17 偽善

文字数 3,697文字

赤くて大きい夕陽を背に、ただ静かなエンジン音へ耳を傾ける。
そうしていればいつか眠れると思った。
でも、ダメだった。
僕の脳裏には真っ白で無機質なあの光景が焼き付いて離れない。
人間の業を全て詰め込んだような、まるで表世界の"地獄"。
命を弄び、産まれてはならなかった者たちを作り上げた”母体”。
一体誰の罪なのだろうか。

…僕たち?

もしこれが償いの旅だと言うなら、きっとそうなのだろう。

ふと目線を外にやると、150m程先に小さなモーテルが見えた。
僕は素早くモニターを触り、一度タクシーに停止を指示する。
「…降りるのか?」
ずっと浅く眠っていた彼はまだうとうとしている。
「早めに休める場所を確保するべきだ。…こんな様じゃ。」
「…そうだな。」
彼は今まで見たこともないくらいうんざりそうな顔で、僕に返事をする。
無理もない。
リュジーで僕らが目にしたものは、十分絶望に値する。
——ここまで人間は愚かだったのか。
——ここまで現実は荒んでいるのか。
頭ではわかっていたとしても、いざ目の前にした時の衝撃は計り知れない。
拳を握りしめた。
この世界の秩序はきっともうぐちゃぐちゃになっている。
あの唐突な核攻撃が、漠然とした混乱を決定的な混沌へ変えた。
ショッピングセンターでの出来事が脳裏へ浮かぶ。
リュジーで出会ったあの兄弟たちは、むしろ被害者だったのかもしれない。
舗装の禿げた砂利道を進む。
モーテルのエントランスは既に電気が消えていた。
中を覗こうにも誰1人見つけることができない。

「…適当な部屋をこじ開けよう。」

僕らは西にまっすぐ伸びた個室群へと向かう。

>>ドォン

「…なんだ?」
タクシーを降りた国道の向こう、分岐した細道の先に小さな建物が見えた。
林立した木々でよく見えないが、火花のような光の余韻がゆらりと揺れる。
…散弾銃独特の耳に残る低音反響。
黄色い叫び声がした。
きっと女性の声だ。
ガラスの割れる不穏な軋みが後に続く。
「——押し入りか。」
クーデター以降、攻撃性の高い強盗犯罪を一般にそう呼ぶようになった。
所謂町外れの片田舎ならこれはさほど珍しい光景でもない。
放っておくべきだ。
自分の身は自分で守る。
異常事態での鉄則だ。
「…助けに行かないと。」
僕は彼の腕を掴んだ。
「ダメだ。俺たちはここで大人しく——」
「放っておけるはずないだろ!」
僕の右手が宙を舞う。
だが彼の喉にかかったような言葉は、もはや僕のこめかみを掠って空しく抜けていった。
「…つまらない議論をするつもりはない。セバスチャン、引き下がってくれ。」
彼は僕の目を見つめる。
「"自分の生き方を決めるのは自分自身"、お前はあの時そう言ったな?」
「…言った。」
「俺は罪の無い人々を守りたい。それが俺の生き方だ。俺の選択だ。だから、」

「嘘をつくな。」

「…何?」

「あんたはもう自分の生き方なんかろくに考えちゃいない。違うか?」

一歩、僕は踏み込んだ。
踏み込んでしまった。
口にして一瞬後悔した。
だが合理的な回路が瞬く間に全て肯定する。
——娘の話を懐かしそうにする彼。
——運転手に親子だと勘違いされた際の彼。
——ガレージの向こう側で、刹那虚無を身に纏った彼。
——フランクフルトでArgosが示した…彼の情報。
いずれは答えを出さなければならない。
しばらく僕たちはじっと見つめあった。
何故か背中にじんわり汗をかく。
その時間、世界は僕たちだけになった。
第三次大戦も、押し入りも、ネメシスも、何もない世界。
あの時…それはクリスが撃たれた瞬間に、とてもよく似ていた。
そして僕の蒸されきった葛藤をよそに、彼はゆっくり目を閉じ、そして呆れるように弱い笑みを浮かべる。
「…そうか。」
「————。」
僕は下を向いた。
同時にふっ、と呼気が音で漏れる。
彼に鼻で笑われたのか、それともただ息が上がっていたのかまではわからなかった。
「オリバー。君を俺の勝手な都合に巻き込んでしまったこと、申し訳ないと思ってる。だが君も初めは俺に付き纏われるのが嫌だったはずだ。向こうの様子を確認したら、俺はそのままここからいなくなる。もう好きに行動していいんだ。悪くない話だろう?」
彼はまるでスーパーの売り子のような軽い口ぶりでスラスラ言い放った
その作られたような抑揚は耳障りなノイズとなって鼓膜へ残る。
「…セバスチャン。」
「オリバー。少しの間だったが、お前と共にできて楽しかった。幸運を祈って…」

