏んで音を立てる危険もあるからだ。
だが俺の目的はあくまで、店の人々を直接助けることではなく、彼らが逃げ出せる時間稼ぎをすること。

最終的に彼らが生き残れるかどうか、それは彼ら自身の問題だ。

店内は二階建て、中心が吹き抜けになっていた。
屈んでいるのでよく見えないが、吹き抜けの天井にシャンデリアに似た派手なガラスの装飾が輝いているようだ。
眩しい光に耐え目を凝らすと、2階の手すりに人影が見える。
おそらく見張りだろう。
そうなってくると下手に1階で目立つ動きはできない。
いずれにせよかなり早い段階で撃ち合いになる。

…だったらいっそもう前へ出てしまおうか。

そんな邪な思いが脳裏をよぎった。
だめだ。
そんな死に方じゃ妻と娘に合わせる顔がない。
まずは店の人々の状況を確認するのだ。
彼らが手錠などで縛られているのか、それとも見張りがいるだけなのか、それとも既に亡くなっているのか。
せめてそれくらいは把握しなければ意味のある行動が取れない。
俺はキャスターのついた洗濯機に身を隠しながら、ほんの少しずつ店の奥へと進んだ。
流石にこれだけ物が多ければ、小さな洗濯機一つの位置なんて上からでも覚えていられないだろう。

「non! non! Lâche-moi!」

突然、甲高い叫び声が広い空間に響き渡った。
出口から反対側のさらに奥からだ。
女性…というより女の子の声に近い。
嫌な予感がした。
声がする方向には、大きな衣装箪笥があって俺の視界を遮っている。
きっと立ち上がれば様子を確認できるだろうが、当然論外だ。
だらだら隠れている余裕はない。
俺は洗濯機を諦めて、見張りの目を盗み商品の影から影へと素早く飛び移る。
さらに男の声が二種類、混ざり合うかのように聞こえてきた。
全ての声が、段々と大きくなっていく。
そして俺は衣装箪笥の脇から、そっとその先を覗いた。
ざっと6人が目に入る。
そのうち2人は見張りだろう。
武器を持つ者は全員覆面をしているから、比較的加害者かどうかの区別は容易い。
ただ唯一見える範囲で3人だけ、覆面をしていなかった。
2人は30代-40代の男女。
そしてもう1人は、小さな女の子だ。
振る舞いから見て、彼らが親子なのは一目でわかった。
だが俺を釘付けにしたのはそこじゃない。
1人の男(やたら口数が多いところを見ると、リーダー格だろう)だ。
奴が武器を向ける先は…小さな女の子。
それも威嚇ではない。
安全装置が外れている。
きっと殺すつもりなのだ。
いやもしかしたら、それだけでは済まないかもしれない。
両親の無言の訴えが、犯人たちを貫き俺の胸へと刺さる。
…子供を手にかけるなんて。

——子供を。

『パパっ!』

稲光が脳天を走る。
うっかり手をついて花瓶を倒しそうになった。
床に商品を置くのはやめたほうがいい。
いくらリサイクル店だとしても、1人としてそれを手に取る客を見たことがないからだ。

『パパっ…!助けてっ…!!パパ…!』

右手の人差し指が凍りついた。
他のことを考えようとしても、もうその引力には敵わない。
鼓動が速くなる。
俺はあの時からずっと霧深い暗闇に足を取られ続けてきた。
多分もう逃れることはできないだろう。

この先も、生きている限り。


*************************************************


暗く風通しの悪い房…ある男が座っていたこの椅子に、今度は俺が縛られている。

その男はついさっき、俺の前で木っ端微塵になった。
不思議なものだ。
あまりに呆気なく人が死ぬ。
もう戦争は終わったはずだというのに。
そしてその死屍累々へ、とうとう俺も仲間入りというわけだ。
…違う。
だめだ。
この命は、もはや俺だけの命ではない。
どれだけ無様でも、何をしてでも、生き抜くのだ。

——大尉、君は運がいい。

背広を纏った死神は俺を見てそっと微笑む。

——一度だけ、チャンスをやろう。

——君が手に入れた情報には、彼らの次のテロ攻撃に関する情報が管理されていた。

——そこでチームが現場へ向かったが、あいにく今狙撃手が出払っていてね。

——手続きを踏んでいる時間はない。君が、任務を全うしてくれないか。

——汚名返上を兼ねて… な。

死神は、再び微笑んだ。

そして何事もなかったかのようにブリーフィングを始める。
今回の標的…ウォータールー駅は、言わずと知れたロンドン最大のターミナル駅だ。
大戦の影響で郊外への便は未だ出ていないが、当時野戦病院として使用されていた名残で一部が医療施設に改装されている。
何かあれば、犠牲者は数千人に及ぶだろう。
…俺は少し疑心暗鬼だった。
初めてだからだ。
本当の意味の”治安維持”を自覚することが。
だがそんなことを言っていられる身分ではない。
幸運と思うべきだ。
沢山の人の命を救うことで、自らをも救えるのだと。
俺はヘリコプターでウォータールーへ急行した。
既に地上では予定時刻を前に対象の実行犯を捜索している。
"対象"…例のデータの中には、爆発物を搬送する人間の外見的特徴が明記されていた。
恐らく危険物を受け渡しする際に使用する資料なのだろう。
実際過去に起こった事件を遡ってみると、その資料に記載された人物が必ず発生前後の映像に捉えられていた。
AIの分析では、その運び屋が直接今回もテロを引き起こす可能性が高いとされている。
故に被害を事前に食い止めるべく、彼らは人の流れを追っているのだ。
だがもし、万が一駅の中へ実行犯が入り込んでしまった場合…。
その時が俺の出番だ。
俺は常にこの空で待機し、駅の中を動く実行犯が爆死する前に狙い撃つ。
本当に最後の最後、起爆を防ぐための重要な役回りだ。
本来であれば構内を死角無く狙える建物の一室に陣取ることが理想なのだが、広大で複雑な作りをしたウォータールー駅にそんな射線は存在しない。
なんなら不安定な機体の中で轟音の止まぬ中、動く的に狙いを定めるなんてはっきり言って無茶だ。
だからこそ俺が選ばれた。
今俺は崖っぷちで、誰よりも研ぎ澄まされている。
引き金に触れた人差し指へ、全感覚が集中されている。
…必ず撃ち抜いてみせるさ。
視界右辺では、駅構内の監視カメラ映像がモニターされている。

「実行犯は水色の上着、緑のキーホルダーを付けた黄色いリュックサックを着用。」

これが俺たちに与えられた確定情報だ。
ひとまず俺は今、彼らを信じて空で待つしかない。
兎角今回の情報を引き出したのはこの俺だ。
今となっては、そのことに意味がある。
このテロを阻止し、家族が逃げ出せる時間を稼ぐのだ。
上官の目を盗んで、彼らへ迫る危機的状況を知らせるのだ。

だがいくら時間が経っても、地上から容疑者に関する報告は上がってこなかった。
そして犯行予定時刻まであと5分となった刹那、俺の耳小骨がまた揺れた。

——大尉、14番を見ろ。

俺はモニターの映像を切り替える。
それは駅構内、6番線ホームの監視カメラ映像だ。
急な展開による混乱を避けるべく、この危機的情報は市民へ知らされていない。
ありふれた日常の1ページだ。
教員と見られる大人たちが、生徒であろう子供たちを引率して歩いている。
それは物騒になった世情を表現するかのように、子供たちを囲みながらずっと左右を気にしていた。
だが上官が俺に伝えたかったことはそこじゃない。
先頭の列前から7番目。
他の子供たちよりも、一回り小さな男の子だ。
まんまるのメガネが、その小さな顔と相対してとても大きく見える。
それだけじゃない。
彼は体の大きさに見合わないくらい大きなリュックを背負っていた。
それは黄色くて…緑色の何かが揺れている。
まるでコバルトブルー一色の上半身から、今にもはみ出してしまうくらいに。

「…笑えないジョークですね。」

——私は本気だ。

「まさか…子供ですよ?ありえない!」

——なぜそう言い切れる?お前はテロリストの考えがわかるのか?