——人を撃てないだろ。

僕の一言で、彼の表情から笑みが消えた。
笑み、と言うより、人間味の一切が…消失した。
無色透明な…主を失ったかのような。
僕の見えないところで、彼はきっとずっとこんな表情をしていたんだ。
そして僕の前で快活を装う度、彼はそんな自分から逃げ続けていたんだ。

「ここであんた自身の能力の是非に関して議論するつもりは全くない。過去のことを今更掘り返して、不毛な押し問答をする気もない。ただ銃無しで、どうやって戦う?またお得意の仕掛け技か?ふん、あの家の天井にもマグロが釣られてるよう今から神様にお祈りしておくんだな。」
「この俺を馬鹿にするなっ!」
絶叫と共に彼はホルスターから銃を引き抜いた。
約50cm先、銃口はまっすぐ僕の額へ向けられている。
「…なんだよ撃てるのか?どうだ、撃てるものなら撃ってみろよセバスチャン!!」
…………!!!!
彼は歯を食いしばり、言葉にならない叫びを漏らす。手元は震え、腕も首も顔も筋張った。
僕も負けじと叫び返す。
安全装置は外れている。
下手をすれば僕の頭は外灯すら照らされていない側溝の闇へと吹き飛ばされてしまうだろう。
でも彼は、”彼”だという確信があった。
胸のどこかで、僕はセバスチャンを人間として信じていた。
出会ってたった数日の男を。
不審者で、内面性の合致を一切見出せないこの男を。
…合理的な理由など見つからない。
ただ一つ強い思いがあるだけだ。
"彼を死なせるわけにはいかない"
銃口から視線を外し、僕は彼を見つめ直す。
「…なんとかしてやりたいと思う気持ちは半分本当だろう。それは僕だって、同じだよ。わかってる。でも僕らの命は僕らだけのものじゃない。自分たちが死ぬかもしれない危険は冒せない。わかるでしょ?」
「…だからお前は来るな。俺1人でいい。」
「ふざけるなそれじゃあ死ぬだけだろっ!!」
「そうは…ならない。」
彼の言葉はもう死んでいる。
中身のない、生に背を向けた言葉だ。
この会話にもはや意味はない。
となればできることは一つだけだ。
彼自身だって、きっと今そう思っていることだろう。
「手荒なことはしたくない。それでも、あんたが行くと言うなら…黙って行かせるつもりはない。」
2本の指を動かし手袋のロックを外す。
右手で取り外す準備はできた。
「…そうか。」
銃口が下へ傾いた。
彼は僕の首元へ視線を投じている。
何を考えているのか、そこにもはや標となる灯火はない。

「オリバー…」





…残念だ。

刹那、彼の目に力が入った。
銃口は再び額へと向き直る。
咄嗟の展開に、理性を超えて本能が叫んだ。

撃たれる!!!

瞬時に右手が彼の銃めがけて飛び出した。
はたき落とす、いやせめて向きを変えるのだ。
弾が飛び出す前に、引き金が引かれる前に!
その時遅れた理性の声が届く。

彼に撃てるはずがない。これは…

瞬間理性が口を噤む。
彼が銃を手放したのだ。
スローモーションで、ゆっくりとそれは重力に引かれていく。
僕はそれをただ目で追っていた。
理性が新たな展開へ追いつくまで。
彼は一歩前へ踏み出した。
理性が叫ぶ。

近づかれた!身を守れ!

だがその時本能は悟った。
義手を外すはずの右手は、銃を追いまだ宙を舞っている!
ふわりと飛び上がる彼。
咄嗟に身を守るため左手で庇う。
だが間に合わない。
彼の右足が視界へと、まるで浮かび上がってくるように。
側頭に稲妻が走った。
衝撃でそのまま体が持って行かれる。
だめだ、起き上がらないと!
でも頭がぼーっとする。
視界の左半分はぼやけて判然としない。
右肩を打ちつけた痛みが、思考の隅で細々と主張する。
すごく気持ちが悪い。
影がこちらへ迫ってくる。
…セバスチャン。
今僕は、彼に対して何もできない。
右目が彼の行動を捉えた。
ゆっくりと、銃を拾い直す。
そして狙いを定めた。

——僕の左腕へ。

「…やめろっ。」
「すまない。でも俺は、もう疲れたんだ。」

一発。
ぼやけた視界で光が弾けた。

「ああああああああっ!!」
禍々しい輝きが脳裏に焼き付く。
痛みは何も感じない。
でも左手は… 動かなかった。
動かない。
ぼやけて実像すら捉えられない。
不安と怒りで絶叫した。

「…すまない。」
彼は踵を返した。
だめだ。
行かせたらだめだ。
でも、思うように起き上がれない。
息があがる。
それでもどうにか、僕は声を絞り出す。

「そんな死に様で本当に家族と目を合わせられるのか…!」

彼は振り向かない。

「心から抱き締められるのか…!」

足早に、どんどん遠ざかっていく。

「どうなんだよセバスチャンっ!!!」

僕の叫びは虚しく薄暗い空へと消えていく。
硝煙の焦げたような香りが、視界に映る彼の姿をますますぼやけさせていった。
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