「だったら今すぐ地上部隊に指示を!」

——命令は出した。だが残り2分を切っている。君には万が一のため準備をして貰いたい。

「ふん、あなたが言いたいのはこういうことか。…憎しみという感情すらまともに知らない小さな子供を射殺しろ。」

——違う。テロリストだ。

「証拠は何もないじゃないか!」

——証拠ならある。他でもない、君が手に入れた証拠がな。

「ふざけるなっ!」

——つべこべ言わずに黙ってやれ!せいぜい祈るんだな…地上の野郎共があのガキを捕まえるように。

「…………!」

当たり前だが、俺は子供に武器を向けたことは一度もない。
決して…これから先も…。

いや、大丈夫だ。

子供たちの列は、ゆっくりだが確実に駅の外へと向かっている。
そして人流をかき分けながら、隊員たちも必死に走っている。
この世界に神がいるなら。
私のことをお守り下さっているのなら。
きっとこのまま…何事も…。

なんてことには、ならなかった。

犯行予定時刻1分と7秒前。
1人の子供(suspect)が列から突然飛び出した。
…その黄色いリュックを上下に激しく揺らして。
教員たちは完全に不意をつかれた。
周りの子供達のざわめきに気づく頃には、もうそこに彼はいない。
俺は心臓が飛び出しそうになった。
自ら生み出した安息の地から一瞬で叩き出された。
男の子は一目散にどこかへ向かって走っている。
俺は直感的に理解した。
彼が向かっている先は、少なくとも出口の反対側。

終わりだ。

ゲームセット。

だがこれはゲームではない。
現実だ。

必ず、オチがある。
このまま視界がフェードアウトしてくれたらどれだけいいか。
でもそうはならない。

…ならないのだ。

——これより容疑者の射殺を許可する。直ちに容疑者を射殺せよ。

だめだ。

俺に子供を狙うなんて絶対にできない。

できっこない。

まだ足を止めてくれさえすれば間に合うかもしれない。
残った30秒で、地上の隊員が彼を捕まえられるかもしれない。
それでも彼は、足を止めなかった。
あの先は病院棟だ。
俺に引き金を引かせるカードが、勝手に次々揃っていく。

——何してる大尉、やれ。

「…できません。」

——早くしろ!起動される前に殺せ!

「俺は…!」

——よく思い出すんだな!何の為にお前がそこにいるのかを!

「……!」

——自らの手で愛する家族を殺すか、それとも照準の先にいるテロリストを殺すか。

——自分で選べ。

その時、突然男の子が走るのをやめた。

…だめだ。

右手の人差し指が震えた。

リュックにだけは触れないでくれ。

何もせず、そのまま引き返してくれ。

だが俺の願いなど、呆気なく神は嘲笑う。
彼は背負っていたリュックを下ろした。
ゆっくりと、ファスナーに手をかける。

——もう時間切れだ!

——ガキを殺せっ!!

——今すぐにっ!!!


俺は号哭にも等しい声で叫んだ。
それしかできなかった。
このあまりに愚かな現実を、どうにかかき消すために。
でもそんな些細な抵抗も、刹那の閃光で何もかも弾け飛んだ。
時が静止する。
胸の底から何かが抜け落ちていった。
手を伸ばす間もなく、それは遥か地上へと消える。
あれはなんだったのだろう。
そんな思考回路が止まった秒針を刺激する。
加速した時が俺を受け入れる。
そして俺は何もかもがわからなくなって、ただ震えて、ただ泣いた。
ヘリはゆっくりと駅を離れていく。
耳小骨から死神の小さな声が聞こえてくる。
でももうそんなことはどうでもよかった。
俺は、一つだけわかっていた。
あの時聞こえた銃声で死んだのは、他でもないこの"俺"なのだと。
もう二度と、光差す空の下を歩くことはできないのだと。

絶対に失ってはいけないものを、失ってしまったのだと。

*************************************************

再び冷えた夜風に身を晒す。
俺は一度引き返し、店の外へ出た。
正面突破で彼らを救い出すのは理論上不可能だからだ。
…目的は変わった。
裏手から入り込み、見張りを1人ずつ片付けていくしか無い。
俺は抜いていた拳銃を腰にしまった。
ここまでくれば引き金を引く心配もない。
スニークには銃など邪魔なだけだからだ。
…脅しくらいにはなる?
いや、今回のプランではそれも無意味だろう。
俺はまず、7mm弱のケーブルホールを探すことにした。
確かこの辺りはインフラ統合計画で、統一区画の電線を地下から引いてきているはずだ。
案の定緑色の細長い線が建物の壁…分電盤へと伸びている。
所々ネズミの歯形がついた貧相なケーブルだ。
俺が手を下さなくとも、いずれは勝手に電気が落っこちていただろう。
一般的に、小規模店舗は分電盤の裏へ直接ブレーカーを設置している場合が多い。
ふと上を見上げた。
換気用の小窓が、だらしなく外に向かって開いている。
…運が良い。
俺は煉瓦質の外壁に指をかけ、小窓へ向かってよじ登った。
正直、登り降りの瞬間は完全に無防備だ。
だからもし降りた先に誰かいようものなら、その瞬間有無を言わせずゲームセットとなりかねない。
だがそうはならなかったようだ。
俺は小さな窓になんとか胴を通し、粘土質の床へと着地する。
ここは…裏の倉庫といったところか。
小さな陶器からメリーゴーランドのおもちゃまで、色とりどりの雑貨が大きな棚へ収められていた。
年季の入った王冠なんかもある。
…そういえば昔友人に王冠を集めるのが趣味の奴がいた。
彼ならきっと大はしゃぎすることだろう。
俺は小さな豆電球の彩光を頼りに、店舗用のブレーカーを見つけた。
どうやら館内全体の電力をここから管理しているようだ。
俺は背伸びをしてそのアンペアブレーカーへと手を伸ばす。

パチン、と小気味好い音がした。

一瞬の出来事だ。
天井の豆電球が消える。
辺りは闇に包まれた。
言うなれば慰め程度にだらしなく空いた窓がか細い月明かりを拾っているだけだ。
俺はそんな僅かな導を頼りに、錆びついた倉庫の扉をゆっくりと開く。
廊下に出た途端、右奥から人間の話し声がした。
突然の出来事で戸惑っているに違いない。
方向的にも向こうが店舗スペースだろう。
左に行けば恐らく裏口に出る。
確かあっちにはセダンに張り付いた見張りが1人いたはずだ。
…挟まれる前に片をつける必要がある。
俺は早足で店舗の方へと向かった。
これは恐らく従業員通路だ。
狭くて、そもそも暗い。
だからはっきり言って何も見えなかった。
方向感覚と、音の反射を頼りにどうにか前へ進む。
耳を澄ませてみると、何やら足音がこちらへ近づいてくるように聞こえた。
そしてそれは確かに、だんだんと大きくなっていく。
突然目の前に、黄色い閃光が輝いた。
俺を照らしているのではない。
光源を手にした何者かが、すぐそこの角まで迫ってきているのだ。
目がチカチカ眩むのを堪えながら、俺は側の給湯室へと逃げ込む。
…どうする?
きっとこのまま大人しくしていれば、俺に気づかないまま素通りしていくだろう。
だがそれではきっと、事を起こす前に電気を復旧されかねない。
照らされてしまえば撃ち合いになる。
そして俺の事情関係なく、人質がいる時点で俺に勝ち目はない。
俺は全神経を耳に集中させ、狭い通路に響く鋭音を拾った。
光はどんどん輝きを増していく。
もう少し… もう少し…。

今だっ!

俺は心の声に従って、廊下へ片足を突き出した。
刹那硬い何かが勢いよく俺の脛へぶつかる。
だが力強く伸びた俺の足が負けなかった。
影が言葉にならないうめき声をあげる。
金属質の何かが叩きつけられる音がした。
輝きも共に鳴動し、パトランプのように半回転する。
そして主を失い床を照らすフラッシュライトを目にした俺は、躓いて倒れ込んだ影へ素早く一歩近づいた。
影が俺の存在に気づく。
両腕を後ろに引いた。
体勢を立て直すのだ。
でももう間に合わない。
倒れ込んでしまった時点で、結果は決まったも同然だった。
俺は僅かに照らされた影の後頭部目掛けて踵を振り下ろす。
…狭い通路にも響かない、鈍い音がした。
引いていた腕がだらりと垂れる。
立ち直る気配はない。
俺はフラッシュライトを手に取り、右手で灯りを覆った。
続いて腰回りを確認し、拳銃を没収する。
息があるかの確認はしなかった。
殺すことが目的ではない。
俺は魂の抜けた身体を給湯室の隅に移した。
万が一、セダンにいた見張りがこの通路を通った場合に備えて。
…先へ進むとしよう。
灯りは消した。
この暗闇に目が慣れるまで、またしばらくかかった。
でも従業員通路はまもなく果てに辿り着きそうだ。
そして2階へ上がる階段と、1階の店舗へ続く2枚扉が同時に現れる。
外から見た限り2階に窓は無さそうだった。
暗闇であれば上からの視線は下へ一切通らない。
俺は迷わず手押し扉に手をかけた。
ゆっくりと、小さく蝶番が軋む。
漆黒一色だった通路から、少しずつ景色が変わっていった。
そこでは僅かに差し込む青白い光が、うっすら事物の輪郭を象っている。
まるで深夜の学校に潜り込んだ時のような、そんな感覚がした。
相変わらず奥からは細切れに慌ただしい声が漏れ出している。
俺は声のする方へと姿勢を低くして進んだ。
この辺りは家具や洋服類が隙間なくずらりと並んでいて隠れやすい。

『パパは夜が怖くないの?』

体の震えで足が止まった。
娘の声だ。
…聞こえるはずがない。
それがわかっていても、狼狽を隠せなかった。
闇は、悪夢を映し出す鏡だ。
俺はあれ以来常に囚われ続けていた。
だから今となっては、俺も夜が怖い。
刹那、目の前にまた金色の輝きが現れた。
左右を数秒周期で照らしながら、明度的に少しずつこちらへと近づいている。
俺は一度来た道を引き返した。
まだ恐らく上にも見張りがいる。
これだけ暗ければ、ほんの少し漏れ出た光を浴びるだけでも目立ってしまう。
俺は隠れられる場所を探した。
だがそう簡単に都合の良い場所は見つからない。
ちょうど今いる場所が、秋冬物の売り場だった。
俺は煩雑にかけられているダッフルコートたちの中へ無理矢理身体を埋めた。
普通のかくれんぼなら一瞬でアウトだろう。
でも今は真っ暗だ。
しっかり照らされさえしなければ、気づかずに素通りするはず。
前提条件として、ライトを持つ人間を襲うことはできない。
上から見れば、そこで何が起きたのか丸わかりだからだ。
案の定、光源は俺が通った道をなぞるかのように近づいてきた。
まるで振り子でもついているのかと思うくらい、ふらふらとそこらを照らしている。
…嫌な予感がした。
さっきとは、何かが違う。
不規則不安定な足音、アシンメトリーな照射範囲。
俺個人には計算できない、イレギュラーが詰まっている。
そしてその輝きは、まさに目の前に。
こちらへ向かないことを祈った。
ただ気づかないまま、左へ抜けてくれることを祈った…。

「………!!

俺の足元が、美しい閃光に晒される。
そこはダッフルコートで隠しきれない、まさに急所。
ライトを手にした男は、一瞬状況を飲み込むことができず戸惑っていた。
当たり前だ。
見知らぬ人間が、売り物のコートの中に隠れていたのだから。
…チャンスだ。
俺は天へ届かなかった祈りを嘆くより早く、コートの中から飛び出した。
男が身の危険を感じ身構えようとする。
だが飛び出した勢いそのままに伸ばされた俺の右手から身を守るには余りに時間が足りていなかった。
左頬に強烈なストレートが直撃する。
衝撃で男は2歩ほど後退した。
だが流石に相手も戦い慣れているようだ。
殴られた衝撃を上体で流して姿勢を落とし、素早く左手を腰に回した。
…無駄のない完璧な立ち回り。
だが一つだけ残念な点がある。
それはこの俺も、近距離戦闘においてはプロだということ。
1歩前へ前進し、右足をサイドから振り上げる。
そして男が拳銃を抜いて構えた時、丁度右足がその手首ごと跳ね飛ばした。
狙う隙など作らせない。
俺はさらに距離を詰めようとしたが、それに伴って素早く男もバックステップした。
右手のライトを床に捨て、ファイティングポーズを取る。
よく見るとバタフライナイフを握っていた。
どうやら品揃えは充実しているらしい。
今度は男から一歩前進し、刃を横薙ぎに襲ってきた。
暗がりでは通常時よりも空間認知能力が衰える。
その切先は裕に30cmも届かない場所で泳いだ。
…不気味な青白い光が虚空で遊ぶ。

この隙を逃す訳にはいかない!

俺は一気に距離を詰めた。
すかさず右肘で男の鼻を殴りつける。
男が衝撃で半歩のけぞった。
きっとまだ奴の時間は止まったままだ。
俺は懐へ入り込み、そのまま両手で男の右手首を押さえ込む。
そして大きく半円を描き、腕ごと手首を捻り上げた。

「んあぁぁっ!」

バタフライナイフが主を失い床へと落ちる。
つまりこの勝負は俺の勝ち…。
そう思った矢先だった。

「c'est quoi ce bruit?」

見張りたちの声だ。
男の叫び声が、他ならぬ彼らのスイッチを押してしまった。

——まずい。

俺は男を蹴り飛ばし、そのナイフを拾い上げる。
そしてそのまま大股で一歩ずつ近づいた。
頭上からは光が差し込み始めている。
刹那男は俺を一瞥した。
だが迷っている暇はない。
思いっきり腕を振るい、俺は男の首元を狙った。

その瞬間頭の中で、弁護士を拷問していた時の自分が蘇る。

ナイフを握る手が震えた。
返り血で上半身は赤く染まった。
どすりと耳慣れした鈍い音が足元で響く。
俺は歯を食いしばって、足元で横たわる男の体から目を逸らした。
2階からはサーチライトのように光の線が何本も下へ降り注ぐ。
光の届かない場所へ、無心で俺は滑り込んだ。
どうやって人質を助ける?
もし仮になんとか引き金を引けたとして、撃ち合いで勝てるような形勢ではない。
人質に当たるリスクもある。
でも撃てないのならば、どうやって…?
だめだ、考えても仕方がない。
事が起こってしまう前に、取り返しがつかなくなる前に、動かなければ。
俺は右手でナイフを持ち、左手はフラッシュライトを握った。
念のためいつでも銃が出せるよう、腰のシャツを軽く捲っておく。
気づけば上からだけでなく、そこら中でフラッシュライトの光線が動き回っていた。
恐らく夜以降に活動する連中で、どこにでも忍び込めるよう全員が携帯しているのだろう。
強力なライトだ。
だから奴らがどこを歩いているのかは比較的判断しやすい。
俺は品物の影を上手く使いながら、音の記憶を頼りに人質の元へ急いだ。
ふと一つ、衣装箪笥の角を曲がろうした時。
突然誰かが影から姿を現した。
お互いライトをつけていなかったのだ。
心臓が飛び出すくらい驚きながらも一瞬、この人は人質側なのかもとすら思った。
だがよく見ると覆面を被っているではないか。
反応は相手も早かった。
腰に手を回そうとする見覚えのある動きだ。
だが不幸にも俺はすでに武器を手に持っていた。
反応は遅くても、動作は一つ少ない。
俺はフラッシュライトで思いっきり男の頭部を殴りつけた。

「Que faites-vous là?」

俺はその声へ咄嗟に振り向いた。
3mくらい離れているだろうか。
また新しい男の登場だ。
人気者は辛いね。
こいつは今までの奴らと違って既に銃を手に持っていた。
狙われる前にどうにかせねばならない。
俺はフラッシュライトを敵の顔面目掛けて照射した。
反射的に奴の腕が自身の視界を覆う。
その隙にナイフを思いっきり投げつけた。
ナイフは男の無防備な胸部へと吸い寄せられていく。
そしてむごたらしい濁った音と共に、男は倒れ込んだ。
俺は無意識に腰から拳銃を引き抜く。
本能的に全てを悟ったのだ。
もはや何処に居たっていずれ俺は見つかる。
そしてどれだけ1人1人の押し入りを処理したところで、結局ただの時間稼ぎにしかならないだろう。
床に横たわる二つの影を思考から消し去り、俺は走り出す。
上からバレたって関係ない。
そうだ。
今の俺なら、数年ぶりに戦場の本能が目覚めた俺なら。
この引き金が引けるかもしれない。
だから急ぐのだ。
感情が全てを飲み込んでしまう前に。
どこまでも沈み込むように広がる闇が、その大きな口を開けてしまう前に。
隠れることをやめた途端、驚くほど世界は狭くなった。
すぐそこだったのだ。
小さな女の子と、30代後半程度の男女が両手足を縛られ座らされている。
そこは2m弱のパーテーションで区切られたちょっとした大部屋だった。
大きな寝具が何個も並べられている。
そういう売り場なのだろう。
俺はその大部屋の様子を少しだけ伺った。
正直もっと見張りがいると思っていたが、どうやらさっきの騒ぎで随分と人がはけたらしい。
…チャンスだ。
俺は左右を確認した後、足音を最大限殺しながら大部屋へ駆け込んだ。
まず先に俺へ気が付いたのは人質の男性だった。
一瞬敵意剥き出しの表情を浮かべたが、俺が覆面をしていないのを見て眉間の硬直が緩む。
中へ入ると、外からは見えなかったがまだ1人だけ見張りが残っていた。
俺の乱入には気が付いていない。
ゆっくりと、俺はそいつへ拳銃を向けた。
安全装置を引く。
その音に反応した。

「動くな。」

俺は振り向かれる前に、一言そう言った。
これでこいつは微動だにできない。

…そう思っていた。

だが奴は何事もなくこちらへ振り向いた。
俺のことをまじまじと見つめる。
引き金を引け!死ぬぞ!
俺の本能が叫んだ。
ふと、暗闇の中人質にされている女の子が視界に入った。
彼女はまるで怪物を見るかのような目で、俺のことをじっと眺めている。

『パパは私のヒーローです』

また脳裏に娘の声が響いた。
一瞬にして世界がまた歪み始める。
違う。
俺はもう怪物なんだ。
きっと君たちも俺を許せない。
それだけのことを、俺はやったんだ。
人差し指が凍りついた。
本能は深い闇に飲まれ駆逐された。
ここにいるのは危ないおもちゃを持った無力な大人。
そして敵もその事実に気づいたらしい。
さっきからお決まりの流れだ。
“危ないおもちゃ”が、俺へとゆっくり向けられていく。
もう足が届くような距離でもないし、投げ物だって持ってない。
万事休すだ。
怪物同士の醜い共食いは、結果俺の敗北という形で幕を閉じた。
誰も救えず、本当に無様な死に方だ。
でも多分それが俺に相応しい。
俺自身はそれでも構わなかった。
…でも。
少女たちを救えなかった。
見殺しにすることしかできなかった。
それだけはどうしても心残りだった。
涙を堪えることができなかった。

「——ごめんね。」

目を閉じ鉛弾による裁きを待つ間、俺はただ胸の中でそう繰り返した。
そこは自然光のみが差し込む刹那の常闇。
矛盾と虚構の詰まった大いなる混沌の中で、俺にはその言葉だけが真実だった。
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